2012.08.29 塚原正章
まずは、例によって昔話から。大学で経済学を専攻する学部にはいって、最初に受けた講義『経済学入門』(矢内原勝教授)や、『経済原論』(福岡正夫教授)には、まったく知的な興味を掻き立てられなかった。教える方にとっては「初歩的」な内容を、情熱も工夫もなしに通りいっぺんの説明ですませようとするから退屈し、経済学への興味を失った。けれども、あるとき森嶋道夫さんの『無資源国の経済学』(岩波書店)を読み、私には荒唐無稽としか思えない「無差別曲線」など抜きで、市場でのオークションという紙上実験から説き始めたのに愕然とし、「じつは経済学って、こんなに面白いのだ」と再認識したしだい。
さて、次は「原論」。ものごとを公理や原理でもって統一的に説明しようとするのが、原論という発想なのだろう。マルクス経済学徒ならば、宇野弘蔵さんの三段階説の基本をなす「原理論」を思い出すかもしれない。原論と名乗りこそしないが、理論物理学の最先端をいく村山斉さんは、啓蒙的な野心作『宇宙は何でできているか』(幻冬舎)でもって、宇宙という巨大な《マクロ世界》と、物質を構成する最小単位である素粒子の《ミクロ世界》とを、統一的に理解し説明しようとした。このように、《マクロとミクロの統一》という構想は、「現象vs本質」というドイツ観念論の図式的な発想よりもチャレンジングに響く。
大議論はさておくとして、異質な世界のあいだを貫通する共通原理でつないで説明するやりかたを、ワインの世界に持ち込めないか、というのが今回の私の発想です。なんでもござれの批評家・四方田犬彦さんに、『漫画原論』という著作がある。けれども、パラパラめくったかぎりでは、漫画を構成する多くの要素を個別に点検する、網羅的な議論のようだ。が、ことワインについては各論はキリがないし、とかく木を見て森を見ずになりかねない。えてしてワインブックやワイン教科書の類いは、世間知の押し売りでなければ、寄せ集めた知識のひけらかしにすぎず、実用の役に立ちそうにない。そもそも怪しげな部分や部品をいくら集めたところで、全体像にはならず、混乱の元でしかない。そんなものを知らなくても、あるいは無視して、優れたワインそのものに就いたほうが、よほどワインの官能世界を楽しめること、間違いない。ただ、どういうワインが健全でかつ優れているかについて、多くの著者や講師陣と消費者の判断基準があやふやにみえることが、基本的な問題なのである。
と、いくら偉そうなことをいっても、個人でできることは高が知れている。せいぜい、視点を明確にすることくらいのことか。ならば、またしても福澤諭吉流に、「議論の本位を定めること」から始めるしかない。ワイン本来の味わいを引き出すために、ワイン愛好家はどのようにすればいいか、これである。
夜ごと私は、ワインの「品質チェック」という名のもとに、ラシーヌ扱いのワインを飲み味わっている。ワインが、『不思議な国のアリス』にでてくるボトルのように、“DRINK ME”(私を飲んで)と求めているのだ。そこで私のテーマは、どうすれば味わいを向上させ、どうすれば味わいを妨げる要素を除けるかという、いわば錬金術師めいた課題。これを解くために、テーブル上であれこれ実験している。マーケティング用語でいえば、味わいの《促進要因》と《阻害要因》を判別し、呈味効果をあげるために可能な解法をさぐっているわけ。いずれにせよ、ワインは最終的に消費されることを目的とし、当方が生産者でない以上、臨む立場は消費者のポジションしかない。そもそもワインにとって必要不可欠なのは、生産と消費の両部門だけ。それ以外では、需要と供給の調整・媒介役である流通・販売と、提供・飲用の場が有用だが、そのほかのモメントは必要性が乏しく、パラサイト(寄生虫;ジャンシス・ロビンソンの説)になりかねない。
