ワイン原論・余話

2012.09.26    塚原正章

はじめに:
 前回の大風呂敷めいたエッセイは、これまで私がひそかに考えて試みていたよしなしごとの、いわば総集編にあたる。ために、結論だけを羅列したかのように素っ気なく、ページ数はやたら多いのに、わかりにくい憾みがある。が、さるワインバーのオウナーからは、「塚原流」の全容がほの見えたようだという感想をいただいた。たぶん、それは私の手法とその効果を、目の前で体験しているからだけでなく、実地に試みて効果のあるなしを再確認されているからだろう。いかにも馴染みにくい珍奇な内容なだけに、話や文章をもってしては、理解や想像が容易でないのも無理はない。むろん、筆力が足りないのは、いうまでもないけれど。
 そこで今回は、ワインを美味しくするための各論から離れて、なぜ、そのような発想をしたのかという、私の発想の方法や癖と日ごろの思考法について、説明をしてみたい。いわば、余話そのものであって、直接ワインを論じはしない積もりだから、興味のない方はまったく無視していただいて構わない。およそ考えて遊ぶことに興味のある方だけに宛てた、わが「方法序説」である。

1.思考実験について
 勢いあまって前回エッセイの末尾で、「人生は実験だ」などと、大見得を切ってしまった。これが岡本太郎ならば「人生はエネルギーだ」と、はしゃいだかも知れない。偽悪的な箴言でもって上流社会を震撼した17世紀フランスのモラリスト、ラ・ロシュフコー公爵おじさん(丸山真男の言葉)ならば、「人生は、仮装した悪徳の集合体にすぎない」と断じたかもしれない。へんな冗談はさておくとして、誰でもその人の生き方に裏打ちされた人生論、あるいは人生の定義ができそうなあたりが、妙におもしろい。それでは、いささか苦手ながら、人生とはなにかについて、大正教養派ふうに考えなおしてみようか。
 思うに、問題のない人生はない。それどころか、人生だろうが社会だろうが、仕事や学問であろうが、世界のいたるところに解かれるべき問題や難問が山積している。いや、むしろ、問題が多すぎるのが悩みのタネ。もし問題がないように見える人がいるとすれば、それはただ、当人やそのまわりにいる人が、問題の存在に気づかないか、気づかない振りをしているにすぎまい。つらい問題を前にして、「泣くが嫌さに笑いそろ」(『フィガロの結婚』、辰野・鈴木訳)と、洒落のめす人もいるだろうけれど。
 さて、人生は解くべき問題にあふれているとしたら、「人生は問題だ」と端的に言い切ったほうがキャッチフレーズ風で、現実的な定義かもしれない。が、それもまた当たり前すぎて、あまり気が利いた表現とはいえない。
 そこで、実験の出番になる。ここで説明をくわえれば、人生における実験とは、多くの人が科学者でない以上、むしろ思考実験や実験精神という意味にちかい。通常、なにごとによらず問題を解くためには、まず問題が存在している(らしい)ことが前提。それを感じとって認識を深め、問題の性質と原因を推測しようと努めるところから、解決方法の模索がはじまる。そこで問題を方法的に解決するためには、論理的な分析・構築力にくわえて、ビッグ・アイディアが必要となるが、一連のプロセスに通底するのが科学的な精神(実験マインド)である。
 およそ問題をときほぐすためには、さまざまな仮説を自前で用意し、どういう仮説がどのくらい説明力があるかを検証しつつ、仮説を修正するという作業を繰り返さなければならない。このような思考実験こそ人生であるという見方、これである。たかが人生の定義にしては、ずいぶんとややこしいと思われるかもしれないが、これは誰しもが無意識のうちにおこなっていることを、ただ意識化して明文化したにすぎない。
 その意味では、実験とは思考とおなじ意味であり、頭の働きである。考えるということは、やみくもに頭を悩ますことではなくて、いわば楽しく問題を解こうと努めることだとすれば、「なぜ」(why)と「どのように」(how)のたえざる循環である。つまり、見つけた問題に対して、「なぜ」問題となる事象がおこったかという原因をさぐり、その原因を取り除くには「どのように」したらよいか、と面白がって解決策を案じることの繰り返しである。

