私の情報原論


2011.7.27    塚原正章

知るは知らない、知らないは知る
いきなり、禅問答か『不思議の国のアリス』のような出だしで、なんとも恐縮。ではあるが、知っているようで、知らないことが多いのに、我ながらあきれ果てる。知ろうとすればするほど、自分が無知なことに気づく……そんなことの繰り返しが、アイザック・ニュートンならぬ平凡で飲んだくれの、わが身に起こる日常である。
もちろんワインとて、不知の例外ではない。そういえば、最近ますます絶好調のマット・クレイマーも、『ワイン・スペクテイター』連載エッセイのなかで、イタリアワインについていかに知ることが少なく、いかに美味なるものが多いか、率直に記していたのに同感したしだい。
かつて私も、『自伝』の中にあるJ・S・ミルの言葉をもじって、「すべてのワインについてなにごとかを知り、なにごとかのワインについてすべてを知りたいものだ」などと念じたものだが、ありようは理想とほど遠いのが、うそ偽りのないところ。しかも、ワインより、もっと広く深い知的な世界にいっそう魅せられているだけに、ワインへの道はいよいよ迂遠である。

ワインを理解するための情報
いずれにしても、ワインの世界をマクロとミクロにわたって理解するためには、
① ワイン生産地では、変転常なきワイン界の動向をウォッチングし、
② 各国各地では、優れた造り手とそのワインのクオリティを年々フォローしては、最新時点での評価にあらため、
③ 消費地(たとえば日本だけでも)においては、ワインの流通・販売・飲用状況と、ワインそのもののコンディションを把握する、
……といったことが必要不可欠となる。が、むろん、そのような知識と判断を集積し、しかも不断に更新することは、たとえ頭脳明晰で勤勉なジャンシス・ロビンソンをもってしても、独力ではできず、しょせん個人の力量では無理ということになる。としたら、どうしたらよいか。
 
求められるワイン知の合成
知力をグループ化して、個別地域の専門家を組織化するしかない、という当然の結論に導かれる。ただし、ワインに特有の問題は、ワインが人によって好みと判断が分かれる嗜好飲料であって、共通の判断尺度を形成するのが難しいこと。個別ワインの評価に点数法を用いると、項目別と全体の平均値しか計上されず、本来個性的であるべきワインに異質な評価尺度を当てはめ、かえって本来の持ち味をつかみ損ねかねない。これは、ワイン雑誌やコンクールにおけるパネル評価の基本的な問題点でもある。
その点を別とすれば、いち早く共同作業の道に踏み込んだのが、『ポケットブック』を編んだ慧眼なるヒュー・ジョンソンと、味覚および表現力に秀でるオズ・クラークだったし、またヒューの盟友ジャンシスであった(『オクスフォード・ワイン事典』と『世界ワイン地図』)。ワイン批評の分野では、試行錯誤しながらも専門家を擁した、ロバート・パーカーJr.である。
日本でも、このような協業ができないだろうか、と夢見ないでもない。が、英語圏に属さないこの国では、ワインジャーナリズムの存立基盤と基礎体力が弱いうえ、フィールドワークが不足しがちである。つまりは自立した地域別の専門ジャーナリストすら覚束ないのが現状。さて、ここが思案のしどころなのだ。

インターネットは万能という誤解
数十年前から日本は、いつのまにか「情報化社会」なるものに突入し、パソコンという超高性能なコンピュータが、「ユービキタス」(身の周りのどこにでもある)という未曾有の状況が生れた。それどころか今ではi-phoneなどの急速な普及に伴って、さらばコンピュータという論調すら早くも漂う。
が、インターネットの検索技術には恐るべきものがある。しかし、だからといって、インターネットで検索すれば、なにによらずひと通りの知識が簡単に得られる、と思うのは、誤解でなければ希望的な観測にすぎない。インターネットは、双面の怪物である。私もすこぶる重宝している者のひとりだが、反面「ゴミの山」どころか潜在的に危険でもあるこのトゥールを使いこなすには、予備知識と健全な思考力が必要なことも自明。堅苦しい言葉でいえば、基礎的な情報処理能力(インテリジェンス)である。だれでも電話やe-mailでやりとりはできるが、それを用いて高度なコミュニケーションをすることは、まったく次元が違うのと、同じようなものである。