…と、議論の方向がずれだし、前説が長すぎるので、いつもの竜頭蛇尾になりかねない。ここは少し自戒し、あらかじめ構想の基点を書いておこう。
ワインの生産は、①ブドウ栽培(畑作業)と②醸造(セラー・ワーク)からなり、消費は③ワインの賞味と④食事がからみあっている。ワインの味わいという官能の世界から帰納的に、この計四次元に共通する要素――ワイン(と食事)の味わいを向上させる共通軸――があるはずだ、というのが私の仮説である。
①畑の中での経験から
それは、畑の中での観察からはじまった。シチリアで、サルヴォ・フォーティと栽培実務者集団イ・ヴィニェーリの作業に親しむうち、ブドウ樹の棒仕立(ゴブレ)方式がいかに望ましいか、実感した。その際(あるいは他の仕立て法であろうと)、若木を支える支柱は、昔から当然のように木(たとえば栗製の棒)が用いられていた。イタリアの他の地域でも、村全体で栗の共有林を育て、得られた大量の支柱を各自の畑に用いている賢明なワイン栽培地域が今日でもあり、伝統的に栗棒が尊重されてきたと見当がつく。このような認識を抱きつつ、たまたまギリシャの内陸部を辿ったところ、ビオディナミなどで入念に栽培されている畑のいたる所で、金属製の支柱が林立しているのに仰天した。調べてみたら、金属支柱が突き刺さっている部分から半径50cmくらいの範囲に、強い磁場が形成されていて、土壌(ひいてはブドウ樹)に好ましくない影響が如実に現れている。その旨を栽培家に伝えたら、「そんなことは誰も教えてくれなかった」とびっくりしていたが、同じギリシャでもそれに気づいている賢い生産者もいるのだ(たとえば、スクラヴォス)。
ちなみにギリシャである栽培醸造家が、そういう金属支柱が林立している畑の間の通り道で野外パーティとしゃれ込み、その畑産ワインを試飲させてくれた。が、なんと、本来ありえないような奇妙な味がする。林立する金属支柱がアンテナ効果を生じて、強い電磁波があたり一面に「立ち込めている」具合で、体調までおかしくなりかけた。一計を案じて、ワイン入りのグラスを持ったまま、支柱林から少し離れた場所への移動を提案した。案の定、電磁波の影響がないところでは、ワインの味が著しく向上するではないか。また、電線の下にあるブドウ畑も電磁波の影響をうけていることも、わかってきた。
それに類する経験と観察から、ブドウ畑で金属と電磁波が悪さをしていることを確信した。ブドウの枝を這わせる多段式ワイアも、本当は好ましく無いけれど、これはいたしかたないか。心ある栽培家は、いまでも乾燥させたブドウのツルでもって、枝を結わえ付けているのは、ご存じのとおり。
もちろん、畑には土壌があり、有機栽培やビオディナミを徹底するほど、土壌の質が向上して、畑がふかふかする。化学肥料や散布される除草剤、殺虫剤、SO2といったケミカル物質が、最終的にワインに悪さをすることは、説明するまでもない。むろん畑ではさまざまなタイプの砂・石・礫があってそれぞれ固有の機能を果たしているし、その下にある基層土壌と岩盤もまた高質なブドウ果を生むのに重要な役割をしている。
ここで、「テロワール」という言葉あるいは神秘的な概念を使わないことにしよう。気候風土や畑の斜度・高度・方向など、それぞれの畑には固有の条件があるが、それらをいったん捨象して、思考実験してみよう。畑の中でブドウ栽培に好ましい影響をする要素は、適量の水・風・温度・合計日照時間などを除くとしたら、《土壌、砂・石・礫、木と木製品》と野生酵母であり、悪役は《金属・電磁波・ケミカル類》である。これらの要素が、①畑だけでなく②セラーでも同様の役割を果たすことに、すぐ気づいてよい。
②セラーよ、おまえもか
