「問題」のありかについて

2008.1.8   塚原 正章

―問題は、どこにでもある。ただ、見えないか、それに気付かないだけのことだ。

1. 問題とはなにか
  のっけから物騒なタイトルではあるが、とりたてて他意はない。なにか考えようとするとき必ず頭に浮かぶことなので、あらためてテーマっぽく取り上げてみただけです。

 20年ほど前のこと、政治思想界の論客であった故・安東仁兵衛さんの主催する勉強会が、堤清二氏(現在の詩人・辻井喬氏)を招いて、「日本の政治」に関する講演を開いたときのこと。かつての東大・共産党細胞で大先輩にあたる「安仁(あんじん)さん」(愛称)からのお声がかりとあって、招き(というよりも命令)に応じた堤氏は、日本政治の現状と構造、問題点に関する見事な分析レポートを披露し、曲者ぞろいの聴衆を魅了した。報告が終わって質疑応答に移った際、「知性とはなにか」という参加者からの質問に対して、「問題を論理的に考え抜く能力である」と氏。あまりに優等生的な答えだったので、思わず私は「知性とは、むしろ問題を提出する能力ではないか」と反問したところ、氏はあっさり「そのとおりです」とにこやかに訂正された記憶がある。

 今でも私の考えは変わらない。知性とは、与えられた問題に解を出すという受身の行為ではなくて、状況のなかに潜む問題をあぶりだして、自分なりにその解法を案じるプロセスに近いのではなかろうか。外から与えられた問題に対してなら、たとえばこの国に巣食うおぞましい東大出身者ですら、知性ならぬ脳内にあるご自慢の情報処理マシンを動員して、もっともらしい答をでっちあげることが可能。だが、この程度の頭の働きを、知性と称するのはおこがましい。まして、頭脳明晰な実際家ならば(実際家は常に頭脳明晰であるから、これはトートロジーであるが)、問題が正しく捉えられていて鮮明であるかぎり、答えの方向性と範囲はおのずと明らか。自分で練り上げた複数の代替案のなかから、論理的かつ経済合理的にみて採用可能な解決案を選択することは、さほど難しくあるまい。日頃、自分でものを考えるくせと手順が身に付いてさえいれば、あらかたの日常問題に対しては、採用可能な合理的解決策に近づくことができて当然。それよりも、むしろ考えるに足る「優れた」問題を提出するほうがずっと難しいわけで、そういう問題がこしらえられたら、もう、しめたものである。

 かつて、カール・マルクスは、「すべての問題は解決しうる」と豪語したそうだが、「すべてのことは問題にしうる」といったほうがより適切であっただろう。いうまでもなく、マルクスその人は素晴らしい問題を世に先んじて提出して、徹底して考え抜いた思索家であった。ただし、その答えがいささか過度に論理的ないし偏執狂的であったかもしれないが(過度に論理的であることが狂人の本性である、とはG・K・チェスタトンの説)、問題意識と論理実験のプロセスがユニークであったし、彼の提出した大問題はおおかたの社会主義政権が実質的に崩壊した今なお、ほとんど未解決のまま永遠の課題として残されている。

 残念ながら、すぐれた問題提起に対して、誰にでもすぐによいアイディアや解決策が思い浮かぶとはかぎらないのが、この世のならいである。マーケティング界でいうところの「ビッグ・アイディア」を探し出すのには、私も前の勤め先でずいぶん難儀した。それはともかく、日頃から因習や固定観念にとらわれず、頭脳を創造的に働かせる訓練を意識的にしていれば、相対的によいアイディアが浮かび出る可能性が高い、とは期待できる。「発想」とは、英語で“idea generation”。まさしくアイディアを生み出すことをさすのだが、発想の転換とか逆転など、言うは易しく行うは難い。そこで、問題を解決するための具体的なアプローチとアイディア開発の方法が、次なるテーマとなりうるが、ここは数多くある専門書や自称・実用本にまかせるとしよう。

2. ラシーヌの問題点
 当然ながら問題は、小社ラシーヌにも山積している。

 《インポーターには、楕円のように二つの焦点がある。すなわち、海外からの仕入れと、国内における販売という、まったく異質のフィールドと特徴を有する、二つの焦点である》というのが、年来のわが持説である。まあ、花田清輝の「楕円幻想」のもじりなどと、いうなかれ。結構、本気なのだから。この二つの焦点がもたらすエネルギーと葛藤は、インポーターに通有の事情であるが、必ずしも好都合に葛藤が解消されるわけではない。