情報は、料理でいえば食材
ここで情報とはなにか、ということを別の面から問い直してみよう。情報は料理における素材とおなじ役割をはたしている。優れた素材なくしては、どんな名料理人でも、そこそこの料理しか出来ない。だがレストランでは、ワイン、サーヴィスと調度や雰囲気という、有力な演出要素や脇役が整えれば、主役であるべき料理に不備があっても、埋め合わせてお釣りがくる。そのせいだろうか、著名な料理人からですら、料理人はプロだから、あの手この手で素人の客を誤魔化せるし、それがプロの技術だ、というふてぶてしさをときに感じる。とんでもない思い上がりではないか。芸術の世界を例にとるまでもなく、料理においても技術は万能ではないし、特別な腕をそなえた名人は、たとえいるとしても例外的な存在。それに、いまでは調理技術は、その気になれば上達はともかく、習得はできるし、結果的にみると日本の料理人の腕前は、良くも悪くもかなり平均化あるいは日本化されていると見受ける。
たしかに、好ましくない素材を用いても、大多数の客(コモン・マーケット)は気づかず、文句を言わないかもしれない。が、消費者主義とか市場志向という名のもとに、消費者の選好結果をやみくもに尊重し、「市場は正しく、したがって市場に受け入れられる商品やサーヴィスを提供した者も正しい」と強弁するのは、いくらなんでも無理がある。このようなマス・マーケティングの発想は、かつて大量生産・大量販売社会において、商品の本質的な差別化ができないメーカーが駆使した、消費者をダシにする統計学的な手口にすぎない。

話をマーケティングから料理にもどせば、天才であろうと普通の料理人であろうと、まず優れた素材ありきだから、以前からすでに各国各地で心ある料理人はその調達を実践している。が、現下の厳しい問題は、原発事故による食品汚染が全国的におきて以来、日本で由緒正しくて安全で美味な食材が、入手困難になりつつあること。まったく放射能汚染されていない水ですら、常時確保することが難しいことは、前回すでに触れたとおり。論理的にいえば、健全な水と食材が入手難であるとすれば、料理のクオリティはまったく保証しがたい。(補論参照)

情報は考えるための素材
情報を使い、生かす立場からすれば、吟味して正確で使い出のある情報を、まず選り分けることである。思うに、政府筋や官庁、企業などからは常時ミスリーディングな情報が意図的に流され(ヴェトナム戦争時における、アメリカの政府と国民のあいだの「クレディビリティ・ギャップ」を想起すること)、それをチェックすべきジャーナリズムは機能不全がささやかれ、ブロガーなどのにわか情報発信者からは、オリジナリティの乏しい、似通った情報が発せられがちである。
とすれば、特定の問題を解決するために必要で正確な情報(というより認識)に達するためには、ますます情報の見分け方や評価法が欠かせない。そして、多くのばあい、問題を解決するのにもっとも必要なことは、情報そのものではなくて、《問題へのアプローチの仕方、あるいは、問題意識そのもの》である。しょせん情報は、考えるための素材にすぎない、と割りきるべし。そもそも、解決法がそんじょそこらに転がっているわけがないでしょう。 アプローチ法とか問題意識なんて書くと、なにか堅苦しくてややこしそうに見えるが、そんなことはない。いきなり解決法を探るのではなくて、なにが(自分にとって)本当の問題であるかを見すえ、「問題」の事実的な根拠と因果関係はなにか、を考えることからスタートしたい。解決はその後のこと、というより、正確な事実関係の認識のなかに、解決のヒントがあるはずではないか。

