つもり話

2010.12.31  塚原正章

 予定どおりにコトが進まないのが、世の常……と書き出すと、読み手は「またしても言い訳が始まりそうだ」と、構えだす。まさしく、そのとおりなのだが、仕事の上では予定は「計画」という形をとるから、計画が狂うと計画者自身はもとより、関係者にも思わぬ余波や影響が及ぶ。たとえば、11月に発売予定だったティエリー・ピュズラ(ネゴシアン製)のヴァン・ヌーヴォー・ブラン2010が、ビン内二次発酵のために極度の発泡性をおびて噴出し、発売中止に追い込まれたのは、当方としてはまったく予想外の出来事であった。が、ティエリーのような百戦錬磨の自然派生産者ならば、かくも高い糖分と生きた酵母を残したままビン詰めすれば、必ずや二次発酵が起きるはずと予想できるから、こうした出来事が起きても想定外ではあるまい。予想範囲の内外をとわず、ともかく事件が起きてしまい、お店と消費者の方々の期待に副えなくなったばかりか、多大の迷惑をお掛けしてしまい、まことに申し訳なく思っています。

 書くつもりだったこと

 けれども、今回ここで記そうと思っている「つもり話」は、それとは別のことがらで、食事と料理について書くという11月の予告についてのこと。東京で第1回フェスティヴァンが成功裡に終った直後、《ワインの大敵であるボトルの付着物を剥がすべし》という「ヌーディスト宣言」をあわただしく認めてから、ようやく12月上旬に懸案の出張に出かけた。あいにく雪まみれになってフランスを飛びまわってイタリアへ向かい、産地と生産者を歴訪しているさなかに、すっかり気が変わってしまったのだ。アルベール・カミュもどきに、「それは雪のせいだ」などというつもりはない(注。カミュ作『異邦人』の主人公ムルソーは、犯した殺人を「太陽のせい」にした)。各地で真摯にワイン造りに取り組み、着実に前進を続ける若手や中堅のヴィニュロンの姿に触れて、のんびり食事などを論じることが恥ずかしくなってしまっただけのこと。だいいち、このエッセイですでに何回か同じようなタネでもって議論をしてきたじゃないか、と反省もした次第。

 そういえば、もうひとつきっかけがあった。『ロハスの思考』(福岡伸一著、ソトコト新書)の「食について考える」第5章「グルメの味覚を疑え」という一文に、同感したのだ。常々、自称グルメの見解に警戒感を抱いている「福岡博士」は、こう言う。

グルメを自認する人々は例外なく酒好きであり、特にワインを好む。ワインには100mlあたり100mg以上のカリウム塩が含まれており、ワイン通の舌はこの塩濃度に麻痺している。(…)だから彼らグルメは、しっかりした味、つまり塩濃度が高い料理でないともの足りないと感じる。だから、ワインとともにおいしいものをさんざん食べ慣れたヒトが、オレが本物を教えてやる、と言い出してもそれは食育とはならないと考えられるのである。


 むろん私はグルメ気取りでもなく、まして「本物を教えてやる」などという不逞な意気込みもさらさらないが、それにしても思わず「そのとおり」と言いたくなった。福岡さんの文章は、いつもながら科学的な思考に根ざしており、日常的な世界を叙述するときも論理と感性が上手にないまぜになっていて、一般読者への説得力があるのだ。

 このような次第で、食事談義を控えようと思ったのだが、すでに参考文献の名まで挙げて予告編を書いてしまった以上、頬かむりをして逃げ出すわけにもゆかない。そこで例によって、書くつもりだった欲張った内容を大雑把にスケッチすることにした。「つもり話」と題する所以であるが、素描ならぬ粗描という見立てを、お許しあれ。

 1) 料理はアート(芸術)か?

