いま、なぜナチュラルワインか(1)

2013.11.29   塚原正章

はじめに
 先日、日本橋街大学でナチュラルワインについて話をする機会があったが、時間的な制約もあって思いどおりに論じることができなかった。そこで、あらためてナチュラルワインについて、「議論の本位を定める」(福沢諭吉)試みをしたい。今回は、その前置きの部分を述べよう。

1.ナチュラルワインへの視点
 いくらファッショナブルだとか、国内ジャーナリズムを騒がせているからといって、取り上げられたワインを重視する必要はない…たとえば○○産や○○型、○○生産者のワイン(あなたが問題と思う固有名詞などをいれてください)などが、あなたにとって違和感が強いと感じられたとすれば、それは見方の違いでなければ、取り上げた人や媒体、取り上げた背景に問題があるのかもしれないからである。そのワインが、特別な注目に値する積極的な理由がなければ、少なくとも私にとっては意味がない。およそ意味とは、ある価値観にのっとって、こちら(主体)があちら(客体、対象)に付与する重みづけのことであって、いわば価値の質量といってもよい。それは、ワインの世界でも同じこと。特定のワインの意味=価値は、外から与えられるもの(論者の評価点など)ではなくて、自分にとっての共感度や切実さ、位置づけを表すべきものなのである。

ワインの意味(要件)
 あるワインが、少なくとも私にとって、意味があるとは、次の条件が満たされていることである。
1) 美味しい:good to taste=(品質quality×状態condition)
2) 身体(健康)にとって好ましい:healthys
3) 価格が価値に見合っている:value for money
4) 仕事に向いている: fit for business
 このうちで、4)はワインのインポーターやワイン関係者にとって仕事の種になるかどうか、という特殊条件であって、一般には妥当しない。そこで、上記1)~3)のかなり主観的な3条件をワインが満たしているかどうかが問題となる。理想的には3条件が同時に満たされることであって、私にとってナチュラルワインは、それに該当しうる数少ないジャンルであることは確かだ。

ナチュラルワインの定義に向けて
 そこで、ナチュラルワインとはなにかという定義を明らかにしなければならない。けれども、これがワイン界でも「ミネラル風味」“minerality”とならぶ、いわくつきの難問なのである。なぜだろうか? 論者に一致した定義がないだけでなく、ナチュラルワインについては特に好悪が大きく分かれるからである。つまり、
1) 各人とその人の(ワイン界における、あるいはワインに対する)立場や利害関係によって、ナチュラルワインの定義が大きく異なる。
2) ナチュラルワインは、人によって好悪が激しく、肯定的か否定的かに二分される。
いずれにせよ、その背後には、
3)「ナチュラル」“natural”あるいは「自然」“nature”という言葉そのものの定義が難しい
という事情がある。要するに、ナチュラルワインは、現在のワイン界における一大争点なのである。

自然の死
 一般的にいって、現代文明には太古や原始時代におけるような意味での、「暴威を振う、畏怖すべき、裸の」自然―wild natureはほとんど存在しない。その例外は地震や津波、台風などの破壊的な自然現象に限られる。長らく西欧社会において、自然は文化の敵扱いされ、征服の対象であるという発想が支配的であったとされる。それゆえ征服を免れて偶然的に生き残ったのは、特定地域だけ。多くの人が持っているのは、自然という観念なのである。現代社会で自然という言葉は、懐疑的にいえば「自然に見えるもの」を指すと思しい。たとえば、「ナチュラル・メイク」という化粧用語が、その典型であるように。「神は死んだ」(ニーチェ)をもじって、「自然は死んだ」といった方が、実情にちかいだろう。
 にもかかわらず、自然の死という状況から、いわばフェニックスのように再生して立ち上がるのがナチュラルワインであると見ることができる。

2. ナチュラルワイン考-類語の整理案
 ナチュラルワインnatural wineは、フランス語では英語と同根のvin naturelヴァン・ナチュレルであるが、日本では法律や行政に慮ってナチュラルや自然という言葉を避け、「自然派ワイン」という党派性を帯びた不自然な呼び方が普及している。
 ナチュラルワインの類語ないし関係語には、ビオロジックワインbiologic wine(ここでは“BW”と略)と、バイオダイナミックワインbiodynamic wine(同“BDW”)がある。有機ワインorganic wineとほぼ同義とされるBWは、日本では「ビオワイン」という愛称(または蔑称)でも通っている。BDWは、「バイオダイナミック」(同“BD”)という英語の形容詞が長くて発音しにくいためか、フランス風にビオディナミ[の]ワインと呼ばれることもある。

