ヌーディスト宣言

2010.12.01  塚原正章

 「私どもが考えます新しいという意味は、外国から持ってくることではない。いままであまり人の言わなかったこと、できるならば誰も言わなかったことを初めて言うのが、新しいのです。もっとも、いままでだれも言わなかったことを言うだけならば別にむずかしいことはありません。いままでだれも言わなかったことで、何時かはだれかが言わなければならないこと、それを初めて言う。そういうのが新しいと思います。」  ―宮崎市定『論語の新しい読み方』(岩波書店;同時代ライブラリー,P.21 注)京大名誉教授の故・宮崎市定さんは、定説にとらわれずに考え続け、大胆かつ刺戟的で説得力がある体系的な考究を発表した、博学無双の東洋史家。

 はじめに

 独創的な思索という点で、東洋史の宮崎さんに当たるのが、ワイン界ではさしずめマット・クレイマーであろうか。定説を疑い、事実に即して考え、論理的に思考のプロセスを述べるマットは、既知の事柄や他人の説をなぞって説明するしか能のない多くのエピゴーネンとは違って、あるべきワインライターのお手本のような存在である。そのマットに学びながら、ワインの飲み方について私は、自分なりに工夫したことを、これまでお伝えしてきたつもりである。

 その一端は、「ラシーヌ便り」の拙いエッセイでも、披露させていただいた。たとえば、「ストレス・フリー理論」である。けれども、まだ文章にしていないが、一年以上まえからさまざまなラシーヌの試飲会や、プライヴェートな飲食の場で実践してきたことが、なくもない。そのひとつが、ワインのボトルに貼ってあったり、付けられていたりするものを、できるだけ剥がして裸にする、というやり方である。

 この「技法」――というといささか大袈裟ではあるが――について、私の考えついた理由(なぜ、そう考えたか。また、どのような根拠があるか)に触れず、ただ効果だけを見てそのやり方を真似し、発案者の名をあげずにネット上で書く人が現れてきた。この技法が広まること自体は、ワインにとって大いに喜ばしいとは思うが、新奇なだけに誤解を招いてもいけないし、発案者としては責任がなくもない。そこで、あらためてその技法について体系的に述べ、多くの方々がよりおいしくワインを飲んでいただきたいと願い、ここに文章化した。題して「ヌーディスト宣言」とは、寒い時節になじまず、またワインにふさわしい穏やかな表現でもないけれども、内容を端的に紹介するためにあえて名づけた次第である。

 1. ワインの敵はなにか?

 造り手のもとで大切に育まれてきたワインを、台無しにしてしまうものは少なくない。だれでも知っているのは、熱や光線などの、外界に由来する物理的な存在である。とくに、SO2などをほとんど用いず、フラジャイルな(傷つきやすい)自然派のワインにとって、15℃を超える環境は、危険この上ない。したがって、輸送条件や保管条件が大事なことは、いまさら説くまでもない。問題は、これを知っていることと、実践することとのあいだに、差があることである。つまり、知ってはいても、あるいは「それを実行している」と称していても、実際にそのようにしているかどうかは、だれにも判らない――当のワイン以外には。ワインだけが知っているのだ。手酷く不当な扱いを受けたワインは、その痕跡がくっきりと刻印され、風味と味わいが根本的に変わってしまい、取り返しがつかなくなる。あいにくそのようなワインに出会ったら、運のつきと諦めるほかはなく、だれが真犯人かを突き止めることは、一般には容易ではなかろう。

 2. ワインの敵はだれか?

 さて、このような環境のほかに、本来のワインの持ち味を損ねたり、発揮させにくくしたりする、ものごとがある。それは、「人間的要素」(サマセット・モームの小説のタイトルでもある)とでもいおうか。ワインの飲み方である。ワインの飲み方やサーヴィスの仕方は人によって異なるので、間違ったやり方でワインを台無しにしてしまう人のことを、私は「ワインの敵はおまえだ」と、石川淳の戯曲名(『おまえの敵はおまえだ』)をもじって、戯文化したことがある。

 「なーに、難しいことはない。適切な温度に保ったビンから、なるたけ揺らさずにコルクを抜き、適切なグラスに注げばいいだけじゃないか」と仰るかもしれない。まあ、たしかにそのとおりであって、ただ「適切」の内容が人によって違うのが問題なだけである。なお、注ぐさいに、できるだけ液体にショックを与えないというのが「ストレス・フリー理論」であったことを、思い出していただいてもよい。  さて、それだけに注意すれば、ワインは美味しく飲めるのだろうか。

