2011.3.01 塚原正章
さあ、これから自分の悪口を書くとするか。
必要があって、このところ海外に手紙ばかり書いている。といっても、残念ながら前回紹介したような『愛の手紙』(ダニエル・ヴォル編、堀田敏幸・訳、小沢書店、1994)ではなくて、実用書簡であるのは、いうまでもない。宛先に生産者が多いのは、私の職業柄からして当然のこととして、友人マイケル・エドワーズのようなワイン・ジャーナリストへの返信も含まれている。
本当のところ、私はひどい筆不精であって、年来、年賀状すら出さないという始末なのだが、だからこそいざ文章や手紙を書くとなると、どうも長文化する悪い癖がある。簡潔をモットーにしているはずなのに、どうしてだらだらと延びてしまうのか? 思うに、論理的な構成を好むために判断基準と因果関係を述べるだけでなく、例証を挙げてさらに説得力を増そうとするからだろう。要するに、欲が深いがゆえに、論証の形式にのっとって主張や言いたいことの内容を整備し、かつ陣容を整えたがるだけのこと。
だが、こういう叙述をしようとすると、最初に全体の構想をするのは当然としても、重装備で動き出すようなものだから、途中で息が切れてしまい、おまけに準備・筆力・時間の三要素がどれも不足しているから、なかなか最後までたどり着けず、えてして尻切れトンボ、あるいは竜頭蛇尾に終りがちなことは、読者――いるとしての話だが――は先刻、ご承知のとおり。
生産者に対しては、愛の手紙ではないにしても、ラヴコールをすることが、ないではない。比類を絶するようなワインをこしらえる、敬愛おくべからざる造り手には、オマージュを捧げるしかあるまい。こうして現実に、ラヴレターが奏功して、重要な取引が始まったケースもいくつかあるから、手紙の役割おそるべしなのだ。
だから、日頃から説得力ある手紙あるいは文章を書くだけでなく、文章に艶をだす工夫をすることが大切なのですね。そのために、というと実用主義にひびいて面白くないけれど、もともと文章は実用を旨とするものであって、美文をまねることは愚の骨頂。だとすれば、同じ説を唱える丸谷才一さんの、文章読本やエッセイあるいは書評に接することは、芸を味わうという贅沢にひたれるだけでなく、論理立てと表現力を磨くことにつながるから、読んで損はない。
さて、ワイン生産者との関係を維持改善する目的のために、ビジネス・レターを作成することもある。首尾一貫した主張をするのは、さして難しくないにしても、論理性がかえって仇となって、逆効果になるおそれがあるから、不本意ながら主張を和らげることもある。とすれば、フラストレーションが溜まる道理で、頭の健康にはよくないが、趣味ではなくてこれまた実用目的の文章なのだから、まあ、致しかたあるまい。
ときにはまれに、生産者からグッバイ・レターが来たりすることもある。恋愛ならば「ディア・ジョン・レター」というらしくて、歌に由来するこの言葉には、かつてアレック・ウォー(邦訳『わいん』の著者。イヴリン・ウォーの兄)が著した自伝かなにかで出くわし、洒落た言いまわしに感心した覚えがある。面白いのは、そのようなレターを書く人のハチャメチャな論理構成とメンタリティーなのだが、そんな悠長なことはいっておられず、この種のレターは歓迎できないのだが、受け取るのもやむをえない場合もあるかもしれない。
なにかが起こったばあい、まず事件の因果関係を明らかにすべきなのだが、ことは利害が反する当事者の双方に係わるとすれば、通常はどちらかに一方的な責任があるというようなものではないはず。それを、あたかも相手側に全責任があるかのような主張を読むと、なにかがオカシイと思わざるをえない(この種のことは具体的に書くわけにいかず、書く方も読むほうも隔靴掻痒の感があるが、ご容赦あれ)。そのようなレターに手紙でもって論理的に反論したりすると、相手はもともと論理性に乏しいばかりか、感情的になっている可能性が高いから、先にも書いたとおり、逆効果になりかねない。まさしく痛し痒しなのだ。
ある種のワインは、飲み手を選ぶ、と書いたことがある。同じように、手紙もまた、読み手を選ぶものらしい。現に、博捜の思想史家であった高橋安光さんが遺した『手紙の時代』(法政大学出版局、1995)の序章「手紙の楽しみ」は、次のような文章ではじまる。
「手紙は人を選ぶものである。学の有無にかかわらず、書き手がつまらなければ、手紙はそうなるし、書く相手がつまらなければ、手紙もやはりそうである。」
つまらない手紙を受け取るということは、こちらもまた、相手にとってつまらない存在である、ということなのだろうか。まあ、どっちもどっち、という平凡な結論に落ち着くようである。