2013.07.26 塚原正章
【 前説 】
ある種の優れたワインの味わいにたいして、ワイン愛好家やワインライターが愛用する言葉に、「ミネラルがある」「ミネラリティがある」という表現がある。けれども、実際には、ワインの味わいのなかで「ミネラル」「ミネラリティ」がなにを指しているかについて、明快で科学的な定義はないという点で、世界のワイン専門家の意見はほぼ一致している。一致した定義がないという点では、「テロワール」という言葉も同じだが、テロワールについてはそれが存在するかどうかについては賛否両論が鋭く対立している。のにたいして、いかに定義不能であれ、ミネラルな味わいは、「好ましい」という意味でポジティヴな形容として、多くのワイン関係者から受け入れられている。
好ましい反応の表現ではでありながら定義できないというと、まるで一部の人の間におけるUFOのようなものであって、正体不明なところが面白いのかもしれない。わかる人にしかわからず、見える人にしか見えないのが、ミネラリティなのだろうか。名著『ワインの科学』を著したジェイミー・フードが、独立したワインコンサルタントのサム・ハロップMWとともに世に問うた好著“Authentic Wine”(カリフォルニア大学出版局;2011。未訳)でも、ミネラルあるいはミネラリティについては、独立した章はないけれども、第3章「テロワール」のなかで、ミネラリティという項目を立てられて、論議されている。この本に魅せられ、ついでにワインライター諸氏のレポート類を拾い読みしていたら、つい時間をとられすぎて、自説を述べる暇がなくなってしまったのは、いつもの例ながら、申し訳ないしだいである。けれども、明日からまた出張にでかけるのに支度はできておらずというドタバタぶり。そんなわけで今回もまた、本論の前書きに当たる雑文だけでもって、ワイン、いや、お茶を濁させていただきます。ゴメンナサイ。
質問から正解にたどり着く道
年配者ならたぶんご存知だろうが、敗戦直後のNHKに「二十の扉」という(「トンチ教室」と並ぶくらい)大人気のラジオ番組があった。出題者が念頭に浮かべているものを、20回以内の質問でもって、その内容を推測して言い当てられるかどうか、という趣向である。そのように単純だが意表をついた枠番組が人気を博したのは、藤倉修一という名司会者を得、質問=推定者にユーモアや独特な性格の持ち主や、鋭い勘の人たちを配したうえ、結果的にグループのチームワークが良かったからでもあろう。じつは、これはアメリカにあった同一の番組が、そのまま「輸入」されたのだと聞いたことがあって、そのアイディアの良さに感心したものである。
さしずめ、だれかワイン愛好家の頭のなかにあるワイン名(産地、畑名、ヴィンテッジ、生産者、インポーター名?)を当てろというような番組なのだが、ワインというフレームが決まり、出題者が誰であるかが明らかならば、たとえば完全なブラインド・テイスティングよりも、正解は難しくないかもしれない。
しかし、質問者側がまったく白紙状態で、出題者の頭の中身を推測するのは、雲をつかむような話である。そこで二重の扉では出題項目(聴取者から募集された)は、「動物・植物・鉱物」という分類だけを明らかにされていたように記憶する。
ちなみに、私の好みの順番は、ワインを植物に入れるとしたら、植物・動物・鉱物の順になり、ミネラルの順位は下がることになる。鉱物が食べられないことは事実であるが、なんだか、食べ物の好き嫌いのような話で滑稽だな。もっとも、液体・固体・気体の三態のなかとなれば、ワインが重きをなす液体がだんぜん首位で、料理を固体に属すとすれば固体が次位、泡やバブルが気体に含まれるとすれば泡料理はきらいだから末位ということになる。シャンパーニュを泡と呼ぶ人もいるが、私はこのような呼び方は避け、あくまでもシャンパーニュと呼んで、液体の首座におくから、私なりに矛盾はないことになるが、これは冗談。あなたも、なにごとであれ、好きな順番を選んでみるのも一興ですよ。たとえば、砂漠・平地(陸)・海では、どうだろうか。ちなみに安部公房さんや花田清輝さんは、砂漠派でしたがね。
コルクの寄与
ワインという本論にやや近づくとして、動物と植物の構成単位である「細胞cell」は、1665年に、ロバート・フックがコルクの薄片を顕微鏡でみて発見して呼び名をつけたのだが、当時はその発見が信じられず、それから約2世紀後にドイツの生物学者と動物学者(二人は旧知の間柄であった)がほぼ同時にそれぞれ生物と動物に細胞を(再)発見したとか。それにしても、フックがみつけた細胞では、コルクの細胞は乾燥していて生きてはおらず、密集した細胞壁の残骸だけがしか残っていなかったのだが、それにしてもコルクは学問に大変な寄与をしたのだが、これまた余談。
分類思考の重要性
本題に戻ると、アリストテレスの世界認識の学ではないが、やはり「動物・鉱物・植物」といった基本的な分類あるいは類的な発想が、世界といわず物事の定義には必要なのである。もっとも現在では、(リンネ式の)固定的な分類という発想には、ずいぶんと異論が投げかけられているようだが、ものごとの認識にはどのみち、分類的な「ターム」や概念が不可欠であること、いうまでもない。中尾佐助さんの『分類的思考』をごらんになればよう。
いわば、分類という作業をつうじて、類同関係を整理して、機能的な作業コンセプトをつくることが、たいていのばあい早道なのである。単に過去のものごとや結果の整理のためでなく、創造的な理解をするための方法としてみれば、私的な分類作業=カテゴリー化は、避けて通れないというより、有効な手法である。たとえば、文化人類学のフィールドワークを通じて川喜田二郎さんが開発したKJ法のように。
それにしてもここからミネラルへの道は遠いので、次回にさせていただきます。チャオ!