2011.08.29 塚原正章
はじめに・その1《ホストとゲスト》
機智あふれる英国の短編の名手マックス・ビアボームに、『ホストとゲスト』(未訳)という名エッセイがあった。マックスとしては珍しく、近年出版された長編『ヅレイカ・ドブソン』の翻訳があるが、この人が得意とする短編には1,2編の訳があるだけで、独立した短編集の翻訳がない。さりとて、書庫を探って原書(限定版著作集・全10巻)をひもとく余裕がないので、記憶にたよれば、人間には「ホスト型」と「ゲスト型」があるという、いかにもイギリスのエッセイストらしい二分法が駆使されていた。要するに、生まれつきホスト(主人)役として客をもてなすのが楽しく、その技に長けているタイプの人と、逆に、もてなすのは苦手だが客人としては座を沸かせ、ホスト側から歓迎されるたちの、先天的にゲスト向きの資質をもった人とに分かれるというのだ。そしてマックスは、自分は生来のゲストであると断言する。いかにも、イギリスの上流階級とインテレクチュアルの間で、大学生時代から人気のあった、戯画家でもあるマックスらしいセリフだ。さて、あなたはどちらのタイプでしょうかね?
思うに、ゲストとしての要件のひとつは、才知に恵まれているだけでなく、気の利いた会話の応酬が即座にできることだろうか。たとえば、サロンにおけるドゥニ・ディドロのように。その点マックスは、「会話の天才」オスカー・ワイルドから多才ぶりを愛されたその年若き友人であり、本人も味わい深い座談をふるまっていたことは、晩年の会話にもとづく好著『マックス』(S.N.ベアマン著、未訳)からも、うかがえる。もうひとつのゲスト型である要件は相反するようだが、人前で決して出しゃばりすぎないこと。マックスは、ワイルドと違って自己顕示欲が弱く控えめで、声低く語る人だった。そのような自分の性格をふまえて、マックスはホスト型とゲスト型という、説得力のある二分法をもち出したかのようだ。
そこで、おまえ塚原の説は、「ワインについては、人は『注ぎ手型』と『飲み手型』に分かれる」というのだろう――と、先読みされるかもしれない。が、お生憎さま。たしかに、そのような二分法を用いて論じるのが常道かもしれないが、あまりに安易すぎる。だいいち、飲めないソムリエででもないかぎり、誰だってワインは飲んでいたいに決っている。それに私は学生時代から、ワインは自分で買い、自分で注ぎ、もちろん自分で飲むという自前主義を貫いているから、注ぎ手と飲み手に分裂しようがない。
それだったら、こんな「はじめに」は要らないじゃないか、ですって? まあ、無駄を愛でる遊び心があってもいいじゃないですか。
はじめに・その2《続・ワインを美味しく飲む方法とは?》
ワインを美味しく飲む方法については、すでにこの場で繰り返し述べてきた。むろん、その前提となるもっとも肝心なことは、美味しいワインを手に入れること。だが、これについては詳説しない。要は、「ワインの味わい=クオリティ×コンディション」という公式を思い出せばよくて、そもそも最初から「いかれているワイン」を美味しく飲む方法など、金輪際ないと心得ること。“hopeless, hopeless”という、『三文オペラ』のなかの歌のとおりで、死んだワインは救いようがないから、匙を投げるしかない。どうしても飲まなきゃいけない状況ならば、鼻をつまんで飲むか、ワインを口に含んでも臭いを鼻腔に送り込まないよう、工夫して飲み込むしかない。なんとまあ、ご愁傷さまなことやら!
復習:ワインを美味しく飲む方法
さて、《美味しく飲む方法・その1》は、かつて「ストレス・フリー理論」で述べたとおり、ワインに不要なストレスをあらゆる局面で避けること、でしたね。店または自宅のセラーまで健全な状態であったとしても、飲む最終段階で余計なストレスがワインに与えられると、生きているワインならば即刻反応して、つむじを曲げてしまう癖があるのです。
たとえば、ボトルの口から直角に、細い垂線を描いて、グラスのなかに垂れて吸い込まれるように静かに注げばよいわけ。ワインによっては、水道栓の蛇口から勢いよく流れるかのように、わざと荒々しくゴボゴボと注がなくてはならないかもしれない。が、そういう特殊な注ぎかたを要求するようなワインを、私なら相手にしない。
《美味しく飲む方法・その2》は、「ヌーディスト宣言」の項で述べたとおり。蔵元で飲むのとできるだけ似た状況を思い描きつつ、ワインのボトルの表面から余計なものを外すという手法でした。たとえば、カプセル(「キャップシール」と誤った呼びかたをしないこと)の残りとか、(特定の業者のではなく、すべての)輸入者シールを除去すること。ときには、生産者の付した裏ラベルすら、剥がしたほうがよいこともある。生きているワインは、ボトルのなかに閉じ込められながら、コルクだけでなく、金属・プラスチック・ビニール・紙・接着剤といったボトルの付着物から、知らず知らずのあいだに影響を受けているらしいのだ。
さて、《その3》は、あるのだろうか。ある、と私は思う。
本論:手の問題