2.読書と思考
 余談の余談。私が丸山真男先生からじかに学んだことのひとつが、読書の方法と態度である。学外の根津会館で催されたセミナーで初めてお会いした先生から、「君たちはどのようにして本を読むのか」と逆に尋ねられた。「仮説を持ちながら……」などと優等生的な返事をしてごまかしたら、先生は「著者がどのような問題意識をかかえ、なにを解こうとしているかを、探ることは(学問的な)読書の方法のひとつ。だけれども、これとは逆に、読み手が白紙の態度でもって著作に接すれば、本筋とは別の箇所に興味をそそられたり、おもしろい発見をすることがあるから、柔軟な姿勢をとったらよい」と勧められた。
 いかにも。読書は読み方しだいで受動的ではなくなり、本は読み手の考えや興味を刺激することがある。こういう知的な刺激を与える書物のことを、東洋文化研究所の故・飯塚浩二さんは、「プロヴォカティヴ」という言葉をつかって高く評価した。読書は、ときに思考実験と疑似体験につながる機会でもあるのだ。
 もし、幸いにして著者と問題意識を共有することができれば、読書は興味深い謎解きの様相を呈するかもしれない。また、つねに頭脳がアクティヴかつポジティヴであれば、著者や著作の一行からでも、思いがけず啓発されることもあるはず。本には通常、読者がかかえている問題の解決策そのものは書いてない。けれども読書は、問題を発見したり解決するための、参考情報と論理を提供してくれる機会なのだ。柔軟に学び考えようとする者は、何ごとからも学ぶことができ、自分の考えを発展させられるという、望外の余得があるらしい。そういえば、知者は他人の経験から学び、愚者は自分の経験からも学ばない、とか。本は読みようによっては、人類の経験を集積した「知恵の書」にもなれば、「悪魔の書」にもなりうるのだ。要は、あなた次第ということです。

3.敵-味方の論理について
 つい、ワインの敵と味方というような、分類作業をしたがる癖が、私にはある。だから前回のエッセイでも、それを乱発したような気配。なので、そもそも敵と味方を峻別するのは戦争の論理であって、ワインについて戦争騒ぎをするとは下品でけしからん、と言われそうだ。ワインは平和と文化の友であり産物であって、争いごとなどとは無縁な心豊かな世界に属するものだ、とわが批判者は考えるだろう。まあ、どんなワインもつねに美味しくて、いつも心を楽しませてくれればいいのですがねと、とこちらはつい皮肉のひとつも言いたくなるのだが。
 ここで、敵-味方という判断尺度に、内-外という価値尺度が結びつくと、きわめて厄介なことになる。後者のいわゆる内・外(うちそと)論理こそ、じつは伝統的な日本人の思考法に潜みがちな、問題のある思考の枠組みであるとされているからだ。暗黙または無意識のうちに、心情共同体(ゲマインシャフト)の内側にいるものを「味方」とし、その外側にいる異人を仲間はずれにして「敵」と想定する癖が、かつての日本的なメンタリティにあったのだが、現代日本人もまだその悪癖から自由になっていない。原発推進者がこぞって団結して、利益共同体を守ろうとする「原子力村」の存在こそ、その典型である。ともすれば日本人は、社会人ならぬ「会社人」(内橋克人)になりやすいことも、自覚すべきだろう。

