なぜ、難しいのか?

2011.2.01    塚原正章

 さあ、これから自分の悪口を書くとするか。

「自分の悪口だって? これまで、口が悪かったことへの罪滅ぼしのつもりかい。でも、そんなことわざわざ、書くまでもないね。お前さんの欠点など、誰でも知っているし、とくに日頃の文章をみれば明白だから、屋上屋を重ねる必要はない。まして、そんなものを読む価値もないし、時間もない」という皮肉な声が、すでに聞こえるような気がする。

なに、そんなことは、先刻承知さ。ともかく、自分で自分の悪口をいうのは、面白いし気が楽じゃないか。逆に、よそ事について書くのは、一見気楽なようにみえるけれど、ゴシップや風聞を伝えるのならともかく、なにがしかの批評を加えて、オリジナルな見解を打ち出そうとしたら、その手続きと準備作業には意外と手間がかかるもの。だいいち、よその人の言動や仕事ぶり、あるいは人柄そのものについて、無責任あるいは軽率に批判がましいことを書くのは、あまり気持ちの良いことではない。

「自分のことを面白がっているようだけど、他人はお前さんのことについてなど、興味がありゃしない。おめでたい自分中心主義、つまりはエゴセントリックなだけじゃないか。なにか、ほかのことについて書くほうがマシだろう。それとも、書くネタがなくなったのかな。なにしろ、ふだんから情報の蓄えがないし、考えが足りないからな。それどころか、思考能力すら怪しいぞ。ワインの飲みすぎのせいだろう」

まあ、痛いところを衝かれたようでもない。いくら仕事とはいえ、連日連夜ワインの杯を干していることも事実だ。からといって、酔っ払った認識をしているつもりはない(というのが、酔っ払いの常套句である)。ともかく、考える時間が足りず、アイディアを発酵熟成させる期間が短すぎるのも、たしか。「内なる声」に耳を傾けながら、《なぜ、私のエッセイが読みにくいのか》という問題をとりあげたい。


「塚原のエッセイが読みにくい」としたら、その原因はなんだろうか。

仮説1.文章が読みにくい。文体が古風で、気取っている。
仮説2.内容が整理されておらず、理屈っぽいだけで論理が明晰でない。
仮説3.充分に考えぬかれていない。
仮説4.執筆にあてる時間が短すぎ、推敲も不十分である。
仮説5.記憶に頼って書いているせいで、不正確な情報や引用が多い。
仮説6.読者と共有する関心事が少ない。もっと、ワインについて書くべきである。
仮説7.抽象的な書き方が多く、具体的になにを指しているのか、わからない。
仮説8.長すぎる。
仮説9.自分の関心がある、とくに過去あるいはヨーロッパの知的世界について、書きすぎる。
仮説10.知ったかぶりをし、背伸びをしている。
仮説11.想定されて入る読み手(ターゲット)とその像が、不明である。


こんな仮説なら、いくらでもこしらえることが出来るが、煩瑣になるだけだろう。また、それぞれの仮説について、詳細に述べ、当否を検討していたら、手数がかかりすぎるし、そんな大問題でもない。そこで、それらをひとまとめにし、その背景要因などを織り込んで合成すると、こんなことだろうか。

 すでに書き散らしたとおり、私は大学生時代からフランスワインに馴染み、以来ワイン浸りの生活を送ってきた。が、その一方で、私のワインに対する関心は相対的なものであって、さまざまな文化現象に興味がありすぎる。元来が書物の虫で、ブキッシュなのだが、それは年来激しくなり、家ではセラーに納まるワインの数は増えず(すぐに消費してしまうからだろう)、むしろ万巻の書物の間に挟まって生活をしているという具合。手持ちのワインブック(と関連書籍、たとえばカリフォルニア大学出版刊の『ピープス日記』11巻など)の数は1000冊を下まわり、書庫全体の5%未満でしかなく、ワインについて知的な文章が驚くほど少ないのに較べて、文化と文明にかかわる知的な著述にはこと欠かないから、結果的にワインブックを手に取ることが少ない。

