私見――食べるということ

2007.10.31   塚原 正章

  「食べることは、多くの人々にとって二番目に好きなことであり、一部の人々にとっては一番好きなことである」(C.B.ハイザー. Jr『食物文明論』)。

 なぜ、むきになって料理と食事に向かう人たちが多いのだろうか?いったい食事は、そんなに情熱を傾けるに足るものなのだろうか?もっと、楽しいことが他にないのだろうか?新しいだけで見掛けだおしの料理が、なぜもてはやされるのだろうか?料理の作り手も食べ手も、健全なバランス感覚と現実感覚を失いかけていないか?――など、近時の料理や料理店の行き方と、食べる側の志向に、疑問がなくもない。健全な食欲と食事は、過ぎ去った黄金時代の話になってしまったのか。そんなことがあるわけがない。でも――。いや、後ろ向きに考えずに、食べることの本源に立ち返ってほしいものである。なお、以下の雑文は、純然たる私見であって、(株)ラシーヌの見解ではないことを、あらためて明記しておく。

文化の退廃あるいは幼稚化?
 今春、イタリアのさる都でのこと。著名なレストラン・ガイドブックで高得点をむさぼる、レストランJ(仮名)をミラーノ市内に訪ねた。売りものにしている「ヴェジタリアン・コース」とやらを頼んだところ、一皿目の趣向に仰天してしまった。石や木の小片などの三点セットと、三点の小ポーション料理が卓上に供された、とご想像願いたい。たとえば客は、くだんの石片を見ながら、それに配された料理を食べるよう、求められるという具合。これは、なにかの見立てなのだろうか、と首をひねったが、しょせん解くべき謎など、あろうわけがない。(「女――秘密なきスフィンクス」といったのは、オスカー・ワイルドでしたっけ)。そういえばエル・ブリでは、ローズマリーの小枝を手渡され、「これを嗅ぎながら食べて下さい」という海老料理があって、「食べ方の強制」をされるよしだが(『美食進化論』辻芳樹/木村結子)、これはこれで理解できなくもない。が、石と料理の取り合わせは、懐石どころか見石料理とでもいうほかなく、たとえ和食のセンス、あるいは例の感覚交流美学(視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚などが響きあうこと。コレスポンダンス)を大胆に取り入れたにしても、明らかに料理の本筋から外れた、心得違いとしか思えない。たしかに、「濡れた小石」や「フリント臭」など、石にかこつけた風味やテクスチュアの表現がワインに与えられることはあるが、食べられないものと料理とを組み合わせることなど、烏滸の沙汰(おこのさた)である。

 ちなみに西洋料理では、《食べられないものを、皿の上に彩りとして副えてはいけない》という暗黙のルールがあって、テーブルの場合でも食事に不要なものはできるだけ卓上に上せない。この点では梅の小枝など、たとえ美しくても食べられない季節のものを皿に飾る日本料理の美意識もまた、西洋料理からすれば「おや?」、つまり料理の埒外なのだ。

 料理に似て非なるものを「ままごと」と呼ぶとすれば、児戯にも等しいままごと料理がレストランを侵すさまは、「文明の幼稚化」現象でなければ「文化からの逸脱」と見なくてはなるまい。

食という文化
 いささか大上段に振りかぶれば、文化“culture”とは、英語では“style of life”、つまり生活様式を指す言葉であって、いわゆる高級(ハイ・ブラウ)で洗練(ソフィスティケイト)された生き方だけを意味するわけではない。衣食住などあらゆる生活分野をつうじて、特定の社会や階層が体現している、共通で一貫性のある生活の様式である。からして、むろん文化に上下の位階はなく、あるのは質の差ということになる。