事実に迫ること
常に事実はなにか、という疑問を持ち続けていれば、情報と事実との落差に、いやでも気づかざるをえない。まず「情報≠事実」と、腹をくくろう。世に転がっている情報の多くはガセネタでないとしても、事実にかんする断片的ないし一方的な見方である、と考えて、ひどい間違いはない。それを踏まえて、《情報をとおして、事実に迫る》ためには、日頃の情報検討能力と工夫にかかっている。おまけに情報の性質からして、現状から未来を予見する際にはとくに、「情報とは、常に過去の時点における、なにごとかに関する情報にすぎない」という時間的な落差と制約にも、気をつけなくてはならない。
つまりは、いつもの繰り返しになるが、《知識や情報は、思考の代替品にはならない》ということ。科学の世界で、《証明》あるいは《実験による検証》がない命題は、たかだか仮説にすぎない。いっぽう、この世では《経験の裏打ちのない情報は、当てにならない》という経験則があるが、すべてを経験するだけの時間と費用の余裕などありえない。とすれば、これまた繰り返しになるが、《他人の経験と、人類の歴史から学ぶ》しかない。そこからが、想像力の出番である。


補論:豊岡憲治さんの《料理研究家=味音痴》論
豊岡憲治医師は、私をO-リング・テストに導き、書き物でも啓発してくれる先達である。最近、豊岡医師がブログで発信した記事(「料理研究家は味音痴かな……」7月14日付け)に、思わずひざを打つ感がしたので、勝手にここに紹介をさせていただく。私の舌足らずを、強力に補って余りあるはずである。ここで豊岡医師は独自に開発した手法によって、映像や写真という情報源と自分の観察結果から、料理本の著者の脳の構造と特徴を分析し、料理本を書くことの難しさから、料理研究家の味覚構造まで解き明かす。料理の上達には視覚中枢が働かなくてはいけないが、料理人や料理研究家には、視覚中枢が働かず、味覚中枢すら働きが悪い人がいるから、よい料理書が少ないよし。例外は壇一雄で、味覚がよいだけでなく、脳の味覚中枢が「味が分かる」とか。
[荒筋]
料理の本とは、ごまんとあるけれど、うまく参考になるときもあれば、自分ながらまずいと思う時もある。この当たり外れの波はなぜだろうか?  料理書の最後に載せられた著者の顔写真から、脳の味覚の部分を調べると、味音痴の著者が大半(99%ちかく)であり、単なる食いしん坊が料理の本を書いているのが現実。本当に味がわかる人は、実は本が書けないだろう。というのは、脳で言語を司る部分も、味覚、しかも味がわかる味覚になっている人もある、というぐあいだから。  料理の手順については、こうすればいいとか、基本を守らないとダメというのが、やっとわかった。アレンジについては、本当に美味しいものを作る人を見ていると、説明しないで、ちょっとしたこつを普通に行なっていることに気づいた。見るだけでわからないと本当は、上達できないので、まず見ることだ。
 本当に美味しいものを作れない人をいくら見ても、上達は望めない。見ても見えない人もいて、これが視覚中枢の脳の差になる。視覚中枢が非常によく働く人は、高画質のデジカメみたいな人で、非常に詳しくみている。ところが携帯で送る写メールぐらいの視覚中枢しかない人がおり、現実にはそういう人が料理人として幅を利かしている。味のわからない味覚中枢を持っていても、料理人とか料理研究家とかで名をなしているから、本当に味のわかる味覚中枢を持った人もまた0.01%なのかな。
 味というのは、テストできない。テストする前に、テストをする人をテストしないといけない。その人の脳も調べる必要がある。舌は脳につながり、脳の働き具合で、味音痴か、単なる食いしん坊か、味が良くわかる人かが、わかる。  一番いままで参考になった本は、檀一雄の『壇流クッキング』。読んでいるだけで、おいしいものを食べている気分になり、また、その通り作るとなおさら美味しさがわかる。壇さんの脳を調べると、なるほど味覚がいい、しかも味のわかる脳の味覚中枢なのです。味のわかる人の書いた、基本の本がないかな~。

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