よしなしごと―ワイン好きとは?-


2011.10.27    塚原正章

 句点の置きかたや有無でもって、意味がたいそう違ってしまうのが、面白い。吉田兼好もどきに「よしなしごと」と打ちはじめ、文字変換にとりかかったところ、「よしな、仕事」という文が浮かび上がった。なるほど、仕事もそろそろ切り上げごろ、いよいよ年貢の納め時なのかと、妙に感心してしまった。が、年貢や税金なんぞ、当節には縁起でもない。まあ、とりあえず、互いに仕事の手を休めて、無駄ごとに興じてみては、いかがなものか。
 といっても、結局は例のごとく、つまり、またしてもワインについて閑談をすることになるだろうから、そのつもりでお付き合いくださいな。

 今回は、ワイン好きとはどういうことか、という問題から考えはじめたい。といっても、言葉遊びに終りかねないけれど。
 さて、ワイン好きには、いろいろな態度やタイプがあるだろうが、ワインと人との関係という視点でみれば、ワインはさまざまに位置づけられる。たとえば、
飲用対象:ワインを飲むのが好き
知識・理解の対象:ワインについて知り、理解を深めたい
蒐集対象:ワインをコレクションするのが好き
投資対象:ワインに投資するのが好き
探求対象:ワインについて調べ、教えるのが好き
著述対象:ワインについて書くのが好き
販売対象:ワインを売るのが好き
利益の源泉:ワインで、儲けるのが好き

 もちろん、これらのワインへの関心や関係が、同じ人物の心中で重なり合っていることも、しばしばあるだろう。利害関係や利益追求欲が背後にあるからといって、好ましからぬワイン関係であると決めつけることはできない。人はもともとinterest(利益、関心、利子)と無縁ではないからだ。それに、「悪しき動機から、好ましい行動や結果が生れる」ことがあるのが、世の常ではないか。商売のネタとしてワインを扱い、はてはグレー・マーケットや並行市場で人気商品を買いあさって転売する手合いを、責めることはできない。
 私たちとは、ワインの愛し方が違うというだけかもしれない。ただ、問題は、ワインがそなえている品格にたいして、ふさわしい敬意を払い、相応の扱い方ができるかどうかだろう。命を削って努力する生産者の「子供」のようなワインがあるとしたら、私たちはどのように振舞ったらよいのだろうか。ワインの真価に思いを寄せ、敬愛せざるを得ない以上、答はおのずから明らかであろう。
 常に私たちは自問自答しなければならない。しかるべきワインにたいして、私たちの扱い方は当を得ているだろうか、と。それ以上に、私たちは、そういうワインにふさわしいだろうか。人とワインを較べるのは、リンゴとミカンを較べるよりも可笑しくて不当ではあるけど、ワインの備えている価値よりも、人間の価値のほうが低いと感じられることが、多々あるように思えてならない。
 なぜだろうか。モノは単なる物質ではなく、ワインは単なる商品でないからだと思う。物質の中に精神があるという説は、科学的でないとされている。ならば、それでは、人間に魂がないのだろうか。残念ながら魂を感じさせないような人に多く出合わなくもないが、よく付き合い、仔細に観察してみると、存外、魂としか呼べないようななにかが、その人を動かしているとしか、解釈できないときがあるものだ。もちろん、魂があるとしての話だが、悪しき魂や荒ぶる魂もあると仮定したほうが、よりよく人を理解できることもある。魂という補助線を引いてみたらどうだろうか。
 さて、魂の不滅という問題は、プラトン以前に、すでにピュタゴラス(この人の実像と学説を正確に把握するのは、本人の著述作品がないだけに、いっそう至難であるとされている)が問題としていたし、シチリアではエンペドクレスが、魂の不滅を実証するためにエトナ山の火口に飛び込んでみせたと伝えられる。いうまでもなく、エンペドクレスは生きて戻らず、その魂がこの世に戻ってきた形跡はなかったとか。まあ、不滅かどうかは高級すぎる議論だが、魂あるいは精神の有無は、人間と動物一般にかかわるだけでなく、物質についても無視できない問題であろう。などというと、デカルト以来の近代精神に反すると受けとめられるかもしれない。が、重要なことは、物質と精神を異種の存在として二分すれば、すむことではない。
 ワインのなかには、明らかに精神を感じさせるものがある、と思わせるときがある。味わいを超える深みがあるという実感がするときがあるのだ。そのとき、ワインの造り手の気迫や精神を感じとってしまうのかもしれない。どうやら私は、単なる美味しさよりも、精神の存在を感じさせ、魂がこもっていると思わせるワインを、愛しているらしい。

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