2013.04.26 塚原正章
Q:ラシーヌは、今年10周年を迎えるとのことですが、ワインビジネスの着地点は、どこをめざしているのですか?
A:いきなり、大きな問題を投げかけられたなあ。ラシーヌという会社にとっての到達目標と、私自身が考えるワインビジネスの着地点とは、必ずしも同じではないよ。というより、違っていて当然。つまり、ラシーヌという会社で、私のめざすワインビジネスが、どこまで実現できるのかが、私にとっての課題だ。が、これは私の個人的な問題であって、いまのところ、そんなに簡単に答えが見つかりそうにないね。
Q:それでは、ラシーヌの着地点はどこを目指しているのですか?
A:その質問に答えるためには、ラシーヌの設立理念から説明する必要がある。ラシーヌというワイン輸入会社は、ビジネス・プランよりも先に、明確なコンセプトができていた。つまり、まずコンセプトありきのビジネスだからです。
Q:コンセプトというとなんだか難しそうに聞こえますが、いったいどのような内容でしょうか?
A:なにも特別な内容ではありません。代表である合田泰子と私が通有す目標の核にあるのは、
《ワインの品質の追求》“In Quest of Quality in Wine”
です。ラシーヌのロゴマークに添えた英語のフレーズ “Will to Quality”(品質を追求する志)は、たんなる飾りではなくて、使命感を表わしたスローガン。妥協せずにひたすら品質を追い求める場を設けるために、二人が協力して10年前につくったのが、ラシーヌという会社組織なのです。
Q:品質という言葉は、抽象的であって、わかりにくいのではありませんか? もっといえば、あなたがた二人にとっては、ワインの美味しさよりも、品質のほうが大切なのですか?
A:鋭い質問だね。私たちは、ワインの「品質」という概念のなかに、「美味」も包摂されていると考えている。ややこしくいえば、「品質」を「味」の上位概念であると位置づけている。付け加えれば、「美味しさ」の尺度は、時と所によって変わるだけでなく、人によって受け止め方が異なる、個人的ないし集団的な感覚であって、あくまで主観的な判断にとどまる。それにたいして、品質は個人の主観を超えたところにある、普遍的なイデーのようなものであると考えたいところだが、定義することは難しい。だからといって、品質が存在しないとか、品質の意義が劣るということにはならないけれど。
Q:でも、美味しさよりも品質第一という考え方は、あまりに観念的であって、味覚の世界では通用しない、本末転倒の考え方ではありませんか?
A:たしかに、ワイン好きな人の実感からすれば、《味より品質優位》という考え方には違和感があるかもしれない。けれども、クオリティワイン志向のインポーターという立場から、ちょっと説明してみよう。
まず、美味しさ、つまり美味感というものは、事前に振りまかれたイメージや、無意識のうちに抱かれている〈先入観や固定観念〉、さらには業界にいきわたっている〈神話や伝説〉などに、大きく左右されているということ。味わいの実感じたいが、味そのものから生じた純粋感覚ではない。人は、ワインそのものではなくて、〈ワインに関するイメージ〉を、あるいは〈イメージつきのワイン〉を飲まされているわけ。ご存じの〈既視感〉(déjà vu; デジャ・ヴュ)という言葉をもじっていえば、〈既飲感〉(déjà bu;デジャ・ビュ)を味わいなおしているようなものさ。
こうして人は、すでに脳内に定着していたイメージ構造に、新たな味覚信号が組み合わされて生じたポジティヴな印象を、美味しさと実感(あるいは誤解)しているのではないのかな。つまり、美味しさは感覚ではなくて観念連合(D.ヒューム)の一種であって、観念的、あるいは観念そのものですらあるのです。
Q:フランス語のダジャレときましたね。要するに、美味しさとは美しき誤解である、といいたいのですね。なんだか、詭弁めいていますが。
A:まあ、いいから、茶々をいれずに続きを聞きたまえ。ワインに即していえば、普通のワイン愛好家に「美味しい」という(うわべの)印象を与えたり、誰にでも受け入れやすい非個性的なワインを作ったりすることは、じつは現代の技術水準からすれば簡単なことなんだ。
