モチはモチ屋、の弁

2011.12.28    塚原正章

マット・クレイマーに、「もしワインメーカーになったら、あなたはどうするか?」という仮定の質問に答えるエッセイ(『ワインスペクテーター』誌掲載)があることは、すでに紹介したことがある。いわく「正直に語る」という、質問の矢をかわした(とはいえ、いかにもマットらしい)行動原理を貫く、というものだった。

畑:買うか、買わないか―そいつが問題だ
 同じやっかいな質問に、私ならどう答えるだろうか、と考えてみた。じじつ、ヨーロッパのワイン生産者たちから、次のような申し出がよくある。「良い畑があるんだけど、誰か買い手はいないだろうか。ラシーヌは、買わないのか。なんなら、ワイン造りは、私がやってあげてもいいよ」。しかし、売りに出される畑について旧知の生産者いわく、「最上の畑は自分のものに取っておいて、あまり良くない畑を売りに出しているんだよ」。だが、そんな内情を、インサイダーならぬ日本人が知る由もないから、変な畑をつかまされかねない……といったことは、さておくとしよう。

ワインを造るか、造らないか
 私もまた、マットに向けられた先の問いに正面から答えようとせず、「絶対にワインメーカーにはならない」と逃げを打つつもりだ。なぜかって? そもそも私はワインの飲み手であって、造り手ではない、というのが自己規定である。それに、私に、自分が飲みたいと思うようなワインが、造れるわけがないでしょう。だいいち、もし造ることができるのなら、今頃インポーター稼業に身をやつしているはずがない。だが、この間の事情について、もうちょっと筆を伸ばしてみよう。

詳説:造らざるの弁
 私の答は、いくつかのステップに分解できる。

1) そもそも私はワインを造ったこともないし、造りたいと思ったことすらない。

2) ワイン造りという肉体労働に、私は興味がない。不遜ながら、自分の時間は、もっと知的な遊戯に費やしたいと、かねがね考えている。学び舎にいた頃から、ホモ・ルーデンス(遊戯人:ヨハン・ホイジンガの言葉)が、ひとつの理想だった。

3) 自分がブドウ栽培とワイン醸造の実務に通じていない以上、いわゆるコンサルタントやエノロゴたちを雇わなければ、一定水準以上のワインを造ることは難しい。が、そのやり方では、自分で造ることにはならなくて、ワイナリー・ビジネスをすることに等しい。しかも、彼らエノロゴ連中が有能であればあるほど、使いこなすことは至難の業。賢明だった故フランチェスコ・ジュンティーニや故セルジオ・マネッティのように、フランコ・ベルナベイやジューリオ・ガンベッリといった一流どころのエノロゴの言うとおりにならず、しかも存分に彼らの力量を発揮させることができないとすれば、個性的で比類ないワインなど、できるわけがない。

4) 私よりも、もっとワイン造りに適した人たちが、すでに世界中にいる。彼あるいは彼女たちは、情熱をもっているだけでなく、ブドウ栽培とワイン醸造のあらゆる過程において、臨機応変で柔軟な思考が出来なくてはならない。現に、そのような達人たちを選び抜いて、ラシーヌは共に仕事をしている。その方々の仕事振りと仕事の水準を、身にしみて知っているだけに、その真似すらできないことも、よくわきまえている。

5) 仮に、万が一、私あるいはラシーヌがワイン造りに乗り出したとしたら、それらの達人生産者たちから白い眼で見られ、嘲笑いを招くこと必定である。「妙なワインを造っている暇があるのなら、本業をもっと真面目にやれ」という叱咤の声が、すでに聞こえるような気がする。

6) 実際、本業とは別に、ワイン造りに乗り出したワイン関係者、インポーターやブローカーなどがいることも、確かだ。(その逆に、ワイン生産者がブローカー業を兼ねたり、実質的に転業してしまった例も少なくないが、これは別のはなし。)とはいえ、志と適性が私とは異なる、彼や彼女らを批判するつもりは毛頭なくて、ご自由にどうぞ、というところ。だが、身近で個人的な経験からすると、付き合いのある生産者たちは、取引先のブローカーが本業をおろそかにして、自作ワインの販売のほうに目の色を変えている有様を批判し、心が離れてしまっている。ラシーヌは、その二の舞を演じてはならない、と強く戒めるゆえんである。

プロの職分とは?
 どんな仕事でも、むろん仕事に貴賎の別はないが、仕事をする以上は、プロフェッショナルの域に達していなければならない、とつくづく思う。プロとは、単にある領域の専門家であると自他ともに認め、認められるだけの存在ではない。アマチュアと違って、純粋に作品(あるいは仕事やサーヴィス)の出来栄えによってのみ評価されなければならない。と同時に、その職業によって自立した生計が営められなくてはならない。プロに求められることは、高くて厳しく、妥協の余地はないと、思い定めるべきである。
 地球温暖化の余波でもって、かつては困難な地でも、ワインらしきものが出来るようになったのは、幸か不幸か、わからない。ともあれ、ひとたびワインを造る以上は、世界のワイン市場でひとかどの存在にならなければならない、と秘かに思うだけに、ハードルの高さを身に沁みて感じてしまう。たとえば、日本にしか通用しないレヴェルの「ワイン」ならば、たとえ有機栽培であろうとなかろうと、私にとっては存在する意味がまったくない――と、ナショナリストならぬ私は思っている。ヴォルテールも言っているではないか。「自分の畑を耕せ」、と。さあ、今後もせっせと、インポーター稼業に精を出すとしようか。

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