2008.2.1 塚原 正章
定義とは死である(スピノザ)
フランス料理の一定義
「フランス料理とはなにか」という定義の一つに、「フランス人が、フランスの素材を用いて、フランスで作ったもの」という説がある。むろん、これらの3要素は、論理的にはフランス料理の必要条件であるというべきだろう。ところで、いまやフランスで名のあるレストランには、日本人のコックや研修生があふれているし、EU諸国どころか世界中の食材がフランスに流入しているから、このような定義はすでに半世紀も時代遅れであること、間違いない。けれども、「人民の、人民による、人民のための…」というリンカーンによる民主政治の定義のように、主体が明示されていて、方向性が明瞭でわかりやすい、あくまでフランス中心の国粋主義的な考え方であることもまた、たしかである。
が、良かれ悪しかれグローバリズムが支配する現代において、この定義の根本的な問題点は、《フランスの人・素材・場所を除いては、フランス料理が出来ない》ということ。別の言い方をすれば、たとえば、日本人が日本の素材を使って日本で作る料理は、どのような料理方法であっても、かの定義にしたがえば、まさしく日本料理であって、フランス料理の要素が皆無であることになってしまう。いくらフランスで修行し、フランスで認められた日本人の逸材の手になるものであっても、かの定義が求めるフランス料理の3要素が欠けては、それと認められない。したがって、この定義では、日本にはそもそもフランス料理がありえないことになってしまう。
さて、東京版ミシュランは、古典的なフランス料理店にバランスを失して厳しく、創作系の店に甘い、という定評がある。とすると、ミシュラン・ガイドの審査では、フランス料理の定義はいったいどうなっていることやら、興味は尽きない。
ところで、今回のテーマは、イタリア料理である。ここで、またしても東京版ミシュランを持ちだせば、東京のイタリア料理に極めて厳しい評価をしていることは、取り上げられた店の数からして推察される。とすれば、イタリア料理店がフランスのそれの数を大幅に上回って人気がある東京には、優れたイタリア料理店の数はフランス料理店よりも一段と少ないことになる。どうやらフランス国粋派のミシュラン・ガイドは、イタリア料理を低く見たがっているようである。しかし、まあ、ミシュランなど、どうでもよい。問題は、日本に優れたイタリア料理店が、あるのかどうか、という実態にかかわる。
イタリア料理の再検討
が、私が取り上げる視点は、「イタリア料理店」ではなくて「イタリア料理」である。そもそもイタリア料理とは、どういうものなのだろうか。ようやく本論がはじまることになるが、これから先は、筆者が20年ほどのあいだに、毎年何回かワインの仕事でイタリア各地を旅した程度の、狭い見聞にもとづく理屈であって、もとより専門的な判断などではない。ま、お目汚しということで、ご勘弁いただきたい。
さて、先の古典的なフランス料理の定義のイタリア版(「イタリア人が、イタリアの素材で、…」)では、もちろん現在のイタリア料理の実態にそぐわないことおびただしいから、全体としてこの定義は却下される。にもかかわらず、かの3要素については検討する価値がある。
素材について
まず、イタリアには、白トリュフやパルミジャーノ・レッジャーノなど、固有の優れた料理素材があって、イタリアの食卓を優雅に彩っている。優れた食材とその造り手については、たとえばバートン・アンダーソンの『イタリア 味の原点を求めて』(合田・塚原の共訳)をご参照願いたい。が、それらのイタリア固有の食材抜きで、イタリア料理を作ることが出来るかとなると、イタリア人はやや否定的かもしれないし、少なくとも寂しい話ではある。
また、食材一般についてみると、素材はイタリア国内のレヴェルと、日本の「イタリア料理」に用いられる平均的な素材(輸入物および国内産)とを比べれば、明らかに日本国内に流通しているものは、ことに肉と野菜の質と風味が大きく見劣りがする。とはいっても、トスカーナにおいてすら、かのキアニーナ牛がほとんど入手できないことは、先のアンダーソンの著書にも見えるし、現地でもよく耳にするが、それでも手をつくせば本物が入手できる。ピエモンテでも、薄いピンク色をしたファッソーナ牛のたたきは、いまでも秋の食卓を飾っていて、思い出すだによだれが垂れる代物である。
トスカーナの野菜については、伝統的な内地野菜の質が低下した、とフィレンツェのレストラン「ダ・ノーイ」(現在は廃業)のシェフが10年以上も前に嘆いていたが、それにしてもまだ、日本ほど地に堕ちてはいない。むろん、日本国内でも例外はあるし、志の高い農家が国内のあちこちに生まれていることは心強いし、嬉しい話だ。
最近イタリアで扱い方が著しく上達したとされる魚については、質/コンディションと種類は日本側に軍配があがるだろう。が、たとえばヴェネツィアでいただく魚料理は、素材の勢い、繊細な風味と料理法でもって、日本人美食家の舌を飽きさせないことも事実。要するに、日本におけるイタリア料理の可能性を素材面でみると、概して日本の旗色は悪いというべきであろう。