そこで、セラーの中で好ましいものを列挙しよう。容器としては、木樽(出来るだけ大型ないしフードル)と、コンクリート槽(内側はホーロー・コーティング)である。かつて廃棄の運命にあったコンクリート槽は、いまや良識ある生産者から見直される機運にある。なお、一時的な保管容器としては、プラスティック製も可である。問題は、ステンレス・スティール製タンク。この容器は衛生的でかつコントロールしやすく機能的だが、こと発酵や育成の質的な面では、どうしても味がフラットになり、伸びやかさが消え失せがちになる。ある醸造家は冗談のように、大型のステンレス・スティール製タンクに木製のジャケットを被せて木製発酵槽のように装い、セラー内から金属の輝きを追放する工夫をしていた。これは、電磁波の視点からしても効果的であって、金属による悪さをいくぶんか減らしてくれるはずである。この生産者はだれか。滋味あるユーモアと深い思慮に富んだ、故テオバルド・カッペッラーノその人である。
セラーの構造として、その土地産の岩や石を組み合わせて壁材に用いるのは、テロワールの考えに徹した人である。たとえば、ジャンフランコ・ソルデラのセラーには、霊気すら漂っているような気配がするし、ニコラ・マンフェッラーリの新しいセラーの一郭も印象的である。逆に、濾過機や急速冷却装置その他のモダンな機器は、ワイン本来の味を削ぎ取るとすれば、好ましくない。
醸造中に培養酵母やケミカル類を出来るだけ、あるいはまったく、添加しないほうが個性的なワインの味づくりにとって好ましいことも、すぐと実感できる。ワインに含まれるSO2が苦味を与え、体内で悪さをすること(たとえば尿に不快臭がでる)は、本物の自然派ワインを飲みつけている者には、説明不要のはず。
このようにセラー内でも、温度・湿度などの固有条件を除けば、やはり木とコンクリート(岩石と砂が主成分)、ホーロー質(ガラス質)、岩石が、ワインの良い味にとって味方であり、金属とケミカルと電磁波が敵である。
③ワインの味に影響するもの
この問題について書きだしたらキリがないので、はしょって書くことにする。
まず、容器。ガラス製であることは理の当然として、問題はクリスタルグラスに含まれる鉛の割合。重金属はすぐに溶け出すわけではないから健康上の問題はないが、ワインの味に間接的に働きかけるから、ソーダグラスのほうが味覚的には好ましい。ついでにいえば、ソーダグラスはロブマイヤー社の専売特許ではない。陶磁器は透過光を拒むため、ワインの外観は濁って、まことに冴えない。が、目をつぶって飲めば(これが本当のブラインド・テイスティング?)、口当たりを別とすれば、容器として問題はない。
ボトル。これはヌーディスト宣言で書いた。カプセル、エチケット(ラベル)やインポーター・シールなど、貼り付けてあるものの材質と形状が悪さをすることが多いから、なるべく剥がしたり、角を丸めたりする工夫がいる。
誰でも、どの手でワインを注ぎ、グラスを持つかで、味は微妙あるいは大胆に変わる。つまり、人によって好ましい影響を与える手が違うから、自分で試し注ぎと試し飲みをして、探すこと。もちろん注ぐ人しだいでワインの味が異なるから、見た目は二の次で、上手な(つまり、美味しくなる)注ぎ方が出来る人やソムリエを選びたいものである。手の掌の中央からでる気の働きが肝心なのだ。
照明。いま流行りのLED照明は熱も電磁波も発生させないので、飲用環境としては最適である。ちなみに、ラシーヌの試飲ルームではすべて蛍光管をLEDに取りかえ、万全を期している。
ワインから、金属と電磁波を遠ざけることは重要だが関連するので、次の項目で一括して説明する。
④食事と食卓の問題
食卓あるいはカウンターで、ワインを食事とともに、あるいはなにかをつまみながら、楽しむときの心得はなにか。ワインと料理の組み合わせについは、正解や排他的なペアリングなどありえないから、「美味しい」ワインと「美味しい」料理(店)を選ぶほうが手っ取り早い。そのうえで、ワインと料理にとって共通の敵はなにか、と考えたほうが実質的。