けれども、結論から言えば、そういう作為にみちた技巧的なワインは、高品質からはほど遠いし、個性に欠ける平凡なワインは、自然に敬意を払ったクオリティワインとは異質な世界に属する。残念ながら世界中にあふれている、美味効果と大衆受けだけを狙った量産型ワインは、本来のワインのあり方、あるいはワインの本質とは無縁な加工食品にちかい。個性なきワインは、ワインもどきと呼ぶべきだろうね。
美味しくなければ、ワインではない。
「ビオ臭」漂うような似非「自然派ワイン」は、美味しくもなければ、ワインでもない。
けれども、ワインは、ただ美味しければいいというような単純なものではない。
Q:やっと、いつもの塚原ブシが出ましたね。作為と自然という、丸山真男流の対立概念まで、おまけに付いている。それはさておき、あなたの考え方だと、ワインの品質とワインの本質とは、同じ意味のように聞こえますね。
A:むろん、まず、ワインの品質あるいは本質と味とは、無関係だといっているのではない。
つねに本質を求めるラシーヌとしては、本質を度外視して人工的な味付けを施された「味覚強化ワイン」(“enhanced wine”; “taste enhancer”化学調味料と、酒精強化ワインとをもじった、私の造語)は、本来のワインとは縁もゆかりもない化学製品だと思っているだけのこと。
ワインの本質とは、永遠の謎であり追求課題だ。が、
a) ワインの定義を単純に「発酵されたブドウ果汁」であるとして、
b) ワインの属性を「さまざまな環境と時代のなかで、人類と共生してきた文化的産物」である、としよう。
ここで文化とは、いうまでもなく“style of life”(生活スタイル)のこと。だとすれば、ワインは、単なる致酔性の可飲物質や、生活の伴走者にとどまらないから、
c) ワインの本質は、1万年もまえから人類の友であり、幸せのもとでもある「精神的な存在」でもある。いってみれば、精神と物質が融和したようなものかな。
そこで、以上のa) b) c)という多面的な性格(広義の本質といってもよい)を帯びたワインの歴史をたどると、さまざまな飲み方に見あったさまざまな作り方と品質のものがあったし、他方ワインの歴史は、今日にいたるまで偽造[フェイク]ワインの歴史でもあるのだね。
それはさておき、時代と環境をひっくるめて〈状況〉と呼べば、ワインはさまざまな状況のなかで(あるいは状況にもかかわらず)、人類がもたらしうる最上の産物でもあった。たとえば中世の修道僧が、ブルゴーニュの地で労苦のあげく生み出した特定クロ産のワインや、同地で現在その伝統を受け継ぐかのように、マダム・ビーズ・ルロワが精進して生みだした数々の珠玉のようなワインが、その代表に含まれることに、だれも異存はないだろう。ちなみに最近マット・クレーマーは、最上のピノ・ノワール酒をつくるには、修道士のような魂が必要だ、とオーストラリアでのスピーチで示唆しているよ。
さて、本題に戻れば、ワインの本質と品質は単純な関係ではないが、本質をより良く体現する(高)品質のワインが存在することもまた、事実なのだ。
Q:講義調のずいぶん長たらしい説明でしたが、要は《ワインの本質の良き体現者が、高品質ワインである》といいたいのですね。
A:そのとおり。ワインの品質は、テロワールとおなじように、あくまで《可能性としての存在》にとどまっている。資質と条件に恵まれたごく一部の優れた生産者だけが、おびただしい努力の末に、ようやくその地の本質(テロワール)に迫る、個性的で優れた品質のワインをつくりだすことができる。そのようなワインこそ、私たちにとって、理想のワインなのです。
だから、おなじスローガンをビジネス用語風にいえば、
「品質追求とは、私たちにとっての理想のワインを選び、理想的なコンディションを保ったまま、お客様の手元にお届けすること」です。
「理想」というと高尚に響くけれど、もちろん、「現実の資本主義社会において、非力な私たちが努力して実現可能な範囲内で」という修飾句あるいは限定が付くこと、いうまでもない。
Q:ここで、やっと《ワインのコンディション》という、もう一つのキーワードが出てきましたね。それについては後で詳しく伺うとして、「理想のワインを選び、理想的なコンディションを保つ」とは、ずいぶんと志が高いようですね。お二人は理想主義者なのかな。でも、いったい、そんなことが、ほんとうに実現できるのですか? どのようにしたら、実現可能なのですか?