イタリア料理を作る人と技術
次は、人と技術の問題。現在、イタリア各地のレストランでは、多くの日本人コックが仕事をしているから、人種問題はイタリアの料理と料理店の定義に、あまり関係はなさそう。誠実な調理技術の点においては、在イタリアの日本人料理人たちは、一般に高く評価されていると聞くが、彼らが腕達者なイタリア人シェフを上回るほどの実力と技量があるかどうかとなると、話は別である。事情通からよく指摘されるのは、イタリアにおける日本人の料理修行が表面的なレヴェルに留まりがちということで、料理と食を追求する深さや徹底性が物足りない点。そのうえ、日本に帰国後の料理人は、えてして和風化あるいは日本で横行する創作系モダン料理になびきがち。であるとすれば、よほどの見識と信念がないかぎり、不十分な基礎の上で日本人が作るイタリア料理は、現地とは差が大きくなりがちになる。つまり、大きな問題は、料理人における調理の技術とレヴェルではなくて、個々の料理人が、イタリア料理のアイデンティティを維持できるかどうかである。
イタリア料理の郷土性
といっても、抽象的にあるいは端的に「これぞイタリア料理」なるものがあるわけではなくて、イタリア全土の各地方には、郷土色ゆたかで個性的で美味な料理の伝統が根づいている。なお、この点は、フランスでも同様だが、フランスのグランド・キュイジーヌについては「レストランは極度に洗練された技術的体系をもつから、地方や家庭の料理に学ぶ点はない」と、断言するフランス料理の専門家は多い。別の言い方をすれば、「フランス料理を偉大ならしめたその大きな功績は、……料理にかかわる全ての部門を体系的に整理したことにある」と、イタリアの料理研究家であるV. ブオナシージ自身が、認めている(『基礎イタリア料理』)。フランスとは対照的に、イタリア料理ではより地方性が強く、同氏が言うとおり「ヴァラエティとファンタジー」も恐ろしくゆたかで、イタリアは料理でも今なお地方性を強硬に主張している。ちなみに、ブオナシージの大著『パスタ宝典』には、1001種類におよぶ各地のパスタ料理を網羅しているくらい。
結論
ことほど左様に、イタリアでも日本でも、優れたイタリア料理を作れるかどうかは、各料理人のメンタリティとアティテュードに懸かっている。むろんのこと、素材はえり抜きのイタリア産が現地で入手するにこしたことはないが、料理人は素材に依存しすぎてはならない。ことに日本の料理人は、加工する腕よりも、素材自体の持ち味に頼りすぎる傾向を、戒めなくてはいけない。
要は、「イタリア料理らしさ」(アイデンティティ)を、どうやって実現したらよいか、を各人が工夫するということ。これは、ワインにおける「テロワール」の体現という問題と共通している。ちなみにジャンシス・ロビンソンは『世界一ブリリャントなワイン講座』のなかで、イタリアは「他に類のない独特な風味とスタイルを持ち、いかにもイタリアらしい気迫と創造力にとむ数々の優れたワインを、愛好家の手元に届けてくれる」と、断定している。ただし、ワインは優れた造り手の作品を選び抜いて、コンディションの維持に神経をつかって輸入さえすれば、日本国内でもイタリア国内と同レヴェルの質を楽しむことが出来るが、日本で日本人が本国並みのイタリアらしさを備えた料理を作ることは、容易ではない。
料理のテロワール
つまりは、料理においてテロワールをいかに実現したらよいか、という(フランス料理にも共通する)問題なのである。そこで我田引水すると、ラシーヌでは「テロワール」を客観的にモノとして実在するという立場をとらずに、テロワールとは「ワインに表現された風土と環境の個性」という言い方をしている。テロワールは具体的に目にも見えず、また、化学的な分析数値で表現できない。とすれば、ワインの中にテロワールを形成する、歴史的・文化的な風土がもたらす側面を、私たちは重視している。風土と環境を損なう化学肥料や除草剤・殺虫剤などの農薬や化学物質が、テロワールの敵であること、いうまでもない。
ただし、歴史と文化が背景にあるワインの醸造という面では、料理人の技量と同じく、ワインの造り手が日々の判断の積み重ねをし、かつ表面的な人為をできるだけ排さなければ、テロワールを体現する優れたワインはできない。というよりは、テロワールが「生まれ出ない」。すなわち、ワインは技術や設備機器でもって作るものではなくて、自ずと生まれるものなのである。料理もまた同じであって、素材を活かして料理になるお手伝いをするのが、料理人の仕事であるという自説は、すでに述べた(エッセイvol.4)。そこで、料理のなかにいかにイタリアのテロワールをもたらすかが、イタリア料理人の技量なのである。イタリア料理とは、詮ずるところ、イタリアのテロワールを表現した料理としか、言いようがない。でも、はたして、これがイタリア料理の定義なのであろうか? もちろん、不充分であることは承知しているが、所詮、定義とはそんなもの。その点、スピノザの指摘は正しくて、定義しようとすればするほど、言葉は実態から離れて空回りをし、対象から生気を奪い、死に至らしめるのである。