望ましいワイン
―公式の追加―

2013.06.26   塚原正章

望ましいワインとは…
 まず、身体に良い(あるいは悪くない)ことが必要条件であることは、ワインが食品である以上、当然である。ここで、「アルコール飲料一般が身体に良くない」という見方や、はては「アルコール飲料は、アルコール依存症を招きやすいので、禁止すべきだ」という禁酒論が一部に強くあることは、むろん心得ておかなければならない。その逆に、アルコール飲料の精神衛生上における効果や、社会生活を円滑にする効果を、積極的に説く者や業界筋もあるが、こういう考え方をする場合でも、アルコールの摂取過剰が、一時的または恒常的に、身体と精神に障害をもたらす傾向があることを、忘れてはならない。驚くべき機能と回復力を有する肝臓ですら、恒常的な過剰摂取が肝臓障害を招き、最終的に癌化することは、肝に銘じておく必要がある。問題は、人生に共通することだが、「過剰」の判定がつねに主観的であって、かつ難しいことだ。

ワインは本来、毒でも薬でもない
 しかし、ここはアルコール飲料一般を論じる場ではなくて、ワインの効用を問わなければならない。私の立場は、「ワインが身体に良い」とする、積極的な擁護論ではないことを、まず明らかにしておこう。私がワインを飲む個人的な理由は、ワインに薬効や向精神作用があるからではなくて、特定のワインを飲むと、身体と精神がリラックスし、なおかつ美味しいからである。いっとき赤ワインのポリフェノール効果なるものが喧伝され、世界中を風靡したことがある。いまでもポリフェノール信奉者がいるようだが、当時はただ赤ワインでありさえすれば、どんな味であろうと飛ぶように売れるという、珍奇な現象が日本でも見られたのは、笑止の沙汰ではあった。ワインに薬効があるとすれば、それと同じくらい、厄介な作用があるということも、バランスをとって強調しなければなるまい。かりに「ワインが毒である」としても、私は自分の好きな(特定生産者の)毒を飲んで死ぬ権利がある、とよく冗談をいっている。まあ、毒にも薬にもならない話だけれども。

添加物からの自由
 ただ、ここで、怪しからぬ(あるいは、生産者にとって都合のよい)添加物や、それらの残り滓と転化物が含まれているワインが多いのも、事実である。ワインの原料となるブドウの質は、自然の立地条件だけでなく、あらゆる人為的な栽培方法によっても左右されるから、恐るべき除草剤(ベトナム戦争で森林枯死作戦に用いられた催奇性薬品と同類)や、自然起源物質(たとえばSO2)ないし人工の薬品類が散布される畑から産するブドウは、必ずや散布物の痕跡をなにがしか留めていると見るのが常識だろう。
 したがって、私にとっては、化学的な添加物が残留する可能性をいっさい排する、という意味で「厳密なビオロジック栽培はワイン生産の必要条件」である。幸い、いまでは(味わいの水準は問わないとして)大半のワイン生産者が、程度あるいは実態は別としても、公式的にはビオロジック栽培を支持せざるを得なくなってきたのは、ご時世というものだろうか。

ビオディナミは、プラグマティックに効果判定を
 さて、ビオディナミの是非は、生産者と消費者を巻き込む大問題であり、ジャーナリズムやブログでも論争の的になっている。しかし、ことビオディナミのような重要かつ微妙な問題については、単なる宗教的な信念への帰依や、逆にそれへの反感や固定観念などでもって、妙な態度決定をするわけにはいかない。実態(インプット)と効果(アウトプット)という〈事実のレヴェル〉と、主義主張という〈イデオロギー〉とを混同するほど、科学的な思考法から遠いことはない。ゆえに、個別の畑における作業実態を見きわめ、具体的なワインの製法を勘案しながら、ビオディナミと出来上がったワインの水準との関係を、いわば各論的に分析しなければならない。つまりは、プラグマティックな判断を集積するしかないとすれば、そう簡単に結論がでるはずがない。
 が予見的にいえば、私が高く評価するワイン生産者はどうやら、ビオディナミとの親和性が高いようである。問題は、ビオディナミだけを切り離して、純粋にその単独効果を判定するのは不可能だということ。この領域では(味覚という主観的な判断を、外的な規準として設定せざるをえないとすれば)、たぶん統計学的な数量解析(主成分分析法など)を、当てはめるわけにはいかないのだ。 つけ加えれば、悲惨で愚かな3.11事故の後では、「放射性物質からの自由」という視点が、どこの国でも、ワインを含むあらゆる食物の栽培と摂取について、問われなければなるまい。
 なお、蛇足ながら、ブドウ栽培の方法がワインの水準と直結するわけではないことは、いわゆる有機農法野菜が品質のバラつきが多いうえに、必ずしも美味でないことからして、類推できる。

エリック・アシモフのワイン添加物論
 …と、ここまで書いてきて、ワインに何が入っているのか、という大問題を論じた、エリック・アシモフのエッセイ“If Only the Grapes Were The Whole Story”(『ワインがブドウだけで出来ていればいいのに』:NYTimes.com 2013.05.30)と、当方の論旨が似ていることに、遅まきながら気づいた。そこで、あわてて読み直してみたら、エリックはワインへの添加物を具体的に挙げたうえで、食べ物と同じくらいワインについても成分に注意を払うべきだという。じつに合理的で、的を射た主張ではないか。なおエリックは、ロンドンでこの2年連続で催された「職人芸ワインとナチュラルワインのイヴェント」“RAW”(主催者:MWイザベル・ルジュロン女史)を紹介し、ワインを出品する生産者は、すべての添加物と加工技術の明細を提出することが義務づけられていることに、注意を向けている。このあたりは、日本版の自然派ワイン祭典「フェスティヴァン」のあり方にも、参考になりそうだが、これは余談。
 ……というわけで、私の続きの部分―醸造段階における各種の(金属製)機器と、イーストや薬品類の添加物を避けるべきであること―を、書く気がしなくなってしまったので、勝手ながら省略させていただく。
 栽培と醸造の2段階で、添加物や人工的な処理を避けて、〈土地の個性とブドウ本来の持ち味を活かした風味をそなえるワインを造るべきだ〉という主張は、ヴァン・ナチュレル(いわゆる自然派ワイン)の擁護につながるが、それはまた、ヨーロッパの各地に伝わる100年以上前の伝統を見直して現代に生かし、原点に立ち返るべきだという、ワイン・ルネッサンス論にもなるだろう。その際、8000年の伝統を現代に引き継ぐ、グルジアの甕(クヴィヴリ)製ワインにも、あらためて注目すべきこと、いうまでもない。

望ましいワインの要件、その2
 …は、いうまでもなく、ワインの味わいであり、それを実現するため二つの要素である、コンディションとクオリティであること、いうまでもない。とすると、条件1と条件2をあわせれば、

望ましいワイン=(真正な造り方:authenticity)×(美味=クオリティ×コンディション)

となり、エリック・アシモフの結論とほぼ似てくる。エリックいわく、「もしも私たち自身が、ワインのクオリティと、(添加物を排し、ミニマルな加工処理しか施さない)正しい造り方(authenticity)に基準を設けないのなら、誰がその仕事をするのだろうか?」

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