 『文士厨房に入る』(ジュリアン・バーンズ著。みすず書房)は、意表をつく代表作『フロベールの鸚鵡』の作者による料理経験談である。が、料理上手だった壇一雄の諸作とは違って、これは料理の実技を解説したものではなく、むしろ料理ブックの著者や料理人があまり当てにならず、まして作家本人の調理技術が高くないことを、失敗談をまじえてバーンズ流のユーモアあふれる才筆でもって述べたものだ。
 その最終章「すべては教訓」は、法廷におけるオスカー・ワイルドと、法廷弁護士との詳細なやりとりから始まる。引用の拠りどころとなる原典は、たまたま今回パリの古書店で入手した『アイルランドの孔雀と緋色の公爵』( “Irish Peacock & Scarlet Marquess”,Merlin Holland著, Forth Estate, 2003。未訳) である。著者のマーリンは、ワインについて興趣にとんだ作品を残してもいる作家、ヴィヴィアン・ホランド(注。オスカー・ワイルドの長男。アレック・ウォーが『わいん』(英宝社)を著したときの相談相手でもあった)の息子であるから、すなわちオスカーの孫にあたる。つまり私は、三代にわたるワイルド(父オスカー・子ヴィヴィアン・孫マーリン)と、彼らの作品が大のお気に入りなのだ(父子三代にわたる優れた家系の作家は、ほかにイーヴリン・ウォー一家くらいしか思い浮かばない)。
 ともあれ、この法廷の速記録をもとにしたとおぼしい2冊の本から、ワイルドの愛読者は「才能を会話に使い果たした」とうそぶいた「会話の天才」オスカーの鮮やかな話しぶりを、目の当たりにすることが出来る。しかし、雑談はそこまで。

法廷での質疑応答を省略し、核心の部分だけをバーンズの『文士…』(p.178)から引く。

ワイルド「…彼(友人のテイラー)が料理をしたとしても、いけないことだと思うはずもありません。むしろ気が利いていることだと思いますよ。(…)」
カーソン(法廷弁護士)「わたしは、それがいけないことだとは言っておらん」
ワイルド「料理はひとつの芸術ですよ」(〔傍聴人らの〕笑い)
カーソン「また別の芸術だというのかね?」
ワイルド「もうひとつの芸術です」

 ここでバーンズの話は、ワイルドに始まってコンラッドやフォード・マドックス・フォードからフィリップ・ラーキンという文人の料理にまで及ぶのだが、そんなことはどうでもよい。問題は、料理が芸術であるかどうか、という一事につきる。答えを出すまえに、もうひとつの、面白い引用文集にちょいと眼を向けたい。

 詩人の故W.H.オーデンと、学者ルイス・クローネンバーガーが共同編集した『アフォリズム』(The Faber Book of Aphorisms, Faber & Faber, 1964。未訳)である。「個人的な選択」をうたい文句にしている同書に引かれた寸言や名句は、実に気が利いていて、分厚いだけの類書を圧倒する。
そのアンソロジーのなかで料理や食事は、「人生のささやかな楽しみと試練」“Life’s Minor Pleasures and Trials”なる章で扱われていて、ブリア=サヴァランからジョンソン博士、チェスタトンからヴァージニア・ウルフ、林語堂まで登場する。ここで「マイナー」という形容詞はいかにもイギリス的なのだが、むろん「マイナー」な世界が、必ずしも「メイジャー」の世界よりも劣っているわけではなくて、格やレヴェルの違い、軽重の差を指しているだけ。たしかに「人間性」「宗教と神」「自然」「教育」「社会」「男女関係」「「恋愛・結婚・友情」「職業」「科学」「芸術」「国家・政府」「精神活動」といった、人生と社会の根幹に関わる他の大項目と較べれば、「食事」などはマイナーな世界の「ささやかな楽しみ」ごとに類するかもしれないが、かといって重要さで劣っているわけではない。かつて、『第二芸術論』で桑原武夫さんは、俳句は短歌とは違って第二芸術であると断じたことがあるが、この「第二芸術」は「マイナー・アート」と訳すことが出来る。さしずめ、食事もまた、日々の生活にかかわるマイナー・アートである、といってよいのではないか。