注ぎ手と飲み手と題したのは、手に注目して欲しいからだったのです。要するに、誰が、どちらの手で注ぐかが、問題なのですね。これは、「誰の手か」と「左右のどちらの手か」という二つの手の問題に分かれけれど、そこに共通するのは、ボトルをもつ手が、ボトルの中のワインの味わいに影響するという、デリケートな問題なのです。この問題を考えるとき、解かなければならない現象あるいは事実があります。ただし、ワインの味わいに対する注意力と感度の差(要するに敏感か、鈍感か)によって、次に挙げるファクトが感じとれない人もあるので、ご注意あれ。
●ファクト1(注ぐ手)
おなじワイン入りのボトルを、おなじ人が左手で注ぐときと、右手で注ぐときとで、ワインの味が変わる。
●ファクト2(注ぐ手)
人によって、注いで美味しく感じられる手が違う。つまり、ある人は右手で注いだほうが美味しく、ある人は左手で注いだほうが、つねに美味しく感じられる。
●ファクト3(注ぐ手)
あなたが注いだワインと、ほかの人が注いだワインとの間で、味わいに差がある。つまり、誰が注いだかによって、味が変わる。
●ファクト4(注ぐ手)
誰が注ぐにしろ、その人が右手で注いだときと左手で注いだときで、ワインの味が違う。
●ファクト5(飲む手)
どちらの手で注いだものであれ、おなじワイン入りのグラスを、おなじ人がどちらの手で持って飲むかによって、ワインの味わいが変わる。
●ファクト6(飲む手)
おなじグラス入りのワインを味わうとき、ある人は右手で飲んだほうがより美味しく感じられ、別の人は左手で飲んだときのほうが美味しく感じられる。
以上のようなファクトを組み合わせると、具体的にさまざまな場面が生じうるわけで、たとえばソムリエA氏とソムリエB氏とでは、注いだときのワインの味が違う。自称「ワインのプロ」が注いだときより、「ワインの初心者」が注いだときのほうが、美味しく感じられる可能性だって、なくはない。とすれば、誰が、どちらの手で注ぐほうが、より美味しく感じられるかを、探らなければならないことになるが、再説すれば、肝心なのは誰のどちらの手にしろ、「手」が味わいに影響するというという、これまであまり問題にされなかった現象なのです。
気という補助線
それにしても、手がなぜ味わいに影響するか、という因果関係を科学的に説明することは難しいですね。これについて私は、掌(手のひら)の中央部(労丘と呼ばれる)から発する、気の作用であると考えている。けれども、漢方医学や東洋医学に馴染みがなく、気の存在や作用を認めない、あるいは知らない人が多いのも事実である。これは哲学、あるいは、科学方法論の問題なのだろうか。それとも偏見や固定観念のせいなのだろうか。
私は自分自身を、「現象」の背後にある「本質」を掘り下げるような発想を好まない、プラグマティストだと自己規定している。単に、「気」という仮説を用いると、これらの現象を説明しやすいと思っているだけ。たとえて言えば、気は幾何学における補助線のようなものと考えたらよい。補助線の引き方にはいろいろあり、どこにどう引く補助線が証明にもっとも効果的であるか、だけなのです。もし、気のほかにもっと説明力のある補助線があるのならば、大歓迎。それも結構じゃないですか。
補助線の代替案の検討
たとえば、①手の熱で、説明がつくだろうか。短時間に手から発する熱線の量はかなり低いから、影響力があるとはちょっと思えない。
注ぐときの②スピードが鍵だと考える人もいるだろう。けれども、これはすでに「ストレス・フリー理論」で触れた問題であって、スピードもかかわっているが、基本的には注ぐときの液体の形状(細い垂直線)のコントロールの問題であると考えられる。
③振動? これは難しいが、よほどの人でないかぎり、ビンの外から激しい物理的な振動を与えることはないだろう。逆に微細振動ですって? それを与えられるような技巧的な人が、はたしているのでしょうかね。
以上、三つの補助線候補がすべて棄却されるとし、ほかに有力な補助線の代替案がないとすれば、当面は「気」という補助線を便宜的に認めてよいのではなかろうか、と愚考するしだい。
結論
手がワインの味わいにさまざまな影響を及ぼすのが事実だとすれば、実用的な問題はなんだろうか?
① まず、自分は、どちらの手でボトルから注ぎ、どちらの手でグラスをもったほうが、自分にとっておなじワインがいっそう美味しく感じられるかを、実験すること。自分が右手派か、左手派か、自分で納得することが大事。右利きか左利きかは、あまり関係がないので、こだわらないことですね。もしかしたら、苦手の手のほうが、味わいにより効果的なのですから。
② 誰が注いだワインがいっそう美味しく感じられるかを、感じとること。その人が注げば、どんなワインでも、他の人が注ぐよりも美味しく感じられるとすれば、じっさいこれは重大な問題なのです。
③ それにしても、誰がどの手で注いだワインを、誰がどちらの手で飲むかによって、ワインの味わいが変わるとしたら、本当のワインの味わいは、どこにあるのでしょうか。これは、自分で考えてください。もし、私の考えが知りたかったら、直接お尋ねくださいな。ワインを飲みながら、ディスカッションしましょうか。もちろん、ラシーヌのワインを飲みながら、ね。