4.敵・味方論理の効用
 たしかに、「敵-味方」の論理は、いささか単純に見えないでもない。が、案外このロジックで判別すると、世界がすっきり見えなくもないのだから、実用的な意味はある。けれども、この論理をより有効な武器にするためには、「誰にとって、いつ、どのように、敵あるいは味方であるか」をつねに意識すべきだろう。そのためには、《敵-味方》の二分法をやめて、《敵-中立―味方》という3段階カテゴリーにしたらよい。中立というグレーゾーンを設定すれば、現状を固定化して考える宿命論や保守主義から脱却して、《敵を中立にし、中立を味方にする》という運動の論理あるいは戦略思考が生まれる。……というとPR(パブリック・リレーションズ)の理論めくが、どんな論理でも無いよりましかもしれない。
 たしかに私の発想のなかに、「敵はなにか?」を明確にしたがる癖がある。理性の敵、文化の敵、自由の敵、人類の未来への敵、などなど。思うにこれは、争いごとが生来好きな性質ではなく、じつは私が争いごとを好まないせいなのである。と書くと、やや逆説的にひびくだろう。
 ここで、「他人の意思を誰かに押しつけ、暴力を背景にして特定の行動を強制する人物や機構」を敵である、と仮に定義しようか。ついでにいえば、他人の意思を押し付けて、不本意な行動を強制するのが、権力(関係)であるという政治学の定義もあり、国家とは警察と軍隊という暴力を独占する権力組織(暴力装置)である、というレーニンのような定義もある。とすれば、あらゆる権力を苦手とし、認めない私のごときは、精神的なアナキストであるのかもしれない。権威になることもまた避けるべきこと、いうまでもない。
 しかし、まあ、そんな大議論はさておけば、日常的あるいは実感的な敵感覚はもっと気楽なものであって、わが身や暮らし(大げさにいえば思想と行動)に介入したり、危険を感じさせるものを、敵と規定している程度なのだ。昔も今も、私は敵や暴力を伴う争いごとを嫌悪していたので、おのずと敵から離れようとしていた。つまり、敵を設定するのは争うためではなく、「防御的」な姿勢と反応にすぎない。 
 記憶のあるかぎり私は、肉体的な暴力を振るうのも受けるのも大嫌いな「平和主義者」であったから、かつて他人に腕を振り上げたことは、一度もない。小学校時代には例によって、力の強いいじめっ子たちと、それに追従するグループが羽振りをきかせていたが、私はつねに彼らと距離をおいて同調しない方針をとり、ややこしくなりそうだと、争いや暴力沙汰になるのを言葉の力を借りて未然に防ごうとしていた。今にして思うと、これはわが身を暴力から守ることには役立ったが、そういう芸ができない弱い仲間を救うようにすべきだったのではないかと、反省している。

5. 敵を措定して見えること――敵は味方で、味方は敵であること
 それでは、なぜワインに敵という言葉を用いたのだろうか。ひとつには、ワインを論じ語る人やワイン学校の講師が、無言のうちにワインの理解者と自認し、あたかもワインの道を説くかのようにみえるのが、笑止千万に感じられたから。つまりはワインの味方を装っているが、そのじつ単にワインの外側に共生したり、ワインを利用したり、食い物にしているだけのことが多いのだ。本来ワインは食い物ではなく、飲み物のはずなのに。ワインの守護神のようなポーズこそ、本当のワインの理解促進を妨げる「阻害要因」、つまりはワインの敵であるかもしれない。敵は味方、味方は敵なのが世知辛いこの世の常であるとしたら、お人好しのワイン愛好者はくれぐれもご用心あれ。
 世にはびこる固定観念は、意識的あるいは弁証法的に逆転しなければならない。そうすれば、まったく新しい世界が見えてくる……とする、ベルトルト・ブレヒト的な思考法に、今もって私は毒されているのかもしれない。そういえば、イヴリン・ウォーに劣らず大好きなカトリック作家であるG・K・チェスタトンもまた、偉大な逆説家であった。逆説のなかに真理が見える、というよりむしろ、真理は逆接のなかにある、とチェスタトン流にいいたくなってしまう。そういう発想の極致が、高雅にして俗に遊ぶ石川淳の戯曲名『おまえの敵はおまえだ』。こういう作家たちの存在と思考法が、わがバイブルであるといったら、おこがましすぎるだろうか。
 わが発想法というより、歪んだ発想というほうが、このエッセイのタイトルに相応しい。

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