本当のことを言う

2011.6.01    塚原正章

さあ、書くべきか、書かざるべきか、迷っている――と書けば、「まさか、ハムレットでもあるまいし、主人公気取りは馬鹿げている。さっさと書いてしまえばいいのに」という、悪魔のささやき声が耳に届く。むろん、書くこと自体は私にとってさして難しくないのだが、私流に思ったままを書きつけると、とかく刺戟が強すぎるらしいことが問題なのだ。とくに、本音で語ると、そのつもりがないのに他人を傷つけやすい、いや、他人が傷ついたと勝手に思いこみやすいので始末が悪い。かといって、筆を曲げるつもりはさらさらなくて、嘘をつくくらいなら書かないほうがましだと決めている(不味いワイン[料理]なら、飲まない[食わない]ほうがまし、というのが私のおかしな発想なのだ)。

他人を傷つけるとしたら、それはおまえの書き方が悪いからだろう、という皮肉も聞こえてくる。毒をオブラートに包んで、さりげなく飲ませてしまうという、プロの芸を身につけるべきではないか、という皮肉の声が。そういえば、私の大好きな19世紀の批評家サント=ブーヴに『わが毒』という評論集があるが、これは訳者の小林秀雄が勝手につけた題名であって、オリジナル・タイトルではない(たしか『月曜閑談』からの抜粋訳であったはず)。それにつけても、サント=ブーヴもまた、『箴言録』を残したラ・ロシュフコー公爵と同じく、鋭い人間観察と洞察力にみちた評言をさりげなく言う人であった。たとえば、ラ・ロシュフコーが多用する“presque toujours”(ほとんど常に)という副詞句がある。「美徳とは、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」という有名な箴言のように。サント=ブーヴによれば、公爵は致命傷を与えるまえに、ちょっと息を止め、躊躇ったふりをしてから、ぐさりととどめの言葉を吐くのだが、その大向う受けを狙う役者めいた仕草が、「ほとんど常に」という言葉なのだという。(サント=ブーヴと、その名をつけた短いアヴェニューにあるパリのモロッコ料理屋「ターブル・ド・フェズ」に、またしても乾杯!)

ならば私も、かの17世紀のモラリスト公爵にならって、「ほとんど常に」などといった「おぼめかし」の言葉をつかおうか。ちなみに「おぼめかし」とは日本語表現の特徴であるというのが、駿台予備校で現代国語を担当した、頭がよくて口の悪い池上先生の得意な表現であった。

…といった調子で、ためらい振りの前説を書きつづけたらきりがない。それにしても、いったい今回、私はどこへ行くのだろうか。そこで、ためらいを思いきるきっかけになったのが、マット・クレイマーのエッセイである。『ワイン・スペクテーター』誌の名物寄稿家であるマットは、最近いよいよ舌鋒が冴え、考えたことを身近な口語調で、ユーモアを交えながらやさしく説く。が、 “Drinking OutLoud”という連載記事の内容たるや、『ワイン・スペクテーター』本体の行き方すら(その名を上げずに)俎上に載せて一刀両断にする気配であるから、なんとも痛快である。なんなら、最近作のタイトルだけでもあげてみようか。
*Are you losing it? テイスティング能力は、加齢するにつれて衰えるか。
*Composition vs Performance 醸造技術よりも、産地を愛でよう。
*I’ll Show You mine if you Show Me Yours 自分が日頃自宅で飲んでいるワイン。
*It's All About Authenticity 点数なんか気にするな。そんなの問題じゃない。
*Free at Last! Free at Last 料理とワインの組合せといった通念から自由になりたまえ。
*The Dirty Little Secret ワインは、料理との組合せよりも、人との組合せが大切。
*Total transformation 今日のワインは70年代とは雲泥の差。だが、それは良いことか。

 ここに挙げたのはほんの数例にすぎないけれど、タイトルを見ただけでニヤリとし、思わず噴き出しそうなものさえある(上から3番目など)。が、私がとりあげたいのは、次のエッセイである。

*If You Owned a Winery …What would you do differently?

もし、ワイナリーのオウナーであったら、自分はなにをするか、という仮定の問答である。ワイナリーの栄枯盛衰を見てきたワイン愛好家たちが、好んで発する質問なのだが、ワイナリーが難儀に陥ったときに愛好家は、「自分ならばそれらのオウナーよりも、もっと上手に切り抜けられる」と思い込みがちだが、はたしてそううまくいくものだろうか。それは別として、マットは自分ならばこうする、という考えを示したものであって、その中見出しだけを引こう。
*I would Tell the Truth
*I would Speak Up
*I would Recognize That My Label Is Really a Portal
*I would Always Hire Wine People
*I would Ask Myself,"Am I A Me‐Too Winery?"

 いちいち紹介する紙数がないのが残念だが、もっとも注目に値するのが、「本当のことを言う」と題された第一の答えである。

 この正直第一主義という方針はあまりに単純だと思われるかもしれないが、あまりに多くのワイナリーが、実際にしていることを述べずにくちをにごしたり、誤魔化したり、あるいは、ある行動を選択した理由を説明しなかったりするのに、マットはごうを煮やしている。アルコール度数がその例で、(ウェブサイトで明記している者を除けば)ほとんど全員が正確な度数を明記していない。だが、例えばカリフォルニアでは、過熟したブドウかのマスト(果汁)に水を割って、アルコール度数を低下させていたりする。そのほか、シャプタリザシオンをしたり、加酸をしたりするのも常道。もし、自分がワインを向上させるために、真空濃縮法、スピニング・コーンやマイクロ・オキシジェネーションなどの設備や技術をつかうとしたら、その行為を正直に述べるだろう。だって、もしも、自分がそういう行動を恥じるのならば、そういった機器に手を出さないはずじゃないか、とマットは言う。

本当のことを言うのはラディカルに響くかもしれないが、なにせワイン界では本音を語ることがじつに稀なのだ、と。いかにもマットらしい核心をついた言葉じゃないか。私たちの会社の名前は「ラシーヌ」だが、これはラディカルであることと通底しているのだ。カール・マルクスがかつて述べたように、「ラディカルであるとは、ものごとを根源(ラシーヌ)から捉まえること」なのだとすれば。だから、私もマットにならって、本当のことを言おう。と書いたところで、本日は幕切れ。たとえば、現在の放射能禍という状況の中で、私たちはなにをしたらよいか、について書く予定だったが、これから急いで東北地方に向かわなくてはいけないので、本論は次号にまわさせていただきたい。

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