 これら3語の意味には、共通した部分と、共通していない独自の部分がある。人によって定義が異なるのを承知の上で、あえてこれら3語の整理を試みよう。おおざっぱにいえば、広義のナチュラルワインには、有機農法で造られたBWと、ビオディナミ農法に依拠するBDWが、ともに含まれる。ナチュラルワイン、BWとBDWの3者に共通した芯の部分は、ブドウ畑で化学物質や化学薬品(殺虫剤、殺菌剤、除草剤など)、合成物質(化学肥料など)をできるだけ避けるか、まったく使わないという志向である。
逆にいえば、これら3種類のワインの定義はそれぞれ難しいが、差別化の対象、つまり「そうでないもの」は比較的はっきりしている。つまり、これらのワインが一致して敵と目するのは、旧来製法型ワイン(conventional wine)と、工業製品型ワイン(industrial wine)あるいは近代的ワイン(modern wine)なのである。

ビオロジックとビオディナミ
 BWとBDWとの共通点は、なによりもまず農法(ブドウの栽培方法)を指すのであって、醸造方法(ワイン造り)の規定ではないことである(注。EUの新規定では、2012年ヴィンテッジからオーガニックワインに醸造上の要件がふくまれる)。農法としては、先に挙げた化学性物質に対するネガティヴな態度だけでなく、自然の生態系と環境の維持尊重という積極的な発想をする。BWとBDWの農法上の違いは、BW農法にはさまざまな流儀があるのに対し、BD農法が徹底して自然の循環と天界の影響を重視すること。それはBD農法の創始者とされるルードルフ・シュタイナーの主張であり、シュタイナーが体系化した「人智学」の神秘的ないし宗教的な色彩をおびている。シュタイナー(と彼の信奉者による)農法では、天体(惑星、月、地球)の運行と位置関係が、植物の栽培と生育に特別な影響を及ぼすとし、その理論に基づいて独特な「プレパラシオン」を作って(または購入して)、ブドウ樹と堆肥作りに用いる。なお、シュタイナーについては続稿にゆずるとして、BDWにはデメターという認証機関とマークがあり、国別に認証基準を設け、有料で審査と認証をおこなっていることは、ご存じのとおり。

ナチュラルワインのナチュラルネス
 それでは、ナチュラルワインに特有な考え方、つまりBWやBDWとの相違点はなにか。それはnaturalの定義―いわば、「自然の純度」をどれだけ追求するか―にかかっているので、人やグループ、国柄によって考え方が違うことになる。積極的なナチュラル志向者たち(naturalistaと呼ばれる)は、BWとBDWは栽培面に限定された考え方であるとし、ナチュラルワインは栽培と醸造方法のすべてにかかわり、ワインに対してより高純度の自然を求める。さらには、「ナチュラルな味」という基準を要求する考え方もある。けれども通常ナチュラルワインは、醸造面で野生酵母の使用にこだわり、SO2使用の抑制または非使用を主張すると認められている。したがって、それらの(非)使用の程度、つまりは純粋度の追求度合いによって、さまざまなナチュラルワインが生まれることになる。
これらの理由―ナチュラルの多義性―によって、ナチュラルワインはさまざまに定義されるから、誰もが認める共通の定義はない、というのがワイン界での通説となっている。

運動としてのナチュラルワイン
ナチュラルワインのもうひとつの特徴は、それが運動(体)であるということ。英語ではひとくくりにして“natural wine movement”と呼ばれる。ナチュラルワインには、ナチュラルという崇高な目標があるが、大学で説かれる近代的な栽培醸造学にくらべて、栽培醸造の技法が確立していない(「科学」でないという)弱みがある。そのため必然的に、同じ目標を追求する生産者たちが集まり、経験を交流し技法を発展させようとする運動体やグループが形成される。が、まだ(あるいは永遠に)目標は実現されず、多少とも思想的な性格を帯びた運動という性格からして、運動はやや党派性を帯びるし、地域の刻印をも帯び、それに人脈と、リーダーや参加者の個人的な思惑もからむ。おまけに、どこの国や地方の生産者にも一匹狼がいて、一人一党になりかねない。というわけで、グループは大同団結せず、乱立して各自の正当性を主張しがちとなるのが、ナチュラルワイン運動の宿命のようである。たとえばナチュラルワインの大規模な催しは、フランス、イタリアと最近のイギリス(ロンドン)でのように、各派が分散して開くのが通例となっている。

運動性についてのニーチェ流解釈
 ナチュラルワインの運動性については、これとは別にニーチェ流の解釈をすることができる。ニーチェによれば、アポロン的(西洋合理主義)世界を破壊して、創造に導くのがディオニュサス的精神であり、その間に働きと運動が発生するとされる。ディオニュサスが、ローマではバッカスとよばれるワインの神であり、宴と祝祭のシンボルでもあることはいわずもがな。ここでワイン界におけるアポロン的なるものが、パストゥール以後に発展した近代醸造学にのっとる近代的もしくは工業製品型ワインだとすれば、それに創造的破壊を加えようとするのがナチュラルワインである、と見立てることができる。したがって、ナチュラルワインは運動を宿命づけられていることになる。Q.E.D.   (続く)

▲ページのトップへ

トップ > ライブラリー > 塚原正章の連載コラム vol.77