ワインを身体で受けとめるということ

2013.05.24   塚原正章

ワイン愛好家の3類型
 マット・クレイマーによれば、ワイン愛好家には3種類あるとか(『ワインスペクテイター』オン・ライン版2013.05.07)。いわく、強迫神経症型(または完全主義者)、快楽主義者、無頓着者。
 ちなみにマット自身は、精神分析でいう「強迫神経症型」(obsessive-compulsive)に属す、勤勉な研究者タイプであるとか。ワインメーカーの考え方、樹齢、ワイナリーの歴史や、テースティング・ノートを調べ、単一畑産か複数畑産を気にかけ、オーク風味の程度を推し量ったうえでないと、先にすすめない。もとよりワインを買って飲むのは好きだが、それに劣らず調査吟味に打ち込んでしまう。したがって、好みはブルゴーニュを筆頭に、バローロ、バルバレスコ、バルベーラであるよしで、なぜか、みなBではじまるのがおかしい。
 対するに、快楽主義者型(hedonist)は、ご存じロバート・パーカーが愛用する言葉。マットとは対照的に、ヘドニストたちはグラスに入ったワインのなかに人生の意義を追求する気はさらさらなくて、ひたすら官能的な快楽を求める。だから、濃醇(リッチ)で大柄の、果実風味が横溢するワイン(パーカー好み!)に魅かれるが、なにごとにも鷹揚な気味があるから、厳密な判断は苦手であるにしろ、もてなし上手で人好きがする。
 第三の無頓着者(carefree)タイプの愛好家は、ワインならなんでもござれで、両極端な味のタイプをやすやすと受け入れ、価格や畑の構成、ワインメーカーの考え方の当否になど、まったく無関心。だから、マットのように精査癖のある人物には当惑するしかない。

一山百度登頂か、百山制覇か?
 このような分類やタイプ分けが行き着くところは、いかにもマットらしく、「ワインを本当に理解する最上の方法はなにか?」という本来の質問である。確かに、ここらあたりからマットの本領が発揮されるわけで、「100の山に登るよりも、同じ山を100回登ることからのほうが、学ぶことが多い」という。この言葉は、アラスカ先住民の世界を扱った、リチャード・ネルソン著『内なる島 ワタリガラスの贈り物』(星川淳・訳:星野道夫・写真、メルクマール)からの引用だが、例によって示唆するところ大である。
 マットのような自称「強迫神経症タイプ」にとっては、《一山百度登頂型アプローチ》から得るところが多い。それこそが本質的な接近法であって、少なくとも他の方法によっては得られない洞察や識見に導かれるという。むろん、《百山制覇型アプローチ》からも大いに学べるはずだが、なにごとであれ探索する旅路の果てに、一山百度型アプローチと同じ理解の深みに達することができるだろうか、というのがマットの投げかける、本質に迫る疑問なのである。

グルジアの甕仕込みワインから学ぶこと
 さて、ここからが、今回の私の本論である。
 今なおグルジアの村々には、8000年のワイン造りの伝統を受け継いで、大地に埋めた粘土製の甕(クヴェヴリ)のなかで、自然の環境と産物を尊びながらワインを造り続ける、少数の気概にみちた、しかし温和きわまる生産者たちがいる。今回ラシーヌが選んでご紹介する5名の造り手、10種類のワインには、赤・白・ロゼのいずれにも共通した特徴がある。なぜか、霊妙な精気と、ほんのりとした温もりが、疑いもなく伝わってくるのだ。これまで50年近く、各種のワインを各地で飲み味わってきたけれども、稀なことながらこれらのワインの味わいは、「味であって味でない」としか言いようがない。平たく言えば、未知の味わいを感じさせる、ということ。私たちが知っているワインの味わいの域をこえている、不思議な次元の世界が現出し、体験できるような気がしてくるのだ。これは、近ごろ私が先人の知恵にならって、いろいろな方法でもって人智の深みを探る試みをしていることと、まんざら無縁ではないかもしれない。しかし、まあ、そんなことはどうでもよい。
 ここで、「人類にとって未知の料理の発見は、新しい宇宙の発見にもまさる」といったブリア・サヴァランの言葉を思い起こしてもいいが、いささか俗っぽくなくもない。これらのグルジアワインからジーンと伝わってくる霊妙な精気は、単に味覚や嗅覚をもってしては捉えがたい。とすれば、内臓感覚あるいは身体感覚でもってしか受け止められないのだろうか。

コユーコン族からのメッセージ
 そこで、マットが引用した『内なる鳥』から、こちらも孫引きしてみよう。人類学者リチャード・ネルソンは、南東アラスカの野生が支配する島で、コユーコン族の長老たちの振る舞い方に啓発され、深く共感した。

 「コユーコンの長老たちは、やって来るものを虚心に受け入れる。彼らは森羅万象に魂と意識があると教え、自分をその世界に明け渡しながら、しかも特別な声が聞こえるのを期待するわけではなく、啓示の訪れを待つでもなく見えない領域に踏みこむ特権を求めることもない。」
 「一羽の鳥に、慈悲と肥後を乞うウィリアム爺(-)の情景には、ぼくがコユーコンの人々から学んだすべてが凝縮していた。魂と力に満ちた自然界で生きることについて、彼らがぼくに教えようとしたすべてが集約されていたのである。(…)人々は何千世代にわたって、日々の暮らしの中でごくさりげなく周囲の自然存在たちに語りかけ、祈りをささげてきたにちがいない。」

 かくして、「魂と聖性が万物に遍満することを認め、人間に向けるのと同じ敬意を自然に対して示す」コユーコン族の振る舞い方と、自然を敬うグルジアの生産者たちとのあいだには、共通するものを感じさせる。そこで、現代グルジアで醸造に携わっている司教の、神性への洞察にあふれた言葉を紹介して、本稿を終えたい。

 「もとをたどれば、イスラム教徒の侵入に先立つ数千年もまえから、ブドウ栽培は常に、神に至る道であった。神を讃えずに栽培と醸造をすることは、神とは無縁であり、無意味だった。甕(クヴェヴリ)でさえも、このような神に向かう歩みの一部である。主は、粘土から人間を造り、クヴェヴリも粘土からこしらえられて、首まで大地に埋める。母親が子供に生を授けるのと同じように、クエヴリは大地の中で、大地からワインを生むのだ。その生まれた場所で、ワインは年を重ねる、子供とおなじように。(…)果梗と果皮からすぐに別れさせられたワインは、母親がいない子供と同じようなものだ。」

グルジア・アラヴェルディ修道院 ダヴィッド司教(醸造家、もと建築家)
アンドリュー・ジェフォード(『ディカンター』オン・ライン版、2013.04.22)より

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