ワインについての断章(あるいは、ルソー風に)

2012.12.26    塚原正章

Le vin est né libre, et partout il est dans les fers.(adapted from J- J. Rousseau)

ルソー結縁
 ルソーとヒュームの往復書簡集『悪魔と裏切者』(山崎正一&串田孫一・訳、河出書房新社)は、フランスの感性とイギリスの理性を代表する二人の哲学者の間で取り交わされた、ほとんどルソー側のヒューム誤解に起因する悪罵の応酬であるが、ゴシップ的でめっぽう面白い。30年前に本書を読んで、私のヒューム贔屓とルソー嫌いはこれで決定的になった。

 だからといって、ルソーのすべてが嫌いというわけではない。そもそも私とルソーとの出会いは、大学2年の選択科目で、よせばいいのにフランス語原書購読(あいにく私の年次まで、第二外国語で専門書を読むことが義務づけられていた)をとって、『社会契約論』“Du Contrat Social”を読まされた時にはじまる。そもそもフランス語に通じない経済学部の学生が、ルソー渾身の社会理論を原書で読むなんて、不可能にちかい。おまけに、岩波文庫版の桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』は、厳密に追究するとあまり信頼できない部分があることがわかった。しかも生徒の数はたった二人だけで、欠席は許されなかった。
 なのに、18世紀社会思想を攻究する温厚な原好男教授の手ほどきで、なんとか授業だけは受けつづけられたが、ルソーの思想を理解したとはいえず、まして共鳴したわけではない。もともと感情過多で自己中心的な『告白』の著者に、人間的な共感を覚えることはまったくなかった。私は、18世紀のイギリスではヒューム、フランスではディドロとヴォルテールのような、懐疑的で批判的な精神にしか興味がないようである。(参考:碩学のディドロ研究家、中川久定氏による『甦るルソー』岩波書店、1983。献辞が傑作。いわく、「すべてのひとのために/ただし、ルソーを神と仰ぐひとは除いて」)

『社会契約論』冒頭の一句
 でも、なぜか『社会契約論』の冒頭(第一篇・第一章)の言葉だけは、口調がべらぼうにいいためか、あるいは苦しんだせいか、フランス語で覚えている。記憶が正確ならば、“L’homme est né libre, et partout il est dans les fers.” 「人は自由に生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。」ここで“fers”は、「鉄」の原義から発して「(鉄の)鎖」(ひいては牢獄あるいは、しがらみ?)の意味だとか。ちなみに、公刊本の草稿にあたるルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿』(中山元訳、光文社古典新訳文庫)でも冒頭は同文だから、ルソーはこの一句がさぞかしお気に入りだったのだろう。

 そこで、ルソーとワインとはなんの関係があるのか? アダム・スミスならば、主著のなかでワインを取り上げているのに、ルソーはワインをちゃんと論じてはいないのではないか、ですって? まあ、そこらへんは当方のよく知るところではないが、私はルソーの原文を勝手にもじり、「人」を「ワイン」に入れ替えることにしている。すなわち――

  Le vin est né libre, et partout il est dans les fers.
  ワインは自由に生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。

ワインは自由?
 なぜか、ワインの自由とか、自由なワインとかを説く御仁がいるらしい。が、自由という言葉に酔っただけのようにしか、私には聞こえず、さっぱり意味がわからない。
 そこで、ルソーのオリジナルな言葉をふまえて、これをワインに当てはめると、なぜかストンと腑に落ちる。ありていに見ると、ワインがさまざまな事情で歪められ、苦しめられていて、本来の持ち味を存分に発揮していない、というワインの窮境がよく理解できるではないか。掣肘という言葉があるように、肘を押さえられると、腕の自由な動きが制せられ、のびのびと振る舞うことができない道理で、つまりワインの不自由こそが、問題なのだ。

解放の哲学(あるいは神学?)
 ここで、福沢諭吉を引いて、「不自由の中に自由あり」なぞと、洒落のめしているわけにはいかない。ワインが自由を恢復するには、どうしたらよいか。それには、できるだけワイン本来の姿に戻してやればいいのだ。
 ここでは、前号に述べた持説の要点だけを繰り返そう。まず、ヌード・ボトルに近づける工夫をすること。生産者のセラーで保存されているままの、変哲もない姿である。が、飾りのラベルやカプセルこそ、不要と思い知るべし。特に四角い形状のラベルは、牢屋の格子のようなものであると心得ること。ボトルに貼り付けられた、あらゆる形状と材質のものが、多かれ少なかれ影響するのだから、迷惑この上ない。

 次は、ワインの味わいを妨げる間接的な要素を、できるだけ排除すること。いうまでもなく、グラスは無臭で清潔なものにかぎり、つねにボウル内をクリーンに保つこと(唾液を逆流させるのは禁物。陶製カップがお好みの方は、どうぞご自由に。)

 それから先は、ワインの味わいに悪さをする電磁波の影響を、ミニマムにするよう努めること。あらゆる金属が、手出しをしていると思ってよい。これらの魔の手からワインを守るためには、石ではなく、木の力を活かすか借りるのが、本筋である。とすれば、ワイン好きの身近にあるコルクを見直して、利用できればお手軽のはず。だが、これについては稿を改めて述べよう。特に関心がおありの方は、直接わたしにメールでお尋ねくださいな。

 さて、どん尻に控えしは、ではなくて、もっとも肝要なことは、飲み手が解放されて自由な精神をもつこと。多くのワイン・ドリンカー諸氏諸嬢は、根拠のないけったいなワインの作法や幻想にとらわれていると悟るべし。ワインにまつわる知識や雑学なぞ、ほとんど美味の役に立たないと見極めてさっさと捨て去ろう。とかくワインマニアが陥りがちな些末な作法などは無視して、自己改革するしかない。

 「自分はワインについて、なにを知っているか?」と、ソクラテスかニュートンもどきに自問すれば、新しい境地が開けるだろう。気持ちを無心あるいは裸にすれば、おのずとアイディアが浮かび上がり、ワインも自分もいっそう解放されるから、結果としていっそう美味しいワインにありつけるはず。
論理的にいえば、《自らを解放しなければ、ワインを解放することは難しい》というテーゼになる。敵は、本能寺にあり。ワインの敵はお主なのだ。おっと、これは石川淳の戯曲タイトルのもじりであって、本当は『おまえの敵はおまえだ』。

 

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