予告編:「食べること」の考察について

2010.11   塚原 正章

 裏話

 入稿締め切りの土壇場、つまりその2~3時間前に、ほぼ貧弱な記憶だけを頼りに原稿をそそくさとまとめるのが、いつもながらの慣わしである。そのような「やっつけ仕事」を、それと知らずに読まされる方には申し訳ない次第だが、常に次回のテーマを考えるという「発酵」や「仕込み」作業だけは怠っていないつもりである。結果的に、文章の形にするための作業期間が短すぎるまでのこと。ではあるが、文章化は食べ物でいえば調理と盛付けに当たり、考える「発酵」や「仕込み」作業は、しょせん下調理という準備段階にすぎないとすれば、やはり調理にかける時間をもっとかけるべきだと、反省はしている。とはいえ、手が遅い料理人のように、単に時間をかけるだけならば、必ずしも「丁寧で上質な仕事」には結びつかない、などとつい居直りたくなる。が、ありていは、文章化に時間をかけないのではなくて、私の段取りが悪くて文章化に着手するのが遅すぎるだけなのだ。

 早い手、遅い手

 いうまでもなく、料理は熱の加減とタイミングが命だから、上手な料理人は集中力があって、すこぶる手が早い。むろん、優れた料理人にとって手が早いことは、必要条件のひとつにすぎず、手際がよく、味付けが整い、なおかつ、お皿に個性が出ていなければならない。(そのうえで名人に欠かせないのは、想像力とホスピタリティ、最後に人間性であるが、人間性だけでは売り物にならない)。たとえば、門前仲町のイタリアン「パッソ・ア・パッソ」のように、3条件(手際、味付け、個性)がそろっている店があれば、当然ながら評判もすこぶる芳しい。おまけに、そこの有馬シェフの料理とたたずまいには、活気が溢れかえっているから、その勢いが食べる側にも伝わるという、理想的な伝導現象がおきるのも不思議ではない(ちなみにその活気は、後にあげた3点の資質―想像力、ホスピタリティと人間性―の賜物だろう)。

 料理人の眼に英雄はいない?

 ここで余計ながら、料理人にありがちな現象について触れておこう。妙なことに、とかく料理人は内心、客を馬鹿にしがちらしいのである。それどころか、なかには客(と、おまけに同業の料理人)の悪口を広言する癖のある料理人すらいるくらい。そんなことはない、と心ある真っ当な料理人は反論するだろう。おおいに結構。心意気のある人の作る料理こそ、いつも楽しみたいものである。が、私の言いたいのは、そのような当たり前の感覚をそなえた良識ある料理人についてではない。「客には料理がわからない」と見下したあげく、「しょせん客にはなにを出してもわからないから、腕さえあれば劣化した食材を使っても構わない」と思い上がっている料理人がいるとすれば、あなたはそんな店に行く気がするだろうか。ここは、「客を馬鹿にする料理人は、客から馬鹿にされる」と、ブレヒト流にいうしかあるまい。

 若いころ私は、レストランで食べた感想の一端をふと店側にもらしたり、口にしないまでもそぶりで示したりしたことがあったらしい。その場では店側はなにもいわないが、私の去った後で悪口をいっているという風評を、いろんな筋から聞き及ぶにつけて、批評を受けつけない料理人たちのレヴェルの低さに愕然としたおぼえがある。自信と反論があるのなら、その場で言えばよいのに。えてして自信たっぷりの様子をしている料理人は、逆に内心は自信や確信がないという心理が、読みとれなくもない。

 そのような料理人にかぎって、自分が見下す客からほめ言葉を欲しがるのだから、始末が悪い。その点、「料理人の眼に英雄はいない」(ヘーゲル)という指摘は、さすがにポイントを衝いている。世間から天才といわれるような不世出の英雄であっても、自分で料理する腕も時間もなく、料理人からあてがわれたお皿を有り難がってつつくしかない。とすれば、料理人にとっては英雄といえどもそのベールを脱いで、提供された料理をたべる普通の人間にすぎない、と思い込むのも無理はない。たしかに食事という土俵のうえでは、英雄も戦士も普通人と変わらないが、だからといって英雄(客)を英雄(客)扱いする必要がなく、むしろ料理人が英雄である(客より偉い)と思い込むとしたら、とんでもない論理の飛躍であって、見当違いも甚だしい。料理人は英雄などではなく、尊敬すべき職業に特有のスキルと資質を持った(というより、持つべき)専門職人であるはずなのだ。

 当今は、料理人をあたかも英雄のようにもてはやす料理ジャーナリズムが横行しているのも問題であるが、それについては既に触れたから再説すまい。ただ私は、「本物の料理人よ、どこにいる?」と年がら年中思い、良識と天分を二つながらそなえる、優れた料理人との新たな巡り合いを切望しているだけです。

 料理人の敵はだれか?

 ……という類のことを書きつけるのは、料理人を敵にするだけだから止めた方がよい、とかつて忠告されたことがある。たしかに私には、「文章を書くたびに新しい敵を作る」と評された英国作家、イヴリン・ウォーのような癖がなくもない。けれども、このくらいのことを書かれて腹を立てるとしたら、当の料理人になにか思い当たるところがあるのだろう、と勘ぐりたくもなる。なにも痛いところを衝かれたからといって、書き手を責めるのは見当違いであって、まず当人が背筋を正すべきではなかろうか。いけない、またしても敵を作ってしまったようだ。

 予告

 言い訳がいつもながら脱線し、またしても本論にたどり着きそうもない。そこで次回はすこし真面目に、料理と食事そのものについて、あらためて考えてみたい。といっても、(と、すぐにエクスキューズをするのが悪い癖だけど)、力不足なことは誰よりも当の本人が心得ているので、何冊かの好著を手掛かりにせざるをえない。ちなみに思いつくまま、その名を挙げれば、
① 見田盛夫『フランス料理の魅力』(廣済堂出版、1997)
② 茂木健一郎『食のクオリア』(青土社、2006)
③ 西江雅之『食べる』(青土社、2010)
④ ジュリアン・バーンズ『文士、厨房に入る』(堤けいこ訳、みすず書房、2010)
 その他にも食と料理を考察した好著は少なくないが、とりあえずはこれだけにしておこう。いずれも錚々たる論客の手になるから、刺激的なこと間違いない。読者もあらかじめそれらを入手され、私の感想と較べてみるのも一興だろう。それでは来月、自然派ワインの祭典「フェスティヴァン」の直前ごろ、ここで再会を!

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