 ご存知のようにラシーヌの商品開発は、市場における当該ワインの知名度やブランド力、ワイン・ジャーナリズムのレイティングや評価などに、まったく拘泥しないどころか、それらを無視しているにひとしい。ひとえにテイスティングにもとづき、まずワインのクオリティと商品力を自分たちで評価する。つぎに、造り手の考え方とワイン哲学に耳を傾け、あわせて栽培醸造の現場を確認して、《言葉と現実との乖離》がないことを確かめる。ワインの世界には、ハムレットではないがあまりにも空疎な「言葉、言葉、言葉」が氾濫しているが、言葉が正確に実態を反映している保証はまったくない。なかには意識的に不正確な情報を伝えて相手を操作しようとする、心得違いの生産者や悪質なワイン関係者がどこの国にもいることに、注意を喚起しておきたい。

 しかしまあ、そんな言葉づかいを詮索するのは時間の無駄だから、本筋に戻ろう。私たちがワインに感じ入り、栽培と醸造の現場に深く納得がいき、ワインとマーケットとの適合性があるとしても、ラシーヌのビジネスの対象とすべきかどうかという判断は、また別の次元に属す。ともかく、そのようなプロセスを経て、ラシーヌは造り手との共鳴・共感作用を前提とした取引関係を結ぶことにしている。

 このように小社は、たんに市場の論理にあわせて《売れるものはよい商品である》とする俗流マーケティングには従わず、《売れるものならなんでも仕入れる》という類の、市場への追随あるいは迎合型のマーケティングは採らない。

 逆に、やせ我慢をしてでもわが道を行く、という商品開発優位型の企業ポリシーである以上、市場における小社のポジショニングは、フォロワー型ではなくて開発者型にならざるをえない。それゆえ、小社の構造的な問題は、〈仕入れ=商品開発部門〉と、〈営業=市場開発部門〉とのギャップが生じがちなことである。

 といっても、ギャップは、このような理念に特有の構造的特徴なのであって、「営業力が弱い」からだろうなどと短絡されては困る。営業=販売活動を支える、本質的なマーケティングのあり方が、問われているということなのだ。ここで、販売とマーケティングの関係あるいは差異は、明らかである。長らくマーケティング・ビジネスにかかわっていたのでよく知っているのだが、およそマーケティングは味気ない世界であって、にもかかわらず私が唯一尊敬している「マーケティング界の哲学者」の故・レヴィット教授は、次のように明言する。「販売は企業の製品と顧客のキャッシュを交換するためのテクニック」にとどまるが、マーケティングは、「顧客ニーズを発見し、創造し、触発し、満足させるといった一連の努力」をする事業活動なのである(「マーケティング近視眼」『T・レヴィット マーケティング論』ダイヤモンド社)。ついでながら教授は、永続的な成長産業など存在せず、代替品が現れない製品はないという卓見の持ち主であって、「生産にかかる限界コストさえ低くすると、なんとか利益が出るという考え方は大変な思い違い」として「製品偏重主義の罠」への警戒を説く。この点、優れたワインに思い入れしがちな私たちは、大いに自戒しなければなるまい。

 そこで再説すれば、ラシーヌの基本的な問題点は、当社の企業理念に内在する構造的な特質なのだから、レヴィットが説く本来の事業活動=マーケティングにいよいよ邁進せざるをえなくなる。道は遠いと言わざるをえない。とはいえ、販売というテクニックにもまた、意を用いる必要があること、言うをまたない。たとえ商品がよく理解できているとしても、商品を媒介として顧客と円滑なコミュニケーションが成り立たないようでは、営業としては落第。その上で、教授の説くように、ポジティヴに顧客のニーズを発見・創造・触発しつつ、満足していただくよう、営業=市場開発部門もまた、仕入れ=商品開発部門と共同歩調をとって戦略的な活動をしなければならない――というのが、ラシーヌの問題というよりは実現すべき課題である。なんとも、当たり前の結論になってしまったけれど、基本を問うということは、しばしばそういうことでもあるのですね。

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