 昔からこのような書痴ゆえに、本を読むよりも、本を探して入手するのに費やす時間のほうが、多くなったきらいがある。つまりは、積読(つんどく)である。ということは、考える時間の不足を意味し、したがって着想の熟成という、ワインの熟成に要するのと同じような長い時間が不足しがちである。ただし、本業のワインビジネス(ラシーヌ)とレストラン稼業(イ・ヴィニェーリ)のために、専門的な情報蒐集は常に怠らないから、インターネットと現地のフィールドワーク、それに試飲・飲用と実験や試みという経験を通じて、フレッシュな情報にこと欠くことはない。

 ただ、具体的なワインとその造り手、ワイン・ジャーナリスト/ライター(自称・他称をとわず)、ワイン(関連)業界人や組織などの動向と言動について、事実や根拠はあるのだが、固有名詞を挙げて是非を論じるのは憚られることが多いため、結論(ときには刺激的な仮説)だけを抽象化して述べざるをえない。そのため、なにを指しているのか(勘が働かない分)読者には分かりにくいだろうと、同情申し上げる。

文章の癖だけは、どうしようもない。考えを論理的に述べようとすれば、理屈っぽくなるものだが、論理を追いすぎると極端な結論と逆説に陥りやすい(逆説については、チェスタトンの定義を参照すること)。そして、論理をゆがめたり、筆鋒や舌鋒を丸くすることが苦手だから、えてして攻撃と受けとめられ、無用な敵をつくる羽目になりがちである。こちらは自分の利害でものを考えていないのに、先様の商売の邪魔になる、と短絡して誤解されるのだろうか。あるいは、ワインに寄生しているビジネスや輩が多いから、つい、きついものの言い方になってしまうのだろうか。くわばら、くわばら。

 執筆時間の短いこともまた問題であって、(今日のように)締切日の当日になってからキーボードをたたき始めるというていたらくだから、当然のこと多数の文献を参照することも稀で、記憶に頼らざるを得ないから、繰り返しや不正確を免れにくい(ので、ホームページで訂正追加することも少なくない)。また、本来ならば脚注で触れるべきところを、本文のなかに織り込んだりするので、冗長に陥ったり、説明過剰にもなる。つまり、不足と過剰が同時に起きているので、文章のバランスが悪く、論理を負って結論にたどり着く時間がなくなるため、端折って走り書きの結論になることも、少なくない。

 (ヨーロッパの)ワインについて論じるためには、背後でそのワインを支えている(ヨーロッパの)文化現象にたいする幅広い関心と理解が必要不可欠である。このような認識に根ざしている私のエッセイは、志だけは高い、一種の高級漫談のようなものかもしれない。だから、想定している読者は、ワインの業界人や消費者にとどまらず、昔から知的興味を共有している友人たちであるから、これはまた、既知や未知の友人に宛てた手紙のようなものである。

 付録:手紙について

 ヨーロッパの歴史のなかで果たした書簡の働きについては、惜しくも2008年に亡くなった博学慧敏で独行の思想史家・高橋安光さんの著作と翻訳が参考になる。この主題については、高橋さんの『手紙の時代』(法政大学出版局、1995)が参考になるが、浩瀚な『ヴォルテール書簡集』(編訳、同上、2008)の翻訳も、知的な読者の書庫には欠かせない。
その背後にある社会の理解のためには、同氏が著した『旅・戦争・サロン―啓蒙思潮の底流と源泉―』(同上、1991)と、『ヴォルテールの世界』(未来社、1979)が、味わい深い参考文献である。なお、近刊された保刈瑞穂さんの『ヴォルテールの世紀』(岩波書店、2010)は、膨大なヴォルテールの書簡を縦横無尽に漁りつくして書かれた大著である。
 読書好きな方には、『愛の手紙』(ダニエル・ヴォル著、小学館、1994)がお薦め。ホレース・ウォルポールに宛てたデュ・デッファン夫人の知的で洗練された切ないラブレターや、ジュリー・ド・レスピナス嬢の2通の手紙には、胸を打たれること必定である。

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