心に太陽、手に盃を

2011.4.01    塚原正章

 心に太陽を

 なぜ、心に太陽か、説明するまでもないだろう。あまりにも悲惨な状況は、かぎりなく人を陰鬱に追い込むものである。失われた人命は取り返すすべもなく、困難きわまる状況を劇的に転換する方法が見当たらない以上、「残された我々は、なにをすればいいのだろうか?」(ヴェルコール)――という痛切な問いかけが、万人の胸に迫ってくる。

つねに希望を失わないと言うことは容易いが、自分の心を思いどおりに動かせられるわけではない。命にそむいて蓋を開けたパンドラの箱からは、良いものや好ましいものすべてが飛び去り、箱の中に残ったのは希望だけとギリシャ神話にはある(が、「希望」は必ずしもポジティヴな意味ではない、との異説もある)。まして、抵抗しがたく、人に無力感を与えるような威圧的で困難な状況のなかでは、希望をもつ勇気すら起きなくても、不思議ではない。だが、フォルスタッフのように、「勇気とはなにか? 言葉だ。言葉とはなにか? 空気だ。」と詭弁を弄して、空気のように取るにたらない「勇気」を口先でばかにする道化者は、今ここにはいまい。

 太陽のエネルギー vs. 原子力のエネルギー

 勇気とは、別の言葉でいえば、心の動力あるいはエネルギーのようなものなのだろう。逆境の中で心的エネルギーを保ち、さらに奮い立たせるのは、至難な業ではある。けれども、まったく不可能というわけでもなかろう。

太陽は、人間が太古の昔から知り、用いている巨大なエネルギー源である。プロメテウスが人類に教えたとされる火もまた、身近なエネルギーであり、近代に生まれた電気エネルギーもまた利用価値が高く、必要不可欠ではある。にしても、およそエネルギーというものは危険なものであって、大きなエネルギーほど操作が難しいのが科学の常識であって、原子力がまさしくその典型。

かつて、電気会社の仕事を担当し、原子力発電関係のマーケティング作業にかかわっていた頃のこと。あまりにも巨大な設備を目の当たりにして、単純で効率的な発電原理ではあろうが、これを思いどおりに、しかも安全にコントロールできるなどと考えるのは、技術者だけでなく人類の驕りではないか、と考えざるをえなかった。これは、ローマやベルリンにある巨大な建築(の遺物)を見たときの感想に近い。巨大で無骨な建造物は、権力の産物と象徴であるだけでなく、同時に無意味で滑稽でもあるのだ。

現代社会は、システム的に供給されるエネルギーに恒常的に頼らざるをえない生活構造になっているが、核や人工的なエネルギーよりも、遥かに安全で恩恵に富む太陽のエネルギー(と月の作用)を活用する方が、人間の身の丈にあっているようだ。たとえば、ビオロジックやバイオ・ダイナミック方式のブドウ栽培のように、というとあまりに我田引水のようだが。 

《心に太陽を》という言葉には、逆境にもかかわらず、いや、それだからなおいっそう、希望を持つことの大切さと、自然な太陽エネルギーの尊重という考えが籠っているのだ。

 ユーモアというエネルギー

 困難な状況に対して途方に暮れ、悲嘆に明け暮れるよりも、それを心の中で笑い飛ばすような健全な内部エネルギーが、今こそ必要なのではなかろうか。このような心的エネルギーを、イギリスでは《ユーモア》と呼ぶのだが、その淵は《距離の感覚》にある。どんな難しいものごとでも、やや離れて適切な距離をおいて見れば、別な側面がうかがえるもの。解決策までは浮かばないとしても、せめて《ジョーク》を飛ばす心のゆとりがおのずと生まれるわけで、これがイギリス流のユーモアになるというわけ。

その点、ユーモアは、寸鉄ひとを刺すフランス流の《エスプリ》とはわけが違う。イソップの話ではないが、ユーモアは太陽のように旅人の衣装を自発的に脱がせることができるが、エスプリは無理やり服を脱がそうとして強い風を吹かせるようなもので、この場合はかえって逆効果というもの。フランスないしエスプリを、原子力エネルギーの象徴と考えるのも一興だが、これはちょいと行き過ぎた冗談である。

 ワインという心のエネルギー

 心のエネルギーを与えるのが、健全なワインであること、いうまでもない。ワインに含まれるアルコールもまたエネルギーであり、19世紀のフランスの労働者は、穀物などの食糧だけからでなく、むしろ割安な南部産ワインからカロリーを得ていたとか。そのようなカロリー供給源としてのワインが、現代の我々から見れば健全で美味なワインであったかどうか、疑問ではある。が、健全なワインを健全な方法で飲んで楽しめば、頭を酔わせる以上に心に愉悦を与え、幸せに導くこと必定である。

どんなワインが健全かつ美味で、幸せにすることができるかは、また別の稿にゆずろう。それにしても、辛くて困難な状況の中でも、また、そのような状況であればこそ、もし可能ならば健全で美味なワインを楽しんでいただきたいものである。ワインは問題を解決することは出来ないが、人の心を解き放ち、苦労をひとときのあいだ忘れさせ、人類同胞のことに思いを及ぼさせる手伝いをしてもくれる。

私たち、ワインの仕事に携わる者の使命は、このようなワインの本質的な機能と働きを思いかえし、困難な状況のなかでもワインを復権させ、大袈裟にいえば人間性の恢復に資することではなかろうか。たしかに日本と日本人は、比類を絶する困難と試練のさなかにある。が、だからといって過剰反応に走り、ワインの楽しみを働きかけることを自粛するとしたら、自己検閲をすることと同じく、自己破壊的であり、職業使命に反することになる。

あえて、《手に盃を》とつけ加えたゆえんである。

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