塚原正章のエッセイ

2007.12.7   塚原 正章

  考えたことを、思うとおりに言ったり書いたりすれば、とかく角が立ちやすい。けれども、筆を曲げては、意味がない。そこで、趣旨はまったく変えないまま、派手な引用などで煙幕を張ったり、あえて圭角を丸めたふりをしたりと、書く方も秘術とまではいかないが、文飾を用いざるをえなくなる――といった次第が、前回の長すぎた我がエッセイの裏側でした。なぜか、いつもと違って、そのような雑文に各方面から反応が寄せられたので、次は続編として「私見――飲み物について」を考えていた。けれども、生産者がひっきりなしに訪れたり、明後日に海外出張が控えたりと、寧日ひまなしで、思いをこらすことなど、とうてい出来ない相談になってしまった。 そこで、最近の「ミシュラン騒動」について雑感を述べ、責をふさがせていただこうという次第。

☆を辞退した料理店は、あったのか?
 週刊誌のタイトルめいて恐縮ながら、まずは身近な話から。数日前、オーストリーの名花、ワイン生産者ガイヤーホフのイルゼ・マイヤーさんとともに、銀座の「小笹すし」を訪ねたときのこと。店の方々と談たまたま、ミシュランに及んだ。私見では☆☆以上間違いなしと思われるこの店が選ばれていなかったので、「もしや、お断りになったのでは?」と、水をむけてみた。「写真取材にこられたけれども、うちはこんなに小体な店ですからと、お断りしたんですよ」と、笑いながら控えめにご主人。おかみもまた「そういえば、尋ねられるまで、ミシュランのことは忘れていました。何ヶ月か前に、そんなことが、ありましたっけ」と、すまし顔。いいですねえ。

ミシュラン東京版の発表後、☆が付いた店では、ひっきりなしの電話に応答もままならないとか。それを見澄ましたかのように、小笹すしがインスペクターを突き放したのは、ひとつの見識というべきであろう。ロバート・パーカーに試飲用のワインを提供せず、テイスティングもさせないという、某ワイン生産者のことが、ふと頭をよぎった。

客からすれば、予約騒ぎが一年ぐらいは続くものと諦め、さしあたり、実力はあるが星はない店を探せばよいというのが、知り合いの美食家たちの行動方針らしい。その考えや、善きかな。そういえば、☆は受けても魂は売らない、とばかりにこう話してくれたシェフもいる。「うちは、これまでとまったく変わりません。だいいち、一月以上先の予約は、受けませんしね」。その言や、また善きかな、である。

☆を料理屋に付けるのは、妥当か?
 ところで、ジャンシス・ロビンソンのホーム・ページには、「パープル・ページズ」という有料会員向けの情報欄がある。そこには、ジャンシスが常時寄稿しているのだが、面白いのは『私を引用しないで』というザックバランなページ。だから、ここにその内容を露骨に紹介するわけにはいかない。とはいえ、ジャンシスの近稿に『東京レストラン』と題した、『ミシュランガイド東京版』に関する気軽な考察があったので、さしさわりのない範囲でちょいと紹介してみたい。どうやらジャンシスは、ふたことばかり言いたいらしい。まず、同ガイドは外国人に、☆が付いている店には簡単に入れそうに思わせてしまうが、実情はまったく異なるということ。日本で最上の飲食店は、小さいだけでなく、かなり「男性客指向型」であり、極端なほど常顧客を大切にしている、という指摘は正鵠を射ている。次は、店を判断する基準に関して。ワインにおける好ましからぬパーカー流の点数評価式と価値基準の「国際化」(internationalization)が、ミシュランの評価方式にも共通するとして、パーカー型の評価方式が、彼女の愛する日本とそのレストラン(8年前に来日しただけだが、再訪を切に望んでいるとか)に悪影響を及ぼすことを懸念しているらしいのは、いかにもイギリス流の反応と思しい。

それよりも面白いのは、アラン・デュカスが彼女に言ったとされる言葉。「これまで自分が味わった最上のフランスのバゲットは、東京で作られたもの」というのは、さて、本当かいな?

「歌で終わるが世の習い」(あるいは花田清輝流ならば「ものみな歌で終わる」)とは戯曲『フィガロの結婚』の幕切れのセリフであるが、いい加減な私のエッセイは「ゴシップで終わる」のが常らしい。まあ、いいだろう。「ゴシップのなかに真理がある」とまでは言いませんがね。

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