A:そのような私たちの考え方は、じつはすでに自分たちで実験済みだったから、成算があった。理論的に可能であるというだけでなく、実際にそういう理念のもとで私たちが注意深く選んで輸入・保管したワインは、商品の選択と品質状態が市場から高い評価を、さいわいにして受けることができたと思っている。具体的にいうと、ラシーヌ設立以前にあった、ル・テロワールというワイン輸入会社で、合田が携わった5年間の活動実績が、その証拠になる。
Q:いつのまにか姿を消してしまったル・テロワールという会社は、一部の熱烈なワイン愛好家のあいだで、いまや伝説と化しているようですね。
A:もともとル・テロワール社は、合田と私が構想を練ったあげく、別の出資者のもとで設立され、実質的に合田が運営の任に当たっていた。が、その会社の設立理念そのものは、ラシーヌとおなじく《品質追求》だったんだ。そのビジネス・コンセプトには手応えがあり、所期の成果を得たと自負している。けれども、その仕事の半ばで合田がル・テロワール社のマネージメントを離れることになった。そこでやむなく、合田と塚原が急遽二人だけで立ち上げたのが、ラシーヌという会社。結果的にル・テロワールは、独自のビジネス哲学と運営の主役を失って迷走状態に陥り、早々に廃業してしまったという、お粗末な一幕だった。
Q:短命に終わったル・テロワールもまた、大きな志をもった小さな会社だったのですね。
A:でも、クオリティワインの生産者だけを選び、ワインのコンディションに限りなく注意を払うという現在のラシーヌ方式の基礎は、ル・テロワール時代に築かれたといってよい。
新生ラシーヌは、ル・テロワールの精神を引き継ぐだけでなく、合田と私が先頭に立って、目標をいっそう高めつつ仕事のレヴェルを上げ、幅を広げる努力をしてきた。もちろん、現状に満足しているというわけでは決してないけれど。
Q:最近ブームのように、ワイン業界では各社がリーファー使用をうたい文句にしていますが、ル・テロワールの時代からあなたがたはリーファー志向を徹底していたようですね。
A:もちろんです。いまでは日本の多くのインポーターが、リーファー・コンテナと国内外でのリーファー・トラック、それにドック・シェルター付定温倉庫の使用などを大々的に謳っているらしい。けれども例によって「言葉、言葉、言葉!」(シェイクスピア)の世界のできごとのようであって、その実態は、必ずしも宣伝文句どおりではないらしい(海外では、リーファー・トラックは絶対数が足らず、しかも日本国内からそれを正しくコントロールをするのは難しい。国内では、厳密な保管と高水準のサーヴィスの両機能を備えた好ましい定温倉庫は、ほとんど見あたらない)。その結果が、現実に輸入販売されている凡百の商品のコンディションに如実に表れているはず、とだけいっておきましょうか。
Q:相変わらずの皮肉ぶりですね。それにしても、自画自賛抜きにして、ラシーヌは設立当初の目標を実現したのですか。それとも、目標が変わったのですか?
A:目標という言葉が妥当かどうかは別として、品質追求という定められたコンセプトには、(ロバート・パーカーが乱発するような)100点満点といった意味合いでの終点がない。
けれども、扱っているワインの品質だけとってみても、社内で設けている暗黙の高い水準をクリアーしていると、私たち自身は認めている。
それに、今春から新たに使いはじめた清和海運㈱の倉庫は、ラシーヌ専用部分が厳密に「ラシーヌ仕様」にのっとって新設されたおかげで、重装備なくらい保管設備&コントロール機能が整っている。それだけでなく、経営者の采配よろしきを得て、統率されたスタッフの動きも的確かつスムーズなのが、まことに有り難い。このように、保管&サーヴィス機能が質的に格段にレヴェルアップしたので、嬉しいことに、ワインのコンディションがさらに向上しはじめたという確証をすでに得ているんだ。
Q:いっそう高められた品質の目標と水準が、すでに実現しつつあるという認識ですね。それ以外の目標についてはいかがですか?
