巨星、墜つ - ジュゼッペ・クィンタレッリの訃報に接して -

2012.01.19    塚原正章

 2012年1月、イタリアワイン界にとって悲報が相次いで届いた。まず1月3日、ジューリオ・ガンベッリが86歳で亡くなった。キアンティ・クラッシコ地区のラッダで、新星モンテヴェルティーネ社を興した故セルジオ・マネッティ氏とともに、あえて格下のヴィーノ・ダ・タボラを名乗るサンジョヴェーゼ酒《レ・ペルゴレ・トルテ》を造りだして世に問うた、独創的な醸造コンサルタントであった――と、過去形で書かなければならないのが、口惜しい。あまりにも絶妙な味覚と、神秘的なまでの分析能力をもとにして、ワインの可能性を開花させる名手だったがゆえに、まるでギリシャ神話の神々に付けられる属性(アトリビュート)のように、「マエストロ・アッサッジャトーレ」(マスター・テイスター、味匠)と称えられた。

 次いで1月15日に、ジュゼッペ・クィンタレッリが84歳で世を去ったという急報が、ポーランドとアメリカのブロギストたちから、間をおかずにもたらされた。クィンタレッリを敬愛する友にその逝去を告げるとき、私はまるで『シラノ・ド・ベルジュラック』の幕切れの場面、ロクサーヌの前で「シラノ週報」をひもといて自身の暗殺を報じる、シラノその人のような気分であった。

 僥倖にも知り合うことのできた二人の天才的な同時代人の逝去は、自分自身のどこかが崩れ去るような「自傷」「自損」の思いに駆り立てる。彼らとの出会いや思い出を共有するのは、共に歩んできたラシーヌ(と、もとル・テロワール)のパートナー・合田泰子あるのみだが、両氏が手掛けたワインを鍾愛する知友とともに、たとえばクィンタレッリから贈られた秘蔵ワインを囲みながら、しみじみと語り合いたいものだ。

 思えば、クィンタレッリ(愛称「ベーピ」)との付き合いは長い。ベーピのことを本格的に知ったのは、バートン・アンダーソンの著作からである。正確にいえば、『ヴィーノ』(未訳の処女作評論)よりもむしろ、とてつもない労作『イタリアワイン地図』(未訳)からである。なにしろ、添えられた写真の、鋭い眼差し(まさしく眼光炯炯としか、呼びようがない)には、ほとんど畏怖の念すら覚えたくらい。本格的なイタリアワイン好きになった原因のひとつが、クィンタレッリの存在であることは、間違いない。

 ともかく、イタリア出張の折りには、当然のように何回いや十数回もベーピのワイン(ロッソ・デル・ベーピが世に出る、ずっと前のことだ)を合田と共に味わい、心から感嘆せざるを得なかった。合田と共にル・テロワールというワインの輸入会社を立ち上げ、ようやく軌道に乗ったころ、二人でクィンタレッリを訪ねる決心がつき、恐る恐るベーピに恋文のような手紙を書いて、訪問の許しを得た。

 チェリーの白い花が咲きほこるころ、ネグラールの丘陵にある、看板ひとつない分かりにくいワイナリーにたどり着いた。趣味の良いボッテがひっそり佇む、あの伝説的な地下の暗くて冷たいテイスティング・ルームは、秘儀の間のようであった。数日ときに数週間も前に開栓したクィンタレッリのワインが、本人の手で小さなイソグラスに順番に注がれていく。もちろん、スピットしないことは、ソルデラのセラーにおけるテイスティングと、変わらない。一杯ごとに想像力に働きかけるワインの感想を告げながら、至悦のテイスティングが終わると、場所を変えて一階の居間で雑談が始まった。質問するだけでなく、私たちの異なる経歴やワイン歴とともに、ル・テロワールの哲学と仕事の仕方(どちらもラシーヌと基本的に同一である)を、遠慮がちに披露した。

 そろそろ私たちが、暇を告げようとしたところ、ベーピがこう語りかけた。「あなた方は、インポーターでしょう? なぜ、私と一緒に仕事をしたいと、あなた方は申し出ないのですか?」 思いがけない言葉を聞いて、仰天した。クィンタレッリ自身から仕事の話が、しかもこのような優しい口調で出るとは、まったく予期していなかったから。もちろん、私たちに拒む理由など、ありようがない。「どのワインが、何本欲しいのか、希望を言ってみたらどうですか」という、追い討ちのような言葉を聞いて、もはや夢ではないと悟り、慌てながらおよその見当で、合田がワイン名と本数を書いて手渡したことが、まるで昨日のように思い出される。