 3. ワインの敵は身近にあり

 いったい、もとのワインの造りが上手でなければ、それ以上にワインの味わいが良くなることは、考えられない。その意味では、美味しいワインの敵は、下手な造り(手)である、という言い方が出来なくもない。が、こんなことを言ったら四面楚歌に陥ってしまい、世界のワイン界から袋叩きになるから、口にしないほうがいい、と忠告しておこう。もう、書いてしまったではないか、ですって?
 私が言ったわけではなくて、そのような考え方を発表する危険性について述べただけです、念のため。

 ともかく、あるいは、とかく灯台下暗しになりがちだから、あらためてワインのごく身近に、ワインを傷つけているものがないか、点検してみる必要がある。思うに、「ワイン・ボトル」を覆っているもの、すべてが敵になる危険性があるのだ、と私は言いたい。
 それじゃ、まずコルクを問題にすべきではないかという議論は、むろん正しい。コルク汚染、いわゆる「ブショネ」の原因とされる2-4-6 TCA(トリ・クロロ・アニゾール)と、それに対する対策については私見があるのだが、議論が複雑になりすぎるから、いまは触れまい。

 コルク以外で、ワインという液体と接しているものは、いうまでもなくガラス瓶である。このボトルなるものの素材と形状が、あらゆるワイン用の容器のなかで、もっとも機能的(密閉性が高く、保存熟成に便利)かつ安全で、要するに合理的でもあることは、数百年の歴史がほぼ証明したといってもよい。

 4. なぜ、異変に気づいたか

 それでは、ビンを覆っているものは、すべて問題はないのだろうか。ここで、私の探偵気質が動きだした。

1)まず、「生産者ラベルがどうも怪しい」と、何年も前に気づいたことがあった。同じ生産者の同年産の同一キュヴェで、ときとしていわゆるボトル差が激しいことがよくある。もし、同じ条件で輸入・保管したワインであって、コルクにも問題がないとしたら、通常はボトル差であると片付けられてしまうが、どうにも腑に落ちない。そこで「おかしいな」と思い、自宅でカプセルやラベルを剥がしてみたら、味わいが著しく向上し、回復したことが何回もあった。

 ともかく、大きな紙に印刷されている一枚の生産者ラベルには、サイズと紙質、それに接着剤と印刷用インクの問題など、さまざまな要素が集約されている。それらの要素のうちのなにかが、悪さをしている可能性が推測されたのである。が、ラベルだけが犯人と決めつけるわけにいかないので、カプセルその他を剥がしてみて、どれもがワインに悪しき影響を与える可能性が大きいことに気づいた。
 なお、1年ちかく前に大阪で催した「ラシーヌ・ナイト」で、やはりワインの状態に問題があったので、お客様のまえで公開実験をおこなってみせ、味わいが回復したこともあった。

2)試飲会まえのチェック時の経験
 ラシーヌが主催する試飲会の前には、出品用のワインを事前にチェックすることにしている。そのときコンディションに疑わしいボトルが発見されるばあいがあり、それらのワインに共通した原因があるのかどうかを考えた。輸入保管条件がほぼ同一なのに、なぜなのかである。
その際に、個人的な実験結果を思い出して、ラベルやカプセルを剥いで、やはり状態が向上したケースが多かった。

3)産地と輸入先における違いの一因 
 生産者のもとを訪ねたとき、出荷以前の状態や、熟成用に積んであるワインには、なにも貼ってないことが多いし、それらからテイスティングすることが、しばしばある。それを輸入して試飲するときには、もちろん正規のラベルやカプセルが装着されているのだが、ワインの味わいが現地で飲み味わったときと、必ずしも同じではないのだ。もちろん、すでに製品化されてラベルとカプセルが付されたボトルから試飲するばあいも多く、そこでも現地と輸入地である日本で味わいが異なることもまた、しばしばある。

 いずれにせよ、現地の「裸ボトル」で試飲したほうが素直な味わいであることがよくあるので、なぜ、このような差が生じるのかを考えた。輸送にともなう衝撃、いわゆるトラヴェル・シックが最大の要因であるが、手持ちしたボトルでも現地との差があるのは、必ずしも飛行機内の荷物置き場の温度と気圧の変化ゆえとは、考えにくかった。とすると、悪さをした「犯人」はだれか。そこで思い当たったのが、)ビンを覆っているすべてのものによる影響である。

 5. 犯人の可能性はどこに?