 さて、ワイルドとオーデンから我が田に水を引くと、料理はマイナー・アート(第二芸術)の部類に入ることになる。つまり、大文字で書かれたアート(大芸術)ではなく、日常茶飯事(そうです、まさしく茶飯事)の技芸なのであって、それは料理を卑下することにはならない。そこで、あらためて、料理がどういう種類のアートなのか、という議論に進むのだが、ここでは「いくらマイナーであろうと、すべての料理がアートに属するわけではない」という、自明のことだけ言っておこう。

 2) 料理をアートにするものは?

――いうまでもなく、料理人である。アーティフィシャル(技巧のまさった人工的・表面的なもの)にするのも、料理人である。ついでにいえば、料理をアートにしないのもまた、料理人である。まことに料理人は大役を担っているとともに、罪ふかき存在でもある、と言わざるをえない。

 また、別の見方をすれば、およそアートは、作り手あるいは送り手と、受け手との間で成り立つ〈コミュニケーション関係〉でもあるから、料理のばあいにも、作り手と食べ手との間の、とりわけ微妙な関係がここに潜む。だけでなく、料理の見方には、作り手だけでなく食べ手の側においても、具体的な判断基準や美学が底にあるはず。だから、特定の時間と空間で供される料理について、アートの域に達しているかどうか判定するとしたら、判定者のもっているアートの理念と、判定の尺度と手続きを、鮮明にしなければならない。

 ここで、アートとはなにか、という本質論に踏み込むとたいへんややこしいのだが、さりとてそれを避けて通るわけにもいかないし、かといって面倒くさい。(大)芸術とマイナー・アートなど、さまざまなアートに序列はあるのか? そもそも、アートあるいは諸芸術を判断するための共通あるいは固有な尺度(クライテリア)はなにか? 客観的な尺度はあるか? あるとしたらなにか? ――など、難問が続出するから、芸術学の大家でもないかぎり、とても手に負えそうもない。

 ともかく、なんといっても私には力不足なので、ヒントとして故E.ゴンブリッチ教授が残した名著“Story of Art”をご覧あれ、とだけ言っておこう。翻訳に『美術の物語』(一巻本、タウシュニッツ刊)と『美術の歩み』(池上忠治訳・上下、絶版)と2通りあるが、博学無双にして柔軟かつ透徹した論理の持ち主である著者が、最後に手を入れた最新増補版にもとづく最新の訳業(一巻本)が、図版がはるかに美しいだけでなく、正確さの点でも上出来である)。ここでゴンブリッチは、説明に必要な最小限度の専門用語(ターム)だけを用い、著者の見方を裏付ける見事なカラー写真を添えて説得力を高める工夫をした結果、人間の精神とメンタリティのあり方を示す美術(アート)の歩みが、知的かつ明快に論じられていて、読者を飽きさせない。人生と芸術を考えさせる知的読み物として、ぜひお勧めしたい所以である。

 3)アートの実例:ある日の谷昇シェフの料理

 堅苦しい話はこのくらいにして、幕間として最近味わった出色の料理経験について、ぜひともご報告させていただきたい。内輪話をすれば、かねがね谷昇さんと北島素幸さんは(「さん付け」したりして、大家に失礼!)、われらが無上に敬愛する料理人であり、まったく異なっているが共に比類のない個性と腕前の持ち主である。そして、肝心の料理はといえば、誇り高き作り手(のティーム)に妥協心などこれっぽっちもないから、まさしく圧倒的。いったんご両人が用意するテーブルに着けば、「料理がアートであるかどうか」なんて野暮な問題設定など、吹き飛ばされてしまう。こういう経験は、ほとんど説明不可能であって、たとえば(おそらくは)六代目菊五郎の舞台の観客が享受したような、同時代人にしか許されない特権的かつ歴史的な経験である。