共通の敵の最たるものが金属で、味方は陶磁器と(よい)グラス製品。だとすれば、無理かもしれないが、テーブルの上から出来るだけ金属製品と金属食器を退けることが、論理的な結論となってしまう。金属製の皿などは論外だが、紙や布など何かを敷いて金属類を木から絶縁すれば影響は減る。洋食でも、木箸のほうが好ましいことになるが、スパゲッティ類だけは箸だと美味しく感じられないのは不思議である。カトラリーでも、手で持つ部分が中膨れし、中空になっている昔風の高級食器は、あまり悪さをしない。いずれにせよ、持ち手(ハンドル)の部分が木や骨、あるいはプラスティック製であれば、金属が直接肌に触れないから、料理の味わいを損なわないはず。
料理はともかくとして、問題はワインの味わい。金属製カトラリーが同じテーブル上に直接おかれていると、なぜかグラスの中のワインに悪さをしかねないから、くれぐれもご用心。ともかく、金属類や携帯電話など電磁波発生/共鳴装置が、ワインや料理と同じテーブル上にあると、ワインの調子が狂いだすのだ。おかしなのは、ボトルとワインの関係。同じテーブル上に抜栓したボトルと、ワインが注がれたグラスがあるとしよう。ワインボトルの口の辺りで電磁波が増幅されるせいか、グラス中のワインが反応し、味わいに険がでる。いずれにせよ、電磁波が人間の体調と味覚、ワインの味わい、の双方に影響するらしいのだ。
なお、最後は、ワインや食品のラベルに印刷されているバーコード(JANコード)とQRコードの問題。この複雑な縞模様や図柄は、空中を飛びかう電磁波と干渉作用をおこすためだろうか、味わいが変化してしまうことに注意されたい。誤解を恐れず、なにか木製品でもって簡単な結界めいたものをこしらえるのも、悪くない。
結論:ワインの味わいは、環境と飲み手の状況によって、大きく左右される。人間も、生きているワインも、目に見えないものや、無関係に見える意外なものによって、影響を受けている。ワインは感受性が強く、生まれ育った時点からすでに、さまざまなプラス・マイナスの作用を受けながら育つが、ボトルの中にワインの魂が息づいていると、ボードレールのように思ったほうが正解なのではなかろうか。他方、人間もいやおうなく環境に支配されているが、心理的にも影響をうけやすく、味わいは主観的だから、心理や観念、情報に大きく左右される。ワインと人間は、かくも感受性が強く、また共通した要素から同時に影響されもする。とすると、ワインに客観的な味わいや、本当の味わいがあるかとは、想定しがたく、なにが本来の味かについては、味わいの範囲をおぼろげに推定するしかない。けれども、できるだけ雑念を去り、虚心にワインに向かえば、見えてくるものがある。
仮説を作りながら合理的な努力と実験をしつつ、味を損なう阻害要因をミニマムにし、味を向上させる要素をマキシマイズさせれば、核心により迫る道が見えてくると、いまの私は思う。
その仮説とはなにか。ワインの味方は、木と石(砂)および土で作られた陶磁器、重金属を含まないガラスと野生酵母であり、ワインの敵は、金属とケミカル、その他の人工的な産物と、電磁波や磁界である。そこで、「ワインの伴侶」扱いされる料理そのものは、ワインの味方とも敵とも決めつけられない。材料の質と料理の腕前しだいであって、美味しい料理はワインと人間にとって、古来喜びの源泉であることに変わりはない。ともかく現代では、人間とワインに悪さをするものが遍在しているから、ワイン本来の味わい(の可能性)を楽しむことが意外に難しい状況になっている。としたら、自分で工夫するしかない。人生は実験である。