A:当初と考え方が変わったのは、クオリティワイン生産者の数の見通し。出発当初は、経験上から、クオリティワインの生産者は絶対数が限られているので、輸入量と売り上げはすぐ上限に達し、企業規模と年商はそれ以上拡大するはずはない、と決め込んでいた。要するに、小さなインポーターであるのが宿命だと思っていたのだが、これは間違い。でも、これは目標の変更や企業哲学の修正ではない。かといって、拡大主義をとるわけではなく、まして売上・利益至上主義とは無縁です。
インターネットが出現するはるか前の時代(45年前)から、私は本集めが趣味だったので、海外から新刊・旧刊のワインブックや雑誌を積極的に集めていた。だから、海外のワイン情勢にはおおよそ通じていたつもりだった。また、合田は最初に勤めたインポーターで仕入れ業務に携わるかたわら、自費で海外出張をし、興味深い生産者の探訪と高い評価のワインを購入するなど、フランスの現地で積極的にフィールドワークを重ねていた。
1989年の出会い後、私たちはいっそうワインの理解を深めるための共同作業に取り組みはじめた。そこで翻訳をはじめとする各種の情報収集と、組織的にワインを試飲した結果、フランスとイタリアの各地域で私たちが評価できる本当に優秀な生産者の数はごく少なく、両国の代表的な各産地でせいぜい2~3人というところだった。
ところが私たちが実際にラシーヌで積極的に開発をしてみたら、予想を上まわる数の有望な若手生産者と、知られざる個性的なクラシックワイン生産者に巡り合ったので、喜んで取引を開始せざるをえなくなった。その増勢は止まりそうになく、当初の見通しが甘かったことを反省している。
Q:優秀な生産者が、予想外にたくさん見つけられたとは、ちょっと信じがたい話ですね。でも、ラシーヌは、常にそういう「新しい」生産者を開発し、ポートフォリオ(扱い生産者リスト)がいつも大幅に変化するので、お客さんがそのスピードに追い付けないと嘆いているとか。なぜ、そのように多くの優秀な生産者が、いつも見つけられるのですか?
A:ポートフォリオの不断の変更は、不徳のいたすところです(失笑)。じつは、なぜか探せば探しただけ、素晴らしい生産者とワインに巡り合うという状況が続いていて、止まらない……というのは冗談で、昔からいっさい他人のまねをせず、意識して戦略的な開発をしてきた結果なのでしょうね。
たとえば、ル・テロワール時代よりも前から、私たちは有望なジャンルが世界に注目されるよりも先に注目し、集中率先してフィールドワークをしてきた。レコルタン・マニピュラン・シャンパーニュ(RM)もそうだし、「自然派ワイン」と呼ばれるヴァン・ナチュレールもそう。だから結果的に、そのジャンルで私たちがもっとも評価している生産者(たとえば、ジェローム・プレヴォーとマルク・アンジェリ)と出会うことができたし、その仲間や、同じような志向をする少なからぬ数の優れた生産者とも、取引を始めることができたわけ。いわゆる、先行者利得かな。
また、フランス以外のヨーロッパでも、今後有力になりそうなワイン生産地を、常に探してきた。イタリアワインが、まだイタリアワイン専門のインポーターの間でしか取引されていなかった時代に、私はイタリアワインのリサーチをはじめ、雑誌記事を書いただけでなく、マルコ・デ・グラツィアのグループとも接触した(かつてはほぼバローロ・ボーイズの全員と取引していたのに、いまではゼロとなり、サンドローネやエリオ・アルターレという両巨頭との関係も断ってしまった)。
ギリシャ、オーストリアとドイツについても事情は同じで、戦略的な開発の「成果」です。本年扱いを開始する、グルジアの伝統的かつ本格的なアンフォラ・ワイン生産者についても、その例外でない。驚くべき生産者が、伝統あるワイン生産国には必ず潜んでいるのです。
情報面でプレリサーチをおこなったあと、他(国)のインポーターが注目する前に、有力生産地(国)を選び、飛び切り優秀と思われる生産者だけをあらかじめ厳選して歴訪し、さらに現地で探索を重ねれば、必ず自分たちの評価基準にかなうか、新しい価値尺度を求める未知の世界を発見できるものなのですね。
Q:なるほど、それが秘訣だったのですか。それにしても、いつもうまくいくのですか?
A:そんなわけは、ありっこないね。ただ、このやり方だと、開発目標に先見性があれば、失敗確率が少ないだけのこと。新しく登場した若手生産者については、ビギナーズ・ラックで たまたま素晴らしいワインを作れることもあるので、要注意だ(誰だったかは、いいませんがね)。いずれにしろ、(ラシーヌと日本にとって)新しいジャンルとなる分野や国・地域については、特別に優秀な生産者といえども日本では未知も同然だから、紹介から定着までに時間と努力がいるのがやっかいです。が、これが、フォロワーとは違うパイオニアの宿命のようなものであって、つねにリスクが付きものなのです。
Q:取引を止めた生産者の数も多いのではありませんか?