 そこで「食事」とは、食べるという原始的な本能の充足行為を、「文明の作法」にまで高めた知恵の産物であって、人類が築いてきた文化の基本的かつ重要な要素であること、いうまでもない。  巨視的に見れば、〈食糧の生産・保存・供給・消費という循環システム〉が、円滑に機能している社会は、「平和=戦争なき社会」とおなじく、残念ながら歴史上はむしろレア・ケースに属するとおぼしく、全体として人類はいまだに飢えを克服できていない。そういう状況があることを知りつつ、あるいは大問題に目をつぶったまま、飲食の悦びに耽ったり、これを論じたりすることは、例外的な時代と場所における、安逸な楽しみごとにすぎない、と心得てはいる。せめて渡邊一夫もどきに、食をめぐる『太平逸民問答』と、ありたいものである。

 たしかに現代では、食事が「必要」の域をこえて「欲望」に奉仕し、美食が特権階級だけの贅沢から、誰でも可能な楽しみごとに変わり、料理人が客の味覚を先導・強化する役割を担いすらする(『美食進化論』の要旨)という一面はあるにしても、地球規模でみれば明らかに、食は必要のレヴェルすら充たしていない。そこで、この国の食の質を問うならば、生産レヴェルでは怪しげな素材や産品が横行し、加工食品のいい加減な品質基準と偽装の問題があちこちで火を噴くかたわら、消費レヴェルでは美食情報がとびかって飽食の気配濃厚というありさまで、なにやら混沌とした様相を呈している。

 そのような大問題と国内の右往左往をよそに、美食はともかくとしても飲食の悦びに耽るのは、いくら私事とはいえ、いささか気が引けなくもない。が、だからといってその楽しみを自虐的に遠ざけるのも、小児病めいて可笑しい。まあ、飲食というロウ・ブラウな「口舌のアート」にもまた魅せられている筆者としては、せめてのこと、「感性なき享楽家」(マックス・ヴェーバー)にならないよう、自戒するしかあるまい。

 さて、当然ながら、食の流儀には地域・時代・階層による違いがあるにしろ、食の原点は、「なにを、どう食べて、生命を維持するか」にある。料理の飾り方などは所詮、「どのように料理を作って、おいしく食べるか」という次なる問題の、さらに下位概念である。つまりは、トータルな食の世界では基本的な諸条件がクリアーされた後にくる、枝葉の議論にすぎない。そこで、皿の上の凝った趣向や卓上を彩る飾りつけを、大げさに言えば、文明社会における余裕ないし遊びとみるか、それとも方向性を見失しなった社会における精神の退廃現象とみるか、である。ミニマリストの私は、後者の説にちかい。当方、ウマイモノにはめっぽう興味はあるものの、モノならば固体よりは液体と気体(なかでも気体のまじった液体であるシャンパーニュ)を好みながらも、モノよりはヒトあるいはヒトの精神、それも「精神の運動の軌跡」(石川淳)なぞに魅せられがちとくるから、本質から外れる余計なものには関心もなく、割くべき時間の余裕も持ち合わせない。あわよくば、“food for thought”「考えるべき事、思考の糧」に集中したいのだけれど、これは贅沢もいいところかもしれない。

飽食の病理
 そこで、いまや常識と化しかけている「楽しみとしての食」という観念、別の見方によれば、飽食の世界における快楽原理あるいは病理的な現象について、すこしだけ触れよう。

 思うに料理人が、やたら料理(皿)を飾りつけるだけにとどまらず、新しい料理のアイディアをひねり出そうと努めるのは、美しさや新しさを料理そのものよりも重視しているからなのだろうか。もしかしたら、新奇珍妙な着想をファッショナブルとでも勘違いしているのではないかしら。人は、料理人のアイディアを見たり、その産物を試食したりするために、わざわざ料理屋に来るわけではないはず。なのに、新しい動きを追い求めるフード・ジャーナリズムは、ある種の料理をまつりあげて神格化し、「創造的な料理人」を時代の英雄視しているかのよう。

