2012.07.26 塚原正章
実像と虚像、あるいは客観的認識について
だれも、本当のことを知らない。けれども、かぎりなく真実に近づくことは出来る。では、どのようにして?
かつて理論物理学者のハイゼンべルグが量子力学の分野で不確定性原理を唱え、電子の位置と運動量(速度)を厳密な意味では正確に測定できない、とした。なぜならば、観測者の測定行為そのものが、測定結果に不可避な影響を及ぼすからである。この説が出て以来、完全に客観的な認識なるものは成立しないことが、科学の世界ではほぼ常識となったと聞く。人文科学でもまた、マックス・ヴェーバーが、社会科学における客観的な認識が成立しにくいことを、いわゆる『社会科学方法論』でもって鮮やかに立論した。かくして20世紀の初頭、二人のドイツ人によって、中立的で客観的な認識は、物理科学でも社会科学でも成り立たないことが、明らかにされたことになる。
科学的な思考方法とは縁遠い一般社会では――あるいは情けなくもジャーナリズムですら――いまだに客観性が看板に掲げられ、中立的な認識が可能であるという呑気な迷信がはびこっている。自分が利害関係から自由なニュートラルな立場にある、などと無邪気に述べる御仁に出会うと、呆気にとられてしまう。最近もフェスティヴァン関係の打ち合せで、久しぶりにこの言葉を聞いて、思わずニヤリとした。だれでも、自分の立場(つまりは利害関係)を持っている以上、その立場に拘束されるがゆえに(これを社会学では「存在の被拘束性」という)、ニュートラルなんてありえないのに、なんとまあ能天気なこと。誰もが自分の立場を持つからこそ、お互いに他人の立場を尊重しあい、高い理念に拘りながらも、現実的な利害の妥協策を講じる、という難題に取り組まなくてはならないのだ。
生産者にとって、ワインの本当の味とは?
しかしまあ、利害の中立性とか認識の客観性などというややこしい問題には、これ以上深入りしないことにして、ワインと料理の味わいという、お馴染みの世界に方向転換するとしよう。だが、実はここでも、同じ問題が控えているのだ。たとえば、「ワインの本当の味」とは、なにを指しているのだろうか。どのようにしたら、「本当の味」に近づくことが出来るのだろうか。一般論を抽象的に語っても意味がないから、すこし具体的に見ることにする。
あるアペラシオンまたはワイン生産地区で、ある生産者があるブドウから造った、あるヴィンテッジとキュヴェを名乗る、ボトルがここにあるとしよう。たとえば、アスティでエツィオ・トリンケーロがバルベーラ種から造る、「ラ・バルスリーナ」2004年。このワインはもちろん、大樽でテイスティングしたときと、ボトルに詰められたときでは、味わいが異なるが、一般的には完成時点での味わいが、「本当の味」ということになる。それでは、いつが完成時点なのだろうか。
もしも、インポーターが早めのビン詰め(あるいは出荷)を望んで、生産者にボトリング(出荷)してもらったとしよう。その早詰め(早出し)ワインと、造り手のエツィオが例によって「まあ、ちょっと若いけれど、そろそろこの段階でボトリング(あるいは出荷)しよう」と最終的に決めたものとでは、もちろん味わいが異なる。どちらが、正式の味わいかは、この場合は造り手の意思が貫徹したキュヴェというべきであろう。
むろん、既に述べてきたように、セラーで「本当の味わい」を見るためには、カプセルやラベル類が付いていない「ヌード・ボトル」から試飲するのが原則なこと、いうまでもない。が、問題は、その先にある。
ワインの味―バラツキの問題
同時にビン詰めされた、同じロットに属するボトルにしても、ワインはビンごとに大なり小なり味わいの差がある。ブショネ原因物質(2.4.6.-TCA類)まみれのコルクを打ったボトル(通常5%前後とされる)では、当然に本来の味わいと異なるから、これは除いて考えよう。残りの95%のワインの味わいは、バラツキの程度が正規曲線を描くとはかぎらないにしても、かならず品質(したがって味わい)にバラツキがある。
味のバラツキを統計学的に処理することは難しいが、統計学的イメージとして味わいの分散(バラツキ)を考えてみよう。なお、統計学的な思考に慣れるには、推測統計学の泰斗・増山元三郎の『デタラメの世界』(岩波新書)と『成長の個体差』(みすず書房)、数量化理論の林知己夫『科学と常識』(東洋経済新報社)を参照のこと。
さて、味わいに正規分布のバラツキがあると仮定し、X軸に「味わいのよさ」、Y軸に「出現度数」をとったヒストグラム(棒グラフ)を用いると、味わいの良さを基準にしたボトル=ワインの分布は、釣鐘型に分布することになる。正規分布の定義からして、X軸の「味わいの平均」を中心として標準偏差±1(計σ=2)の両端の間に、全体の65%のボトルが含まれることになる。たとえば、このバラツキの範囲を、特定のワインについての「標準的な味わい」と、操作的に定義することもできる。特定ロットについて、ボトルの65%程度を「標準的な味わい」の範囲内にあるとするのは、実務上おおむね妥当なのではなかろうか。
味わいの基準はどこに?