 最近、とは2010年11月25日の夕べのこと、レストラン ル・マンジュ・トゥーでめでたく谷さんの料理にありついたのは、フランス自然派ワインの造り手マルク・アンジェリとギー・ボサール、ラシーヌの合田および塚原の計4人。さまざまな素材の持ち味と固有のフレーヴァーを活かしながら、おのずと統一感をそなえた別世界に誘ってくれるような当日の料理に、鋭い味覚と深い審美眼の持ち主であるマルクとギーの二人は、讃辞を惜しまなかった。谷シェフをわずらわせて当日お書き願ったメニュによれば、料理は次のとおり(谷さん、勝手にお披露目するのをお許しあれ)。なお、組み合わせたワインについては、自画自賛になることをおそれて書かない。

*鳩のババロア仕立
 セップのピュレーとフォアグラのムース添え
*フォアグラのテリーヌ
 いのししのテット・ド・フロマージュと秋トリュフ 緑アニスのピュレー
*うさぎ背肉のルーロー:
 トリュフ、セロリラブのピュレー、マスタードソース、黒キャベツのロースト
*オマール海老の片面のポワレ
 ぺルノー酒のキャラメリゼ マダガスカル産バニラ 帆立貝のクスクスとキャロットラペ
*ブレス産 鶏のヴェッシー
 ロワイヤルソース トランペット茸のロースト添え
*ショコラ・ショーとトンカ豆のエスプーマ
*タルト・タタン
 生姜とシナモンのグラス
*小菓子

 4)料理は秘伝?

 北島さんと谷さんには、《料理が圧倒的なだけでなく、魅力と説得力がある》という点以外にも、じつは共通点がある。お二人が著したクックブックは信頼ができるのだ。世にある料理本が信頼できないわけがない、というのはあまりにもお人好しな見方であって、たとえば先にあげたジュリアン・バーンズの本について見ればわかるとおり、料理本があまり当てにならないのは、どうやら洋の東西を問わない現象らしい。

 ところが、この国の誇る二人の料理人が著した本は、その麗しい例外である。たとえば、谷さんの『ビストロ仕立てのスープと煮込み』(別冊家庭画報)に書いてあるとおりのレシピーでもって、シチューを作ってみればよい。牛肉にはあらかじめ塩を振って少し寝かせておくだけで、あとは煮込みにいっさい塩・胡椒をする必要がなく、しかも複雑で澄んだ味に仕上がること、請け合いである。眼高手低をもって自認する私のように、厨房の経験が浅くて不器用な者でも、わが目と舌を疑うような美味になってしまう。
これは明らかに、料理をした者の功績ではなくて、料理ブック、すなわち著者(と編集者)のお手柄である。俗説に盲従することを拒否する著者が、さまざまな実験と試行錯誤をしたあげく、独自のクッキング論理を組み立てたということが、おのずから明らかではないか。このような初体験に驚いた私は、料理に関心のある知人たちに、片っぱしから「この本、知っている?」と宣伝して歩いたものである。そうすると案の定、「あれは、とてもよい本ですね」という嬉しい反応があとから返ってきたりするから、やはりそう感じる人がいるのだな、と逆に感心してしまった。

 そして、近年の傑作は、『北島素幸のフランス料理』(柴田書店)である。料理の手順と各ステップが、多数の写真とともに詳細に述べられている。こちらはプロ向きの専門書ながら、専門書としては決して高価な部類ではない。まして多くの類書とは違って、すべてが隠しだてなく明瞭に説明され尽くされている(とは、ある上手な料理人が漏らした讃辞である)。だから、実用この上ないとプロたちが持ち上げるのも、無理はない。聞くところによると、江湖の評判がよいとのことで、北島ファンの一人として慶賀にたえない。

