近思雑録 - あるいは、本文と注の逆転した関係? -

2012.02.27    塚原正章

 気がついてみれば、嫌いなものを避けるのが、いつしか生活ポリシーになっていた。たとえば、資格試験のための無駄な暗記。というわけで、ワイン・アドヴァイザーやソムリエの資格とは、無縁のままである。
【注。むろん、日本ソムリエ協会の悪口をいっているのではないし、そんな無駄な寄り道をしている余裕はない。そもそもワインにかかわる資格など、ワインを楽しむには無用の存在――というより、およそものごとを楽しむためには、いっさい資格は要らない、というのが持説でした。なぜかって? たとえば食事を楽しんだり、楽しんでもらったりする際、「フード・エンタテイナー」(架空)という資格など、不要でしょうに。それに、資格を見せびらかすのは、あまり褒められた趣味ではないですね。楽しむのに必要なのは、ものごと(たとえば食事や音楽)に対するまっとうな関心という、人間的なものだけ。なお、小生うまれつき忘却力に恵まれていて、記憶スピードよりも忘却速度がまさるので、暗記が苦手である。それに、本当に必要で大切なことならば、自然に記憶できるはずでしょう。】

 でも、よく考えてみれば、嫌いなものというより、危険なものを避けるというのが、生き方の根本原則になっていたようだ。なぜなら、好き嫌いは趣味の世界にちかいけれど、安全と危険は生命にかかわる問題だから。
【注。危険を避けるのは、生命の持続にかかわる本能的な生活態度だが、冒険を避けていては前進できず、この矛盾をどうバランスよく解決するかが人生の課題。だが、大きすぎる問題に、正面から取り組むのは愚策だから、ワインに的を絞るのも便法。そこで、好きなワインと安全なワインとでは、どちらが大事かは、愚問ではない。まず、ワインはあらゆる食品とおなじく、安全でなくてはならない。もっとも、およそアルコールは純粋にちかいほど人体に危険なことは言うまでもないが、マット・クレイマーもどこかで言っていたように、ワインはアルコール性飲料などという単純なものではないし、含有成分の量では水が主成分なのでしたね。問題は、安全度は相対的なものであって、客観的な基準が設けにくいこと。これは、放射性物質の「安全度」のばあいと変わらない。たしかに、どのような摂取方法によっても安全であるという食品は存在しないので、「安全なワイン」というカテゴリーも相対的で気休めの分類にすぎない。にしても、畑とセラーで、除草剤などの化学薬品や、化学的な処理や添加剤とは縁遠いワイン(自然派という呼称が妥当かどうかは別として)のほうが、工場のようなワイナリーで量産されるものよりも身体に悪くないことは、たやすく見当がつく。そのうえでいえば、安全なワインが美味しい保証は皆無だから、ワイン愛好家は「自然派」とか「無添加」という宣伝文句に踊らされずに、安全かつ美味なワインを捜し求めなくてはならない。そういうワインを好きになることが、ワイン人の生き方ではないでしょうか。】

 だが、嫌いなものを避けるという消極的な態度よりも、できるものなら、あるいはできるだけ、好きなものごとを探求し、それらに囲まれて暮らしていたいのが人情というもの。いくら原発事故災害がこの国を被いつくし、未来への展望と確信を覆したとはいえ、平常心まで失ってはなるまい。もちろん、人生、まずいワインを飲んでいたりする余裕はないが、ワインだけが人生じゃないのもたしか。
【注。ワイン浸りの人生なんて、アルコール中毒の予備軍みたいなもの。まあ、ワインで生計を立てるのは仕方がないとしても、生活の中心がワインであったら、ちょっと悲しい。美味しいワインにアクセスできるようになったり、ワインを美味しく飲む技術を身に付けたりすることは、必ずしも易しくはないにしても、あくまで生活の知恵や技の範囲内にすぎない。それにしても、美味しいワインを楽しめる機会が、あまりにも少ないのが嘆かわしい現実を、どうしたらよいものだろうか。おっと、ここは嘆き節など披露しているばあいではない。いくら未曾有の悲惨な状況に置かれているとはいえ、ワインとの適切な距離のおき方を、ちょっと考えてみたかったのだ。】

彫刻と絵画、あるいは作品を超える作者の人間性
 縁あって最近わが身辺に仲間入りをしたもののなかに、彫刻家の高田博厚さん(1900-1987)の小品があり、ワイン一辺倒の生活に、彩を添えてくれる。
【注。パステル画の素描「仰向きに横たわる裸婦」(仮題。1976年)と、ブロンズ彫刻「女のトルソ」(1963年)。そういえば40年前、一度だけ高田さんの講演を聞いたことがある。温容ななかに戦闘的な知性を感じさせる器の人物であった。戦争をはさんで約30年間パリに暮らした高田さんは、叡智にみちたさまざまな芸術家と魂の親交を結ぶことができた、稀有の日本人。たとえ小品であろうと、ルオーに傾倒して学んだだけあって、その色彩感と造形力は、たたえようもなく深く、精神性を感じさせる。
 ある展覧会カタログのなかで氏は、「素描の勉強を絶えずしているのは、彫刻の下絵としてではない。人体のあらゆる姿態を写生してみて、長い時の力と智慧によって、それらの中のどれが彫刻の安定感を感得するためである。彫刻も素描も自分にとって区別はないが、絵画は私にとって心のよろこびである」という意味のことを述べている。そのパステル画を見ていると、ジョルジュ・ルオーの輪郭線とオディロン・ルドンをおもわせる色使いの中に、画家が息づいているのを感じる。
 にもかかわらず、作品よりも画家の人物のほうが上だという実感もまた、否定しがたい。そのような見方は、とびきり質の高い個性的なワインについても、当てはまるようだ。特別なワインは、テロワールの可能性を最大限かつ優美に引き出しているだけでなく、別次元にある造り手の人間性をも映し出していると思わせる。美味しさを上まわるような精神性が、ワインの味わいのなかに感じとれるとき、次元がひとつ深まったかのように感動する。それが、特別なワインであることの条件ではないだろうか、と私は考えている。】

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