それでは、味わいの基準点をどこに置いたらよいのだろうか。最上の品質(クレーム・ド・クレーム)にあるボトルのものを基準にするか、平均値の品質のワインの味わいを基準にするかでもって、品質評価の見方(バラツキに対する評価)に大差がでる。同じ正規分布形(バラツキ具合)にある特定ワインをとった場合、先の「標準的な味わい」は、標準偏差の2倍以内にあるのだが、もし標準範囲の上限(釣鐘型の右方)を基準にすると、上限ワインと下限(釣鐘型の左方)ワインとでは、味わいの距離に大差(標準偏差の幅でσ=2)がある。けれども、平均値を基準とした場合は、「標準的な味わい」の下限にあるワインと平均値にあるワインとの「味わいの距離」はσ=1だから、味わいのバラツキ距離は半分になる。つまり、下限にあるボトルの味わいは、基準となる味わい(平均値)により近づくことになる。
ワイン愛好家や自称「ワインのプロ」は、えてしてワインを神話化しがちで、特定ワインが示しうる最上の味わいこそ、そのワインの持ち味であるとする傾向があるようだ。が、この見方をとると、「標準的な味わい」の範囲内で下限にあるワインでも、最上の味からすれば、えらく「味が悪い」と見做され、あげくは問題ワイン扱いされて返品対象となりかねない。
バラツキを愛する雅量を
私たちラシーヌでは、平均値の味わいを基準とすべきであって、最上の状態のボトルの味わいを標準とすべきではない、と考えている。これは学校の試験で、クラス全体の成績の指標として、全員の採点結果の平均値を用いるのと同断であって、優等生の答案をもって、クラスの平均的な水準と見做すわけにはいかない。ワインが生きている以上、その品質と味わいにバラツキは付き物だとすれば、ワイン愛好家は過度に神経質にならず、バラツキを愛するというくらいの雅量があって欲しいものである。
が、だからといってインポーターは、「欠点を愛しなさい」とか、「コンディションの悪いワインを愛しなさい」などとほざくべからず。インポーターの扱い方が原因で起きる「ワインの劣化」までが、許されていいものだろうか。医者が招く医原病は、訴訟の対象になることを、銘記しなくてはなるまい。
評価基準(クライテリア)は、オリジナル・コンディション
ここまでが、生産者のセラーの中、つまり私たちが言うところの「オリジナル・コンディション」下における品質と味わいである。この議論では、すでに正規分布状のバラツキが想定されているのだが、並行輸入ワインはもとより、たとえ蔵元から直接出荷された「正規品」であっても、ここから先の状況が千差万別である。蔵元から輸出業者(フォワダー)の保管倉庫までに用いるトラックの種類(ラシーヌでは定温トラック限定だが、生産者多数によればこれは例外とのこと)、保管倉庫の状態、コンテナの種類、海外におけるコンテナ船と載せ替えの有無や状況、輸出先(日本)のコンテナヤード、ヤードから国内保管倉庫までのコンテナ輸送トラックの電源装備状況(ラシーヌは装備車=MG車)、保管倉庫のドックインシェルター装備状況、倉庫おけるデバン作業の仕方(コンテナ扉を開けて、積載内容を確認して庫内に移すこと。ラシーヌでは毎回立ち会う)、保管倉庫の管理状況(実際の温度・湿度。ラシーヌでは厳密に15℃[以下])。倉庫の出荷体制と、配送トラックの水準(定温維持状況とネットワーク。ラシーヌは、リファーシステム・ジャパンが基準)。最後に配送先(卸・酒販店/販売店・飲食店)の保管状況。