 独自の思考と試行錯誤、実験をかさねた名料理人の二人は、いっさいを秘密にすることなく、志のある人ならば誰にでも可能なように、美味の秘訣を教示してくれる。もったいぶって調理法を教えようとしない料理人は、かえって自分には他人に教えるべき秘密がないことを、暗示しているかのように。秘儀としての料理の時代は、終わったのである。

 5)料理の批評は、どうあるべきか

 北島・谷という現代の誇る料理人について、常ひごろ感じていることを書いてしまったら、もう、さしあたり書くことがなくなってしまった。料理がアートであるかどうかなんて、どうでもよいじゃないか。感銘を与えるような食事経験となるか、どうかだけが問題なのだ。それじゃ、あとは料理批評のあり方だけを論じて、またしても長すぎる拙稿に終止符を打とう。

 料理とワインに関する文章に、あまり知的な興味を催すようなものが乏しいということについては、繰り返し書いてきた。とくに、日本のワインブックやワイン論議に、知的そな興奮を覚えることがすくないのは、なぜだろうか。たとえば、多くのワインブックや、おそらくワイン学校のレッスンは、著者自身が深く知らないような(他人から教わった)事柄を孫引きして、そのまま受け売りしていることが多いだろうから、底が浅いだけでなく、説得力もないのだろう。知ったかぶりは大ケガのもとだし、小さな経験と誤った先入観をもとにして、大きな議論(思わず、「愚論」と打ち間違えてしまった)をしようと無理をすれば、論理が破綻をきたすのも当然なのである。

 ここで視点を変えて、悪口としての料理批評を取りあげるのも、一興である。世に横行する、「美味しい」とか「究極の美味」という当てにならない表現に、辟易しているからである(そういえば、『美味しんぼ』の原作者である雁屋哲氏は、もと同僚であった。失礼!)。
まずは、2010年に惜しくも他界された見田盛夫さんが残した、『フランス料理の誘惑』(廣済堂出版、1997)。そのなかで温厚な人柄にもかかわらず、見田さんは驚くほど不味かった料理について、理由をあげて、理にかなった非難したことがある。あるいは、小泉武夫さんの『不味い!』(新潮文庫)もまた、その例になるだろう。味覚の冒険家である小泉教授と、フランス料理を味わいつくして見事な批評をなしとげた見田さんとは、資質も文章もまるっきり違うが、評価の基準と理由をあげたうえで、不味いことを不味いという憤りと勇気に、私は敬意を払いたい。とかく現代は、差し障りのない言葉でオブラートに包み、甘い言葉で相手をほめ殺ししがちだからである。
上記の著書とはやや趣を異にするが、マッキー・牧元さんの『東京・食のお作法』(文芸春秋、2010)の第7章「まずいのお作法」(注。発行元のホームページで閲読可能)も、読んで損はない。奇態きわまるカレーやソース焼きそば、玉子焼きと格闘しながら、「まずい料理とは推理小説なのである」と割り切り、必至になってその理由を考える美食家マッキーの口調には、巧まずしてユーモアが漂っている。ちなみに牧元さんには、出発当初の手狭なラシーヌ・オフィスにお越しいただき、手土産の料理とともにワインを傾け、ともに一夕の歓談に暮れたことがある。美味い店にかくも通じているのは、大変な情報収集と試行錯誤の賜物であると感じ入ったしだいだが、軽妙な「食のお作法」を論じる蔭には、異様に「まずい」体験の裏打ちがあったのである。

 さて、現代日本に氾濫している、料理とワインの紹介・感想・批評文についていえば、ブロギストをふくむさまざまな著者たちは、格段に審美眼が高くて批評意識が鋭いようには見受けられない。だから、目の前におかれた料理やワインについて、即席の印象や固定観念を述べるか、セコンドハンドの知識を披露することに終始するのだろう。たとえば、いくらワインの風味をさまざまな動物・植物・鉱物の香りに比定したり、「○○のような香りがする」などといくら詳細にのべたところで、しょせんは連想作用にとどまるだけで、ワインの位置づけと評価にはなりようがない。