ちなみに、(コルク以外に)ボトルに接して覆っているものを列記しよう。

1) 紙製品:
a. ワインのラベル類(生産者が付す、いわゆるエチケットと、裏ラベル、肩ラベルなど)
b. 産地の組合などが付す、認証ラヴェル(たとえば、キャンティ・クラッシコ組合や、リベラ・ドゥエ・ドゥエロの認証シールなど)。
c. 輸入者シール(インポーター名や、ワインの種類・容量、添加物名などを記したもの。紙製以外の素材では、ビニール製などの化学製品もある)

2) 金属製品
a. カプセル(日本では誤って、「キャップシール」と呼ばれることが多い)。現在では鉛は少なくなっており、代わりにアルミニウムの薄片が多い。
b. ネック装具:シャンパーニュ・ボトルの肩から胴体を美しく覆っていることが多く、紙を組み合わせることもある。
c. 網(ネット。スペインの特定ワインに用いられる)

3)プラスティック製品:旧式カプセルの代用品として。

4)蝋(ロウ):カプセル用。

その他の素材も考えられるが、普通に私たちの目につくのは、ざっとこのように多種多様なものであろう。さて、このなかに真犯人がいるだろうか。

 6.実験による検証:「まるで魔法のように」(“As if by Magic”)

 そこで、思い出したことがあった。異質の素材を組み合わせたとき、素材どうしが互いに違和感を持つかのように干渉しあって電磁波や磁場が生れ、人間にすこぶる悪影響を及ぼす、という説である。書き手は、数年前にインターネット上の「ハイハイQさんです」(邱永漢氏が主催。現在も活動中)というプラットフォームで健筆を振るっておられた医師で、当時は青森県の浪岡市でクリニックを開業されていた豊岡憲治氏。衣服に縫いこまれている頑丈な生地製の「素材表示シール」や「洗濯指示シール」あるいは「ブランド・シール」が、服地と相性が悪くて電磁波を生む。逆に、それらを切り取るだけで電磁波の悪さがなくなる、というのだ。その考え方に興味をもった私はさっそく豊岡説を試みたあげく、衣料素材の組合せによる悪しき影響があり、しかもこれを取り除けることを確信した。ちなみに豊岡医師は、現在でもバイディジタルO‐リング・テストの権威者のひとりであり、私もそのクリニックにはるばる通ったこともある。氏は、電磁波が身体に及ぼす影響について、実例をあげて微に入り細を穿った説明をされてていたので、いつしか異質物を除去する癖が、私の身についていたのだろう。もし、電磁波が人体に悪影響を及ぼすとすれば、生きているデリケートなワインであるほど、その作用を受ける可能性が高いのではないか、と考えるにいたった。

 そういう仮説が、ワインの世界でも成り立つとしたら、まず身許と来歴が明らかな自社輸入ワインについて、実験すべきである。というわけで、なによりもボトルに装着されているものをひとつずつ剥がし、ワインの味わいに変化があるかどうかを丹念に調べ、愕然とした。なにかひとつ剥がすごとに、味わいが向上することが多かったのである。健全な味わいのワインですら、ボトルからなにかを剥がすごとに、その味わいが向上することがほぼ確かめられた。

 さらに進んで、剥がしたものの断片を、ワインを注いであるグラスに貼りつけてみると、今度は逆に味わいが低下するではないか。このような反復実験をおこない、しかも可逆性が明らかになったとすれば、悪さをしている犯人群がなんであるか、疑いようがない。こんなことは、だれも教えてくれなかったのに。

 さて、仮説が検証されたという確信をえて、私は社内でのテイスティングでこれを実践し、社員にもその差を実感してもらった。おもしろいことに、ワインのテイスティング能力が高い人ほど、敏感にその効果を感じ取ることができるようである。そこで今年からラシーヌ主催の試飲会では、できるだけ裏ラベルとカプセルなどを剥がして、お客様に本来の味わいを実感していただくことにした。のみならず、馴染みのレストランやワイン・バーでもこの技法を教えたりもした。かくいう私の「オステリア・イ・ヴィニェーリ」でも、剥がせるものはみな剥ぐことにしている。といっても、お客様の身ぐるみを剥がしはしないけれど。というわけで、私たちの周辺ではこの技法の効果に気づかれた信奉者も少なからずあり、それをブログなどで書く人が現れだしたわけである。

 7. ヌーディスト運動

 それにしても、ビンから飾りを剥ぎとるやり方は、まるで身ぐるみ剥いで脱がせてしまうようではないか。そこで私は、あまり上品ではないけれど、裸に近づけたボトルのことを冗談に「ヌード・ボトル」と呼び、この技法を実践するものを「ヌーディスト」と呼ぶことにした。いまでは、ヌーディスト運動の活動中というわけである。
 さあ、みなさん、ヌーディストになりましょう。といっても、この技法を用いる者が人前で裸になるわけではないから、ご安心あれ。ただ、同じワインの味わいが、いっそう向上するだけである。

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