 こうして、望外の仕事がはじまり、ル・テロワールが扱いはじめたクィンタレッリのワインは、大方から好評を得て、取り引き量も拡大していった。コンディションが良いだけでなく、当時の蔵出し価格がとてもリーズナブルであったことも、その理由だろう。あるときベーピは、「あなた方は、私にとってアメリカのインポーターの、チャダドンのようだ」と、なぜか持ち上げてくれた。ベーピの長年の取り引き先で、よき理解者であり、アルゼーロの提案者でもあるチャダドンになど、匹敵するわけがないのに。懐かしい居間で、クィンタレッリの至宝であるアマローネをたっぷり使って、奥様が手作りしてくださった濃厚なリゾットの味わいを、どうして忘れることが出来るだろうか。

 当時、ル・テロワールはダル・フォルノ・ロマーノとも仕事をはじめており、ヴァルポリチェッラの両巨頭がポートフォリオに並んでいた様は、なんとも壮観であった。ベーピはロマーノを弟子扱いしていた。あるとき私たちがクィンタレッリ邸を辞去しようとしたとき、行き先を尋ねられたので、率直にダル・フォルノだといったら、すぐさまロマーノに迎えに来るよう電話したのには、恐縮するしかなかった。

 だが、蜜月は続かないものである。私たちが図らずもル・テロワールから離れ、ラシーヌを創設した移行期のさなかに、クィンタレッリと後継ル・テロワールにいたそれぞれの女性に妨げられて、ラシーヌはクィンタレッリとの取り引きを諦めざるをえなかった。ダル・フォルノとの仕事もまた打ち切りになったのは、偶然とは思えない。

 こうして、ラシーヌはヴァルポリチェッラの新旧を代表する両巨頭と別れを告げ、新たに同地区で生産者を探し始めた。その結果、巡り合った一人が、現在ラルコ・ヴィーニを営む若きルーカ・フェドリーゴ(33歳)である。ルーカは、クィンタレッリに10年間も師事し、弟子どころかまるで息子のような間柄であった。愛弟子のラルコに独立を勧め、海外輸出を示唆したのも、ベーピであった。

 ルーカの小さなワイナリー《ラルコ・ヴィーニ》を初めて訪れた3年ちかい前のこと、地下のセラーの脇でのテイスティングのやり方が、クィンタレッリ方式とまったく同一なのに、私たちはふたたび驚愕した。ルーカは、まるでクィンタレッリ二世といった格好で、酒質にも共通点がある。しかし、年若きルーカは、真面目な性格は一緒で常に前進中だが、気安く親しみやすいところが、なんとも好ましい。こうして私たちは、クィンタレッリのワイン造りを本質的に受け継ぐ、その意味でベーピの後継者と仕事をはじめることが出来たのも、運命かもしれないし、どこかでベーピの導きがあったのかもしれない。

 独立後もルーカは、しょっちゅうベーピのもとに出入りし、果樹の手入れや庭仕事などを喜んで手伝っていた。一昨年のこと、ラルコ・ヴィーニでの用事が終ったあと、ルーカは当たりまえのように、「これからクィンタレッリのところに行かないか」と誘ってくれた。合田はすこし躊躇ったようだが、私は即座に受け入れ、三人でルーカの車でネグラールに向かった。

 久しぶりに入ったクィンタレッリ邸であったベーピは、すっかり背中も曲がって老人の姿に変わり果てていた。伝えられていたとおり、パーキンソン病であることは隠しようもなく、頭をしゃんと持ち上げることも適わなかった。あの眼光に、かつての鋭さはみじんもない。しかし、私たちのことを忘れていなかった老ベーピは、私の手を両方の掌で長くしっかり包み込んだまま、ほとんど言葉もでずに、何回もうなずくだけであった。これが、私たちとの今生の別れであることを悟っていたからであろう。たがいに無言のうちに、つながりは恢復し、こだわりは溶けさり、気持ちは溶け合ったかのようであった。こうして、後ろ髪を引かれるようにしてベーピ邸を去ったあと、いまなお私はベーピの掌の感触を忘れることが出来ない。幽冥境を別にしたとはいえ、ベーピと私たち二人は絆でつながれていることを信じている。さようなら、優しいジュゼッペ・クィンタレッリ!

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