 だから私は、考えるワインライターこと、マット・クレイマーに倣えと、いつもいっている。といっても、その翻訳(私もまた、その一冊の共訳者である)の文章を敬えというのでは、さらさらない。マットの発想、批評精神と思考活動のありかたに学ぶ必要があるのだ。 
 マットよりも若手のワインライターとしては、エリック・アシモフとピーター・リーエムが、考えるお手本になる。たとえば、シャンパーニュのドザージュに関するピーターの論考は、文章が上手でバランスがとれているだけでなく、豊富な実地経験にもとづくオリジナルな意見が述べられて見事。ちょっと考えてみれば、ピーターならずとも、ドザージュの有用・無用を決めつけることなど、しょせん意味はないとわかるはずなのだ。ワインづくりの目標と哲学、どういう酒質のワインにどのようなドザージュをするかしないかが、問題なのである。まして、マーケティングの手法として、シャンパーニュにノン・ドザージュが採用されている、などというような皮相な見方は、たんに己の見方を他人に投影しているとしか思えず、定めしその人は日ごろマーケティングとやらにどっぷり漬かっているに違いない。(おっと、私の旧職はマーケティングであったことを失念していた。放った矢は自分に帰ってくるものである。もっとも、ブーメランのように、狙った獲物に当たらなかった場合の話だけど)。

 もしも、ワインに関して参考になる文献があまりないとしたら、どうしたらよいだろうか。私のお勧めするのは、音楽批評に学ぶことである(ちなみにマット・クレイマーは、「ジャズ評論もやっている」と打ち明けてくれた)。料理/食事とワインは、音楽の演奏とおなじく、時間の「芸術」であって、味わったあとには通常なんの記録も残らない。ちかごろでは、食べた料理の写真があちこちのブログに麗々しく載っているが、それと美味との関係 はまずもって判断すべくもない。演奏会も同じで、演奏会のテープやCDがあるにしても、それは演奏と近似物であって演奏体験とは異なる。いずれにせよ、音楽も料理/食事も、言葉では構成されていないから、文学批評のように言葉でもって言葉の世界を論じるわけにはいかない。つまり、耳や舌・鼻などの五感で受けとめたものを、言葉に翻訳して味わい、評価し、人に伝えるという作業は、えらく高級な作業なのである。それだけに、知的な思考作業がいっそう必要になるのである。

 その点で、音楽批評の分野では、昔から学識に富む先人が苦闘しながら思考活動をした結果、批評を美しい文章に鍛え上げることが出来た、と容易に推測できる。いつも挙げる例では、思考をたたえる吉田秀和さんの優雅な文章。そこで、今回は別の著者、岡田暁生さんの『音楽の聴き方』(中公新書)を引き合いに出そう。聞くという耳の作業と、味わうという鼻と舌の作業に共通した難しさについて、この本から学ぶことは少なくない。本文の冒頭で岡田さんは、なんと、しかし、やはり、ゴンブリッチから引用することからはじめる。『美術の歩み』とともに、大部の『芸術と幻影』の一節からである。練達した読書家ならばだれでも、書物の価値は引用された文献の質でもって、およそ見当がつく。だから、読者は安んじてこの気鋭の音楽学者にして音楽批評家の言を、信頼してよい。ドイツ・ロマン派の発想が、音楽の印象を言葉にすることを禁じた、というあたりの分析は、なかなか快調である。この新書が吉田秀和賞を受けたのも、あまりに当然といえば当然なのである。
いまいちど耳を澄ませて考える癖をつけることが、ひるがえって味覚と嗅覚をいちだんと鋭くすることに役立つと、私は信じて疑わない。感覚の交流(ボードレール)がおきるのだろうか。といっても、グラスの淵に耳を近づけたところで、シャンパーニュのバブルがはじける音くらいしか聞こえないだろうけど。さても、耳にワインが流れ込まないよう、ご注意あれ。

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