A:きみは、答えにくいことを訊くね。じつは、その数は少ないとはいえないから、ポートフォリオ(扱い生産者リスト)の内容もしじゅう変わる。むろん、その理由を言えというのでしょうね。品質、価格と信頼関係の問題だ、というだけでは、許してくれなさそうだから、もう少し詳しく言えば、いくつかのパターンがあって、
a)接触と取引を開始した時には、なんらかの理由で良い商品ができたのに、生産者に本当の実力が備わっていなかったり、作り方を妙な方向に変えたりしたせいで、「化けの皮」がはがれ、品質が下落したケース。こちらの見込み違いのせいとはいえ、若手の未熟な生産者にありがち。
b)生産者の力量は、取引開始時には非常に高かったけれども、生産者の高齢化などの状況変化に伴い、ワインが当初の高品質と特徴を維持できず、ラシーヌと顧客の期待水準を下回ってしまったケース。
c)同じ地域やジャンルで、他にとびきり優秀な生産者が現れ、ラシーヌがそこと取引を開始したため、市場(顧客)が旧来の生産者を見限ったので、扱いを止めざるをえなくなるケース。
d)生産者が、理由のない大幅な値上げをしたため、競争力を失ったあげく、市場の実情や要請に合わずに、扱いを止めたケース。
e)世代交代がスムーズにいかず、若い後継者が先代の域に遠く及ばなかったケース。
f)生産者がラシーヌに事前の相談なくして、日本で別のインポーターを追加取引先に選んだりしたため、ブランド育成と販売方針の変更を余儀なくされるなどの問題が生じ、生産者との信頼関係が損なわれたため、自主的に取引を止めたケース。
実際には、これらのパターンが複雑に組み合わさって、取引を止めるばあいもあるし、生産者とインポーター間の相互コミュニケーションが不足していたために、起きるばあいもありうるから、一概にはいえない。まあ、これくらいで勘弁してくださいな。
Q:有難うございました。それでは最後に、あらためてラシーヌの着地点を教えてください。
A:しつこいが、見上げたインタビューワー根性だね。
さて、知ってのとおり、ラシーヌにはお手本もないし、コンサルタントもついていないから、
わが道をいくしかない。日本のインポーター各社については、商品開発の方針や流儀がまったく異なるから、学ぶべきところはなさそうだ。その意味では彼らを直接の競合先(コンペティター)とは思わないけれども、逆にその営業努力に対しては、敬意を払わざるをえない。
むしろラシーヌは、選んだ商品と品質の上に胡坐をかいていやしないか、反省しなくてはならない。
コンペティターとして意識しているのは、むしろ大胆で意欲的な路線をとる海外のインポーター。彼らに先んじて、こちらが優良生産者との関係を築き上げなくてはいけない。優良生産者はもともと小規模で生産量が限られている以上、取引できない惧れがあるし、生産者からのアロケーションも減ってしまう可能性がある。大げさにいえば、潜在的な国際競争がシビアなのです。
Q:ブローカー問題について、ひとこと追加を。
A:ラシーヌは生産者を自主開発する方針だから、元来ブローカーとは縁がない。それに、ブローカーに払う手数料がなければ、その分だけ顧客と消費者に還元できるというメリットもあります。もっとも、なかには責任感が強くて良心的な「プロ」のブローカーもいますが、ブローカーは本質的に利権ビジネスなのです。
とくに、どこかの国のブローカーはえてして、「契約した」生産者を囲い込み、自分たちの勢力圏(仲間)のあいだでインポーターを割り当て、あるいは、たらい回しをして、極力、利権の維持をはかろうとする。そのブローカーと取引関係を結ばないかぎり、そのブローカーの扱っている生産者すべてと仕事ができない排他的な仕組みになっているから、彼らと友好的な関係を築くことは不可能になる。
どうしても取引したい生産者が、特定のブローカーを指定し、そこを通じてしか取引関係を結べない場合は、そのブローカーと付きあうしか方法がない。でも、ブローカーのなかには、情報力が強いだけでなく、人間性ゆたかで教養があり、優れた生産者すべてと仲間意識を共有している、例外的なブローカーもいる。たとえば、愛すべきベッキー・ワッサーマンの「ル・ソルベ」社のようにね。いずれにせよ、すべてのブローカーが敵ではないこと、いうまでもない。
しかし、本当の敵は、自分たち自身の慢心。そして最終的には、状況適応型の思考ができて、 自己修正能力があるかどうかが、問題だろうね。
答えになっているかどうかは別として、ラシーヌは、コンセプトは明確で不変だが、経営組織としては未熟なところがあるから、ビジネスとしての着地点は今のところ、まだ分からないとしか言えないね。それじゃ、これで。