文学とワインと――丸谷才一・頌――

【前編】文学のまわりで:挑発と挑戦

2012.10.26    塚原正章

丸谷才一さんの高等戦略
 読者をさまざまに刺激し、喜びを与えながら知的に挑発するのが、優れた文章の特徴である。ここで、さまざまに刺激するとは、感情に働きかけて面白がらせ、快感や同調を促すといった共感作用だけではない。思わぬ疑問を投げかけて常識を疑わせるといった、知性に対する反省的な作用をもふくんでいる。その両方の意味をこめて、とりわけ評価に値する著作に対する讃辞として、飯塚浩二さんは「プロヴォカティヴ」(刺激的、挑発的)という形容詞をつかったのだろう。
 ちなみに反省的な作用とは、ブレヒト演劇理論でいう、異化作用または異化効果とおなじ。ベルト・ブレヒトとクルト・ワイルが組んだ名作『三文オペラ』から想像できるとおり、優れた演劇もまた、共感効果(愉快や悲しみに誘う)と異化効果(現実やたてまえを疑わせる)の両作用を、観客におこすはずである。
 八面六臂に活躍された丸谷才一さんの文章もまた、ほとんどつねに、ユーモアにあふれて快感に導くというだけでなく、手垢のついた常識やオーソドクシーに疑問符を投げかけ、読者をうまく挑発して、考えるように誘いこむ。その意味で丸谷さんの文章はしたたかであり、成果という尺度で測れば、この国に珍しい高度に知的な戦略行動の勝利でもあった。
 知的をよそおった著作や、慣習と常識をなぞっただけで知性のかけらも感じさせない愚作が、いつの世にも横行している。そういう著者たちは内心、読者をバカにしているのだが、じつのところ、バカにした読者からバカにされていることに、脳天気な著者は気づかない。バカにした者がバカにされるとは、いかにもブレヒト的な逆説ではないか。さても近時、この国にみられるのが、国民をバカにした政治現象や茶番劇。どこか似たような構図が当てはまらなくもないが、これは余談。

挑発する知性
 著述業は本質的にサーヴィス業である、とかねがね思っている。ほんものの娯楽作品は、常識に擦りよるのではなく、常識と切り結ぶ挑発的な知性からしか生まれない。サーヴィス精神をそなえた作者は、書物の買い手である読者をバカにするどころか、読者に正当な敬意をはらい、笑わせ楽しませ嬉しがらせて、人生の充実感をたっぷりと味わわせてくれる。のみならず、それとなく教え反省させてくれる仕掛けにもなっている。平たくいえば、「楽しくてためになる」。たとえば、井上ひさしさんの書物や芝居のように。だから、丸谷才一さんと井上ひさしさんは、素敵な対談相手になったのだろう。戦後日本の読書界と演劇界に革新の波をおこしたご両人がすでに逝かれたいま、わたしたちは喪失と不在の感覚が湧きおこるのを、防ぎようがない。その人の不在が、あらためてその人が持っていた重みを感じさせる。丸谷さんは、まさしく持ち重りがする書物の作者のひとりであり、知性の世界の個性的なガイド役であり、書評の名オルガナイザーであり、向かうところ敵なしの著述家であった――なんて書きだすと、『シラノ・ド・ベルジュラック』の墓碑銘もどきになりかねない。たしかに丸谷さんは劇作家ではなかったけれど、「打てば響く毒舌の名人」ではあった。ただし、小林秀雄とは違った意味でもって。

文章の感染力
 それにしても、個性あふれる発想と文体をもつ書き手ほど、読み手に共感や感染という反応を呼びおこすとみえる。だから、石川淳、吉田健一、安部公房といったこの国が誇る知性については、批評家の文章ですらときに文体が御三家のものに似かよってくるのは、ご愛嬌というもの。文章によって他人の文章を語るには言葉を媒介としなければならず、名人の手になるオリジナリティゆたかな文章には強力な「隠れウィールス」もどきが潜んでいるとすれば、文章感染が起きるのも、まあ、無理はない。
 そのような避けがたい感染作用を自覚している才気ある文章家は、意図的に原作者のパロディやもじりをねらう。たとえば、イギリスのマックス・ビアボーム(『クリスマス・ガーランド』)や、この国の倉橋由美子や和田誠のように。だけれども、パロディが批評になるような知性と芸の持ち主でなければ、そんな高尚な技はできない。
 ちなみに、およそ影響は好ましくなくて、悪影響でしかない、と喝破したのは、最上の批評家であったオスカー・ワイルド。「影響」という替わりに、ボードレールにならって「交感」(コレスポンダンス)とか「響きあい」という言葉を用いるのは、気どりや不遜というものだ。こちら側の精神がヴォルテージが高く、つねに運動をしていないかぎり、精神の相互交流などありえない。はたらきの弱い精神は、受身でもって一方的に影響をこうむるしかないから、無意識のうちに模倣におちいり、二番煎じか盗作まがいをしかねない。ならば、いっそのこと、模倣は芸術の起源であるとアリストテレスもどきに居直るのも手である。