ジャーナリズムにとっては、料理人のなかに英雄がいるのかもしれないし、いて欲しいことはわからないではないけれど。

 丸山真男先生から聞いた話では、ヘーゲルは「料理人の目に英雄はいない」と喝破したそうだ(こんなエピソードしか覚えていないのは、当方があまりに知的でなくて情けない。きっと先生は、こちらのレヴェルと関心事にあわせて、サーヴィス精神で教えてくれたのだろう)。英雄といえども、お抱えの料理人が作った皿を無邪気によろこんで食べる点では、凡人と変わらないからである。英雄と料理の関係はさておくとして、食べる側からすれば、天才的な料理人がいるにこしたことはないが、もともと料理作りに天才はいらないだろうし、だいいち、どんな世界でも、天才がうようよしているわけがない。天才信仰や英雄待望論は、「時代の精神」(ハズリット)の耗弱を表しているにすぎまい。

 ここらで英雄や天才にはご遠慮ねがうとして、現代の料理人が新奇珍妙を求めるとみえることは、どうやら上辺だけの現象にとどまらず、根あるいは病根は深そうだ。それらの背景には、斬新な調理技術と先進的な調理道具がスクラムを組むいっぽうで、欠落した味わいや増幅された味わいが招く歪んだ味覚と、単なる新奇を求める浅はかな観念とが野合する、というある種の潮流が認められるような気がする。その結果、量と勢いに欠ける見せ物めいた料理が世間に横行する、という病理めいた現象が生じるのだろうか。

 そこで、食べ手の問題に移れば、料理の作り手の珍奇な趣向を持てはやす、食べ手の方にもまた責任があることになる(ここで、政治家と選挙民のレヴェルは等しく、一方だけを「下劣」とけなすわけにはいかない、という関係を思い浮かべてもよい)。あるいは料理人以上に食べ手は、病膏肓におちいっていると見るべきかもしれない。曹植の詩にいう、豆と(豆を炊くのに用いられる)豆ガラとの間柄のようなもので、「もとこれ同根」なのである。

 ついでにいえば、このような加工と消費の両面におけるおかしな現象にもかかわらず、あるいはむしろ、その「病理」が正されなければならないがゆえに、生産の本源に立ち返ろうとする動きもまた、諸方面で活発なことは見逃せない。農業では福岡農法に見られるように、あくまでも自然で無作為な農業が実践され(参照:福岡正信『総括編 わら一本の革命』)、ワインでもまた栽培・醸造でビオロジックやバイオダイナミックの手法をふまえた、本格的でナチュラルな味わいのワインが内外で追求されるなど、生産者と消費者を巻き込んだ革新(すなわち原点回帰)の動きが広まりつつあることは、慶賀すべきことである。

調理とはプロセス管理
 およそ、実力を伴わない自己主張は、空回りした滑稽なものである。たとえば食器。ほんらい西洋料理においては、器は料理の引き立て役であるから、皿の自己主張が強すぎるのは、料理と食事の邪魔になること、自明の理であろう。料理人もまた、おなじ。料理人とは料理の主役のように見えて、じつは直接・間接に素材に関与しながら、料理が出来あがるようにもっていく、「縁の下の力持ち」のような存在である。料理を必要以上に複雑にしたり、まして自己主張のための手段(ダシ)にするとしたら、意味のない愚行か思い上がりであって、こういうものに食べ手が付き合う必要はさらさらない。

 ロラン・バルトも言うように、そもそも「料理とは変形可能な素材に働きかける行為である」が(『〈味覚の生理学〉を読む』)、より変形=加工のプロセスに立ち入れば、料理とは、用意した各種の素材を成形し、調味料の組合せと各種の熱の入れ方の手順を考えて、あとは熱と時間が仕事をしてくれるよう手際よくもっていく、いわば総合的な手配実行型の仕事なのである。つまり調理とは、広義の素材と調理技術と厨房機器を組み合わせ、熱と時間の関係を最適に配分するという、合目的的なプロセスなのであって、料理人は調理を成り立たせるプロセス管理者、つまりコーディネーターといっても過言ではない。

 とすれば、現今の料理人たるもの、調理場という舞台において、自意識ばかりが肥大した独裁的な演出家=主役にならないよう、自戒すべきであろう。ここで演出の機能とは本来、人と乗り物の衝突を防ぎながら捌き、流れのスムーズ化を図る、交通巡査のような役割(バランサー)にも等しい。

