2013.01.28 塚原正章
冒頭の寸言―石川淳さんに倣って
かつて石川淳は、本居宣長を論じるにあたって、まず宣長は歌づくりが下手だったと断定してから、おもむろに独自の宣長論を展開したことがあった。いっけん、石川淳とは正反対な資質の持ち主、小林秀雄のような喧嘩論法じみた出だしではあったけれど、勝敗や正邪にこだわる小林のような独断的な論理とは無縁な、文学的な基準のみによる正統的な批評のあり方を、身をもって示したものであった。
さて、石川淳とは、銀座の今はないレストラン胡椒亭で何度か出くわしたことがある。かの吉田健一さんと河上徹太郎さんが、こよなく愛した店である。たまたまある日、ワイン・クレージー・クラブ(山本博さんが主催した12名の会)の当月幹事であった。その日、私が胡椒亭に持ち込んだ、数々の年代違いのシャトー・ムートン・ロチルドと、当時は生意気な小僧っこであった私を、夷斎先生は一瞬じろりと眺められた。あの、有名な冷眼でもって。おかげで身がすくむ思いがして、せっかくのムートンの味がゆくりなく楽しめなかった記憶が、いまとなっては懐かしい。
しかしまあ、そんなことは、どうでもよい。冒頭にテーゼじみたセリフを言ってみたかっただけのことである。さて、私にとっていちばん興味のないことは、私自身である――と言いきってしまうと、なぜか心が軽やかになる。なにしろ、この世、とくに日本には、自分などというつまらないものにこだわりすぎたり、現実とは無縁な観念をやたら信奉したりするロマンティストが多いのに、昔から閉口していたからだ。連中は、すぐに「この私をどうしてくれる」と居直るから、たちが悪い。そんなこと、誰にとっても興味がありっこないのに。黙って自分の畑でも耕したらどうか、とヴォルテールもどきにぼやきたくなる。
島と砂漠
海中にある島々と、陸上で多くは熱帯地方にある浸食拡大を続ける広大な砂漠とは、ほとんど対立概念であるといってよい。日本は島国であるせいか、その国人は島に親近感を抱くのに対して、砂漠とその文化には違和感があり、その底には先天的なまでの恐怖心を抱きやすい。
逆に砂漠に親近感をもつことを公言したのが、花田清輝と安部公房(エッセイ集『砂漠の思想』がある)ら、少数のオリジナルで発想ゆたかな作家である。あるいはまた、砂漠の文化を背景とするイスラムの文化と哲学に根源的な理解を示した思想家が、故・井筒俊彦であった。
そこで、今回の題目は、孤島。とかくこの国の人は、孤島という言葉や比喩が好きらしい。たとえば、今日(1月28日)付けの日本経済新聞の長いコラム(署名記事)は、題して「エネルギーで脱『孤島』を」、副題は「欧州は全体で安定探る」という調子。また、独自に進化した日本の携帯電話産業の行きづまりをめぐってよく持ち出される比喩が、「ガラパゴス化」である。独自の生物相を有するガラパゴス諸島に立ち寄って珍種動物を発見したヴィーグル号のダーウィンが、この比喩を聞いたら憤然とするのではないか、と冗談を言いたくなるが、それは余談。孤島やガラパゴス化という表現は、孤立して世界の潮流や国際基準に乗り遅れるな、という発想のタイプである。その心は、取り残されることへの恐怖ではないか、と悪口をたたきたくなる。
孤島と無人島
まずは、島という言葉をめぐって。孤島と無人島とは、ちょっと違う。孤島は、離れ島(a solitary island)である。たとえば、絶海の孤島(a solitary island in the distant ocean)というように。それに対して、無人島とは、無人の孤島だから、住民がいない島(an uninhabited island)である。それを洒落て言えば、desert island。デザートとは、本来「乾いた不毛の砂地、砂漠」であるが、転じて「人の住まない」という派生的な意味がある。ゆえに、desert islandとは、「(通例熱帯地方の)無人島)となる。なお、引用はいずれも小学館『ランダムハウス英和辞典』による。
それは、さておくとして、イギリスと日本は島国(an island country)で 、それも帝国主義をくりひろげた国であったから、その住民は似た感性をもっているのかもしれない。
イギリスBBC放送の人気音楽番組に「無人島の12」(デザートアイランド・ダズン)というのがあった。1942年に生まれた人気放送で、音楽好きなイギリスに定着したから、現在でもBBC4に「デザート・アイランド・ディスクス」として続いているよし。これは、無人島にレコード(現在はCD)を12枚(同8枚)だけ持っていくとしたら、番組のゲストはなに(作曲家、作品、演奏者)を選ぶか、という架空のチョイスと、その理由を述べて、その音楽をかけるわけである。そのタイトルをもじって、「無人島の12本」(desert island dozen)という、無人島に持ち込むワインについて、かつてはさまざまなライターがエッセイを書いたし、私も駄文を草したことがある。読者にとっては、選ばれた音楽やワインが問題であるよりも、なぜ、どういう理由でゲストや著者がそれを選らんだかが、興味深いのである。つまりは、関心事が作品ではなくて選者であることが、いかにもイギリスらしいなあと思う。
無人島の1冊
1ダースよりも難しいのが、1作品であることは、説明不要だろう。そして、もしも無人島に、レコードやCD、ワインではなくて書物が1冊だけ持ち込みを許されるとしたら、何を選んだらよいだろうか。信心深いひとならば、和洋の経典を繰り返し読みたいと(公式には)いうかもしれない。そこで問題は、無人島の具体的な制約条件。文明的な生活条件、たとえば住居が整い、電気設備があり、食品(缶詰めや冷凍食品だけでなく、なぜか生鮮食品にも不自由しない)と調理施設が整っているうえに、もしもインターネット環境があって、宅配ネットワークの恩典に浴することができるのならば、コンテンツ(活字や挿絵、新聞をふくむ)だって、いずれはほとんど不自由なく画像で読めることになろう。
とすれば、問題は、何を読んだらよいか。秋竜山の無人島漫画(ひとこまもの)を読むのは、あまりに自虐的であろう。健全な読書家にとって、もっとも必要かつ参考になるのは、適切な読書アドヴァイスである。としたら、私の選択はただひとつ。丸谷才一さんと池澤夏樹さんが徹底的に選びこんで編んだ、《毎日新聞「今週の本棚」20年名作選》である。たしかに3分冊ではあるが、こういう無人島持ち込み本のばあい、分冊は込みで1冊扱いされるのが、通常イギリスでは認められている。第3巻の前書きで池澤さんは、丸谷さんも自分もこの本で紹介された本の十分の一も読んでいないと、素直に告白しているから、読みそうもない書物を大量に買いこむ愛書家は、恥じることなく、安心して興味深い本を探し求め、銀行預金が潤沢ならば、宅配してもらえば、これに尽きる幸せはない。幸せなる無人島のワイン愛好家は、もちろん宅配でワインとワインセラーを送り届けてもらえばよい。なにを選び、どのように楽しんだらよいか、ですって?それには、ラシーヌ便りを毎号熟読して、お選びくださるのも一法でしょうね。