作品は、精神の運動の軌跡
 ふりかえって考えれば、したたかな知性の歩みと、実技の試行錯誤(修練)とに彩られているのが、《自覚的な伝統》というものであろう。とすれば、伝統の端に連なることを自覚している当代の(遅れて生まれてきた)芸術家にとって、純然たる創造などありえない。ゆえに、創造とは自在な引用をふまえた再創造にならざるをえない宿命にある。これが、「芸術=リクリエーション」説である。けれども前提として、そもそも躍動する強靭かつ柔軟な知性と、「精神の運動」(安部公房)なしに、創造などありえない。創造的な模倣には、オリジナルな精神活動の裏打ちが必要なのだ。
 だから、稚拙な模倣など、とうてい芸とはいえず、まして剽窃は論外。だけど、方法的に剽窃をおこなったとおぼしい、ピカソのような例外もある。若き日のピカソの周囲にいた才能ある画家たちは、描きかけの作品をけっしてピカソに見せようとしなかった。一見しただけでピカソは画想を盗み、本人以上に卓抜な絵に仕上げてしまうという、恐るべき芸の持ち主だったからだ。天才は模倣して、原作にとどめを刺すという。あるいは、原作にとどめを刺すような芸の持ち主のことを、天才と定義すべきなのだろう。

定義の再定義をする精神
 おっと、しまった。定義などという重みのある言葉を、うかつに持ちだしてはいけない。それじゃ、ここでちょっと堅苦しい注をつけておこう。とかくこの国では、定義することなしにあいまいなまま、気分や感情にまかせて言葉をたれ流しにしがち。なので、情感は伝わるにしても、論理的な構想が弱ければ、文意不明で説得力に欠ける。その逆に、言葉を自分流に定義しながら命題をつくり、命題を組みあわせて世界を再構築していくという知的操作、つまり思考することには、大きな意味がある。こういう(分析用の概念やタームを形づくる)定義のしかたと用い方を、「操作的な定義」というらしい。
 たとえば、丸山真男さんの議論のしかたが、まさしくその良い例だった。あるとき「先生はナショナリストですか?」という、一学生の素朴ながらきわどい質問に対して、「この国に生まれたことを運命だと思うことがナショナリストの定義であるとしたら、自分はナショナリストです」と、丸山さんは即座に、しかし周到に(マックス・ヴェーバー流の重厚さをひびかせながら)答えたものである。
 が、その一方でわれら弱きものは、バランスをとって、「定義は死である」という、スピノザだったかの定義(?)でもって自戒するにしくはない。定義をすることは、がいして不毛な作業に終わりがち。言葉を用いて定義をつくることが空疎で、自己目的化しかけないという懸念を、思索に徹したスピノザは注意したのだろうか。
 ここで、定義の世界からひとまず離れて、言葉の役割を見なおそう。丸谷才一さんに「考える道具としての言葉」と題した文章がある。言葉の役割は、たんに伝達手段ではなくて、認識し考えるために必要不可欠な道具である、というまっとうな主張である。その説や、よし。およそ道具はつねに磨き、使い方を鍛えなければならない。
 ところで、文学をジャンル別にわけ、奔放な発想と練り上げた言葉でもって、快刀乱麻を断つようなぐあいに縦横無尽に文学世界を語った、丸谷才一の傑作があることは、ご存じだろう。題して、『文学のレッスン』。事前の準備をつくしたインタヴューワー湯川豊さんの、第二ヴァイオリンぶりもあざやかな、楽しくてためになる丸谷流の文学見取り図である。むろん、小説が文学の代表であるわけがなくて、あらゆるジャンルでもって精神が活動した軌跡を、言葉という道具でもって表現したものの総体が、文学なのである。

「エッセイは定義に挑戦する」
 その丸谷さんによれば、ジョン・グロス(『英国文壇史』の著者)に、「エッセイは定義に挑戦する」という名言がある。なんとも、うまい言いかただなあ。定義ができないのが、エッセイという柔軟な文学形式らしいのだ。もともと、このジャンルを発明したモンテーニュ以来、エッセイは考えた道筋を述べたものであり、多様な知性に富んだ幅ひろい思索の文化があるとしたら、これに狭い定義の枠をはめることはむずかしい。
 逆に言えば、よく考えられていない言葉の羅列は、エッセイでないことになるから、ちょいと耳が痛い。そういえば、モンテーニュの『エッセイ』には、「引用だけが輝いている文章がある」という皮肉があった。この拙文など、まさしくそのたぐいに違いない。
 ……と、こんなふうに丸谷才一さんを下手になぞって書きだしたら、(別に丸谷さんの責任ではないが)いつまでもワインに到達しそうにないから、ここらへんで切りあげよう。おあとは、次回の【後編:ワインのまわりで】。

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