シェフの役割
 「世界の優れた建築家は、同時にまた優れた思想家でもある」ということをいま日本で実証しているのが、安藤忠雄氏。東京大学大学院でおこなった連続講演をもとにした『建築を語る』のなかで氏は、建築家の役割についてこう述べている。「建築家はしばしば、自分が設計したのだから自分一人で全部つくったのだと思い込みがちですが、しかし建築とは建築家一人でつくるものではなく、夢を共有できる建て主、設計をする人、工事をする人、それを使う人びと、それら全員による共同作業だと考えるべきです。」ここで、建築を料理、建築家をシェフと読みかえてもいいだろう。料理においてシェフもまた、ある重要な役割を果たし、レストランに貢献している一人にすぎない。

 ところが先にも述べたとおり、昨今ではなぜかシェフ族が英雄視され、マスコミなどで持て囃されすぎるきらいがあるが、「レストラン(ビジネス)における料理(シェフ)の役割は5割以下である」というのが、私が知っているレストラン・オーナー諸氏の通念のようです。つまり、レストラン・ビジネスにおいては、美味しい料理を供することは成功の必要条件ではあっても、十分条件ではないことになる。それにしても、水準以上の美味しい料理を出す店の数があまりに少ない、という美食家たちの嘆きは、いちがいに否定しきれないこともたしかです。

 上等なレストランにおける食事とは、ややこしい言い方をすれば、《客が料理/ワインとサーヴィスを享受しながら、特定の時間と空間を特権的に占有する行為》なのであって、客にとってもまた、「おいしさ」だけが満足の指標ではないはず。サーヴィス業全般について言えることだが、レストラン・ビジネスにおいても、総合的な「楽しさ」や「充実感」が満足度を規定し、ひるがえって店を評価する源泉になっている。その意味では、人間は贅沢な生き物であって、単に食べるために生きているわけではない。

 もっとも、外から見れば私など、ワインを選び、飲むために生きている老残の身にすぎないかもしれない。もって笑うべし。さあ、今日はここらで筆を捨てて、食事に出かけるとしようか。どこへ? いつもの店に決まっている!

料理のテロワール
 つまりは、料理においてテロワールをいかに実現したらよいか、という(フランス料理にも共通する)問題なのである。そこで我田引水すると、ラシーヌでは「テロワール」を客観的にモノとして実在するという立場をとらずに、テロワールとは「ワインに表現された風土と環境の個性」という言い方をしている。テロワールは具体的に目にも見えず、また、化学的な分析数値で表現できない。とすれば、ワインの中にテロワールを形成する、歴史的・文化的な風土がもたらす側面を、私たちは重視している。風土と環境を損なう化学肥料や除草剤・殺虫剤などの農薬や化学物質が、テロワールの敵であること、いうまでもない。

 ただし、歴史と文化が背景にあるワインの醸造という面では、料理人の技量と同じく、ワインの造り手が日々の判断の積み重ねをし、かつ表面的な人為をできるだけ排さなければ、テロワールを体現する優れたワインはできない。というよりは、テロワールが「生まれ出ない」。すなわち、ワインは技術や設備機器でもって作るものではなくて、自ずと生まれるものなのである。料理もまた同じであって、素材を活かして料理になるお手伝いをするのが、料理人の仕事であるという自説は、すでに述べた(エッセイvol.4)。そこで、料理のなかにいかにイタリアのテロワールをもたらすかが、イタリア料理人の技量なのである。イタリア料理とは、詮ずるところ、イタリアのテロワールを表現した料理としか、言いようがない。でも、はたして、これがイタリア料理の定義なのであろうか? もちろん、不充分であることは承知しているが、所詮、定義とはそんなもの。その点、スピノザの指摘は正しくて、定義しようとすればするほど、言葉は実態から離れて空回りをし、対象から生気を奪い、死に至らしめるのである。

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