2010.10 塚原 正章
唇が多すぎる?
唇について雑考をめぐらそうとすると、いやでも多くの唇に取り囲まれていることに、あらためて気づく。といっても私のばあいは、唇をモチーフにした作品という意味ですが。
たとえば、ニュージーランド航空の日本就航30周年記念広告(朝日新聞・8月31日付け)。スタッフ30人のキスマークに、その所有者(?)の職責・氏名・年齢とサインが添えられている。ボディコピーでは、「スタッフ一人一人が、温かいキスで皆様をお迎えします。そしていつか、今度はもっと近くでお会いしましょう。ニュージーランドへつながる、空の上で」と、ユーモアたっぷり。とりどりの色と形状、グロウの唇たちに、一瞬ドキッとさせられなくもない。が、写実的な表現が意外にも肉感性に走らないため、個人的にどの唇の持ち主とお近づきになりたいなどという怪しからぬ気持ちが起きないところが、かえって好ましいのかもしれない。そのような印象が、前回あげたA.ウォーホルの作品にも、今回のニュージーランド航空の広告にも共通するのは、「唇が多すぎる」からなのだろうか。(モーツアルトの作品について、「音符が多すぎる」といって後世の顰蹙をかった王侯は、誰でしたっけ?)。そういえば、先々週に訪れたレ・ドゥエ・テッレのセラーの柱には、タテに並んだ6つの可愛らしい唇の絵が無造作に描かれていたので、思わずニヤッとしたものでした。そう、どこもかしこも沢山の唇だらけなのです。
ワインと唇
さて、渋々ながら、本題にもどるとしよう。悪い癖(それとも、唇のせい?)で、前回もまた長談義をしてしまったが、今回は短くいきたい。唇に付着している唾液が、ワインの味わいに悪影響を与えるとすれば、「唾液が逆流しないようにするには、どうしたらよいだろうか?」というのが、先月の宿題、いや、問題の投げかけでした。その解のヒントは、スプーンでスープを飲むのと同じようにすればよい、ということです。つまり、唇を使って吸い取ろうとせずに、重力にまかせて自然に口の中に流し込めばよい。
だが、この重力原理だけで、唾液がグラスに逆流するのを完璧に防げるだろうか。そもそも唾液には、発ガン物質の「毒消し」を促すペルオキシダーゼという酵素が含まれていて、悪さのもととなる活性酸素を除去する大役を担っている。だから、これを味ならぬ目の敵にするのは間違いなのだが、グラスの中に紛れこんだ唾液とそれにまじった細菌類が、ワインの味わいに悪さをすることも確かなのだから、滑稽と映るかもしれないが、ここは厳格なまでに唾液対策をとろうではないか。
ワインは吸い取るべし
そのヒントは、ワインを吸い取ることである。「へんだぞ。さっき、ワインは吸わずに流し込めと言っていたじゃないか。もう矛盾している」などと揚げ足をとるなかれ。まったく矛盾していませんよ。ワインを口に流しいれる段階(ステップ1)では、吸ってはならず、重力にまかせるべきなのです。けれども、次にワイングラスを唇から離す段階(ステップ2)では、単に唇をグラスの端から離すのではなく、口の中に含まれたワインが唾液とともにグラス内へと逆流しないように、注意深く《軽く吸い取るようにしながら、グラスを口元から遠ざける》という二つの動作を同時におこなわなければならない。
こう書くと、なんだかややこしいような感じがするかもしれないけれど、実際はすごく簡単で、誰にでも実行できること請け合いです。最初のうちは吸うときに、ちょっと摩擦音のような音が出がちであるにしても、そのうちに上達して無音化できるはず。私にこの「吸い取り=グラス離し」のアイディアを教えてくださったのは、むかし仕事で親しくさせていただいた北大名誉教授の故・小幡弥太郎先生。ビールの「日向臭」を発見した功績のある化学者だけど、愛嬌があり、大きな鼻と鋭い嗅覚の持ちでした。そのうえ大変な物知りで、歴史と文学、文化に明るかったから、日本食文化に関する著作も少なくない。
小幡流の極意
あるとき先生は談笑のおり、こちらをからかい気味に「君、うまいビールの飲み方を知っているかい? 教えてやろう」という。むろん、ビール歴の少ない若造が、そんなことに通じているわけがない。御大は、①料亭や割烹で使うような、薄くて小ぶりなグラスを用い、グラスが空になるごとに次のグラスに替えること。②それが出来なければ(お大尽でもない限り、そんな真似ができるわけがない)、口中の唾が逆流しないよう、グラスから口元を離すとき、ビールの液体を吸い取るようにするんだ」と、のたまわった。飲み食いの執念にかけては先生に負けない私は、爾来この説を喧々服用することにして、それをワインに応用したというわけ。
それゆえ、わが持説にはまったく根拠がないわけではないから、この流儀を試してみて損はない。折角のワインの持ち味を損なわずに、最後の一滴まで美味しく飲み味わっていただきたい。もちろん、本来の酒質が劣っていたり、あるいは生来の持ち味が何かのせいで変質しているようなワインは、ご臨終も同然。飲み方の工夫などで、向上する余地はない。え、その怪しからぬワインの名前は、ですって? 物好きですね。どこにでもよく転がっているじゃありませんか。