消費者の判断基準はなにか
このように、ワインのボトルは長旅をへて、ようやく最終的な消費者のもとで飲用されることになる。では、消費者がその特定ワインの品質と味わいを評価する基準は、なにだろうか? 消費者の評価基準は、
A)内在的な尺度:「オリジナル・コンディションにおける標準的な味わいに基づく尺度」か、
B)当人に固有の尺度:「当人が形成してきた広いワインの鑑定基準」でないとすれば、
C) 伝聞情報尺度:「ワイン批評家/ジャーナリストや、ワイン雑誌、ワイン教室から得た知識や情報」
であろう。むろん、望ましいのは、A)とB)であって、両方を矛盾無く併せ持つことが理想である。C)は間接的な伝聞情報であって、評価尺度たりえない。
消費者は通常、海外生産者のセラーにおけるオリジナル・コンディションに触れることがないとすれば、そのワイン自身に由来する判断基準A)ではないことになる。が、仮に、日本国内で最終消費者に到達したときの品質が、オリジナル・コンディションと同一または近似しているとすれば、そのワインをケースで買うか、少なくとも複数回飲めば、およその水準をつかむことは可能である。
ちなみに、ラシーヌの品質基準は、《限りなくオリジナル・コンディションに近いこと》だが、その実現のためのハードルは高い。事実、私自身の感想としては、日本における輸入ワインの品質は概してオリジナル・コンディションとは程遠く、ワインとしてですら問題を感じることが少なくない。むろんのこと、ラシーヌは目に見えない努力を重ねているが、目標への到達度について判断は、社の内外で分かれて当然。とはいえ、ラシーヌ扱いワインについては、少なくとも生産地の国内で流通している品質水準よりも、日本国内で流通している品質水準(したがって味わい)は格段に高いと合田と私は自負しており、来日した生産者からもそのように評価していただいている。
ワインの本当の味わいを妨げているものは?
さて、そのような状況を踏まえて、最初の問いに還ろう。ようやく最終消費段階まで無事に辿りついたワインが、幸いオリジナル・コンディションに近かったとしても、さて「本当の味わい」とは、なんだろうか。長くなったから、私の答えは次回にまわしてもよいが、ヒントだけは記しておきたい。
ワインのサーヴィス温度とグラスについては、さまざまな説や情報が飛び交っている。
ことにグラスについては、形状・大きさと清浄さ加減だけでなく、成分(金属分=鉛の有無)と、持ち方(持つ場所と指、右手か左手か)が、重要である。いうまでもなく、ボトルからの注ぎ方(右手・左手)と、ボトルの表面(ラベルなど)からの影響も大。もちろん、電磁波による被害をシャットアウトしなくては、本来の味わいに近づけない。
それ以外にも、ワインは本質的に金属を嫌うから、テーブルの上からあらゆる金属類を遠ざけたほうがよい。その点、ワインと料理のマリアージュなどに現を抜かしているワイン愛好家や評論家が、カトラリーについて一言しないのは、不可解としか言いようが無い。ワインのボトルとグラスから電磁波と金属の影響を遠ざけるには、どのようにしたらよいか、次号までの宿題として、読者は各自でお考えいただきたい。
それじゃ、皆さん、また。(できたら、懐かしい吉田秀和さんの口調でお願いします!)