考えるアートについて


2011.09.27    塚原正章

 考えることは、無上の楽しみである。私にとって、読書・音楽・ワイン&食事という年来の抜きがたい楽しみごとですら、考える楽しみには、とうてい及ばない。なぜ、「考える」というような頭脳作業が、実際の行動よりも楽しいのだろうか?
 思考の恩恵としては、①謎を解く楽しみ ②好きなことについて思案する楽しみ ③発見する楽しみ ④実験費無料の楽しみなどが、すぐに思い浮かぶ。今回は、すこし真面目に、考えることの意味と方法を、考察してみたい。

解① 謎を解く楽しみ――思考への挑戦
 考えることには、一種の謎解きのような面白さがある。それでは、なぜ、謎解きが面白いのか? 発せられた謎が、思考を挑発するからである。「思考を挑発する」とは、英語でいうところの“provocative”。

「刺激的」とか「物議をかもす」という意味もあるが、視点を変えれば、読者などの相手を刺激するような問題を投げかけているのだ。

問題の二類型
 としたら、謎とは「投げかけられた問題」ということになる。思うに、問題には二つのタイプがある。
ひとつ目(タイプA)は、多くの試験問題やゲームのクイズのように、あらかじめ出題者がこしらえた、唯一の「正答」があるもの。たとえば、「スフィンクスの謎」(朝は2本足、昼は3本足、夜は4本足のものは?)のたぐいである。そういえば、オスカー・ワイルドの警句に「女とは、謎のないスフィンクスである」という、洒落た言いまわしがあるが、これはとんだ脱線。

 もうひとつ(タイプB)の問題は、問いかけに対するさまざまな考察と解法を要求するような種類の問題。この手の問題では、正答がない場合すらあって、要するに答えそのもの(結果)よりも、考えるプロセスのほうが重要となる。ここでは、問題へのアプローチのしかた(接近法)と、その段取り、すなわちロジックにこそ意味があるわけで、正解を求めてもあまり意味はない。考えるに足る問題を選ぶか見つけて、じっくり取り組めば、得るところは大きいはず。逆に、容易に解けない極めつきの難問に、正面から挑むのは匹夫の勇ではあっても、時間とエネルギーの無駄になりかねない。問題を避けるのは卑怯だが、無理に難コースを選ばなくても、たとえば山は登れる。叡智とは、そういうものである。

人生という問題
 Bタイプには、人生という問題がある。俗にいうとおり、「問題のない人生はない」道理で、もし人生が問題の集積であるとしたら、それぞれの問題への処し方は、人によって異なり、どの答えが正しいとは一概に決めつけられない。いずれにしても、人生上の問題への解答は、信念とか生き方という、当人の生き方の基本方針にのっとった行動でなくてはなるまい。そう、言葉ではなくて行為が、人生問題への答なのだ。

 

人生上の問題とは、試練という言い方もできる。が、もし、人生にかかわる問題を正面から見つめず、考えずに済ませようとするならば、人間は「考える葦」(パスカル)という、はかないながらも健気な存在であることを示す定義を、即刻返上しなくてはなるまい。

解② 好きなことを案ずる楽しみ
 読書、音楽、ワインと食事は、それぞれ他に代えがたい悦びをもたらす、わが年来の趣味である。そのどれひとつをとってみても奥が深く、極めることなど凡才には不可能と悟っている。で、私の好みといえは、各ジャンルでかなり偏っていること、間違いない。

 読書は、領域を問わない濫読型の書痴だから、読む時間よりも書籍の探索購入に費やす時間のほうが長い、という体たらく。偏愛する古今の書物は、いずれも知性が躍動し、「精神の運動の軌跡」(石川淳)を示すものだけ。惜しむらくは、すでに鬼籍に入った作家や思想家、知識人がほとんどなこと。

 音楽では、たとえばイタリア系の作曲家と作品(室内楽とオペラを含む)を好み、ドイツ(ロマン)派はワイン同様、苦手とする。とはいえ、クルト・ワイル(とブレヒトのコンビ)は例外で、『三文オペラ』に魅せられ続けている。

 ワインは、伝統的生産者とヴァン・ナチュールのジャンルを問わず、個性が横溢するクオリティ無比でコンディション良好のものならいつも大歓迎。なのに、こういったワインは、この国であまり見当たらないのが、恨めしいかぎり。

 食事は、福島原発事故以来、求める食材がおのずと限られているため、目下のところ安全と美味の両立に苦労し、不自由この上ない。が、関西以西やヨーロッパに出張した折には、各地の歴史と風土を体現する洗練された「テロワール料理」を探すことにしている。

 これら、自分の好きなものごとについて、あれこれ思案を巡らすのは、美味しいパスタ料理の上に、さらにヴァレンティーニのオリーブ・オイルをたらすようなもので、いっそう悦びが深まる。とはいえ、趣味の世界にもとんでもないものが横行しているから、ときに慨嘆慷慨するのも、考える悦び(あるいは悩み)なのだろうか、と首をひねっている。

 

 じつは、この趣味的な領域については、素敵に楽しい「思案の結果」が控えている。つまり、自分が乏しい経験と貧しい感性でもって拙く考えるよりも、すでに一握りの優秀な批評家が、とくに芸術分野では、ずば抜けた思惟をめぐらせた評論を発表・蓄積しておられる。だから、そのようなprovocativeな作品を読むことで、至高の境地がより深く味わえるというわけ。参考までに、わが鍾愛する批評家や研究者の名前を、少しだけ挙げておこう。故人が多いのが残念ではあるが。

 

 【読書】吉田健一、丸谷才一、由良君美、生田耕作 【音楽】吉田秀和、チャールズ・ローゼン、青柳いづみこ 【絵画】J.H.ゴンブリッチ、ロベルト・ロンギ、若桑みどり、岡田温司 【ワイン】マット・クレイマー、エリック・アシモフ、ピーター・リーエム 【食事】フレッド・プロトキン

 解③について、この調子で書いていたら、きりがないので、ポイントだけを記そう。発見は、考えたあげくの産物であるが、原点に戻って論理を重ねれば、おのずと自己流の考えがまとまるもの。思考の準則は、マット・クレイマーあるいは福田恒存の流儀で、まず『常識を疑え』。まだ試行錯誤のさなかにある、わがワインの楽しみ方(前回エッセイ参照)も、こうして辿りついた暫定的な結論にすぎない。

 考えることの強みは、費用をかけずに思考実験ができること。つねに実験精神を養いながら、頭のなかにある複数の(ときに相反する)仮説を、つねに検証してみよう。本来、発見はフィールド・ワークの産物だから、優れたワインの造り手とワインの発見には、情報探索と現場踏査を組合せるしかない。が、ワインの持ち味を発揮させ、より美味しく飲む方法を発見するのは、頭脳にかかっている。ワインの味わいがピンと来ないとき、問題がワインにあるのか、それとも飲み手にあるかを考えることから、自分流の新しいワインの楽しみ方がわかるはずである。石川淳の戯曲の題にいわく、『おまえの敵はおまえだ』。いやはや、なんともブレヒト的ではないか。

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