唇は災いのもと

2010.09.01   塚原 正章

 口と唇

 このタイトルを見て、早合点される方が少なくないのではなかろうか――本当は、「口は災いのもと」なのに、変換ミスかな、などと。あるいは、「口ではなくて、筆(ペン)の間違いではなかろうか」と、皮肉る方もいるだろう。歯に衣着せずに思ったままを書きつける性癖があるので、筆禍を招かないよう注意しろという、温かい思し召しなのだろうか。でも、お生憎さま。口ではなく、唇でよいのです。

 でも、唇に触れる前に、やはり口について余談をちょいと。『論語・顔淵』に由来する、「『馬四』(し、馬扁に四)も舌に及ばず」という格言がある。いったん口にしたことは取り返しがつかないことを端的に述べたもので、失言したあといくら大急ぎで「し」(四頭立ての馬車)を仕立てて追いかけても、その言葉に追いついて撤回することはできない、という意味。たしかに誰しも、つい放言や失言をやらかしがちなものだが、その場の勢いでうっかり本音など漏らすと、言葉がひとり歩きして思わぬ方面に飛び火し、あとで自分が火の粉を被る始末になる。たしかに「もの言えば唇寒し」なのだが、さりとて嘘偽りでもって飾り立てるわけにはいかず、ましてご機嫌伺いの方便として「巧言令色」を弄するのは、こちらは大の苦手。ここはハムレットもどきに、「言葉、言葉、言葉」と呪文のように繰り返しながら、舌禍を慎むしかないのだろうか?

 唇からナイフ

 そろそろ口から本題の唇に返るとして、どうしても欠かせない脱線が、『唇からナイフ』。といっても、ナイフのように切れ味のよい唇という話ではなくて、原題を『モデスティ・ブレーズ』という、私のお気に入りの映画で、DVDでも入手可能です。ご存じかもしれないけど、この作品は気骨ある社会派の名監督ジョゼフ・ロージーが、当時の人気漫画をもとに脚色した抱腹絶倒のコメディ。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「ミューズ」と呼ばれた、わが愛しの女優モニカ・ヴィッティが女泥棒のモデスティ役で主演し、ダーク・ボガードとテレンス・スタンプが競演するという、贅沢な布陣でした。山口昌男さんと大岡昇平さんにとってのルイーズ・ブルックス(G.W.パプスト監督の『パンドラの箱』に主演し、撮影の合間に哲学書を読みふけっていたと伝えられる個性派女優)のようなもので、若き日の私はモニカに首ったけでした。つい先日、たまたま知り合った建築家がモニカの大ファンだったので、学生時代に戻ってモニカ談義に打ち興じたせいもあるけれど、私には唇というと、けだるい面持ちの美人女優、モニカ・ヴィッティでなくてはならないのです(ついでながら、もう一人の麗しきモニカは、トスカーナに聳える孤峰ジャンフランコ・ソルデラの愛嬢、モニカ・ソルデラさん。ソルデラ家を代表して、ワイナリーのマーケティングと経営に加わり、ときに父親譲りの芯の強さをみせる、立派な後継者の一員です)。

 本筋に返って唇女優(?)といえば、忘れてならないのがマリリン・モンロー(注。私はM.M.という頭文字に弱いらしい。たとえば、マルチェロ・マストロヤンニ、マリオ・マリーニと丸山真男)。つい先般もさるオークションで、彼女の胸部レントゲン写真が、高額で競り落とされたとかで、今もってモンローの肉体がファンの間で神話化されている。が、モンローの肖像写真で唇を強調し、とくに唇だけをポップアート化した作品として、アンディ・ウォーホルの多様なシルクスクリーン群を逸するわけにはいかない。モンローの没後、ただちに彼女のポートレートを大胆な色づかいで変容を加えてしつこく反復表現したウォーホルは、「セクシーなモンロー」という通念に挑み、楽しみながら意識的に反エロティックな表現にまでもっていったかのよう。ちなみにウォーホルは、「ボクは退屈なものが好きだ。まるっきり同じことが繰り返されるのが好きなんだ」と、うそぶいていたよしである。ともあれ、ウォーホルのファクトリーで量産された「モンロー」作品のなかでも、唇を5つずらして並べた作品(「君のキスを永遠に忘れない」)とか、唇をタテヨコ12×14(計168)個も並べつくした作品(「マリリン・モンローの唇」)は、唇フェチには見逃せないだろう。

 唇よりルージュ、あるいは口紅離れ

 そこで、本物の唇まわりの話に。およそ世の男どもは、異性の唇に魅力を感じるとされているが、じつのところリップの形状よりも、むしろリップスティックの効果に幻惑されているのかもしれない。そういえば、かつて化粧品メーカー各社は毎春、新人女性の入社シーズンの頃合いに、こぞってリップスティックを中心とした化粧品キャンペーンを繰りひろげたものである。が、ルージュが与える微妙な色調やテリ(グロー)、あるいは肉感(テクスチュア?)などの効果については、男性よりむしろ当の女性のほうが圧倒的に高い関心と確信があったようだ。そんな当時、私は広告代理店で某化粧品メーカーのマーケティングも担当していた。ある日クライアントから、「○○社の口紅は、秘かに使用禁止の成分を微量に混ぜて、あの輝きを出している」と聞いた。それじゃあ御社はと質したら、「だから、当社でもそれを使うことにした」との答えに、しばし唖然とした。そんなやり方がはたして、美を追求する女性の願いに奉仕すべき化粧品メーカーの仕事なのだろうか。

 だが当今、さしもの化粧品メーカーの影響力も衰えたとみえて、口紅を塗らない女性が世界中で増えているとか。『日経マガジン』2010年8月号によれば、カジュアルな服装や濃いめのアイメークに対するバランス感覚から、女性たちは口元の印象を弱めるメークに走り、口紅離れを加速させているらしい。唇を目立たせないために、口紅に代わって、色があまりつかないリップグロスが、唇を彩るようになったことに、現代女性の健全な時代感覚を読み取るべきである。

 いずれにせよ、我らワイン党からすれば、ワイングラスにルージュの跡がべったり、いや失礼、鮮やかに残るのは興ざめなだけに、脱口紅の傾向は大いに歓迎したい。かねがね私は、ルージュが味覚と嗅覚を妨げ、塗っている女性のワイン鑑定力を歪めかねないと案じていたが、それも無用になりつつあるわけ。だが、いまだに、ソペクサなどが主催する大規模な試飲会で、やたら脂粉の香りを放ちまくるご婦人が闊歩していたりして、真剣なテイスターが迷惑することも事実である。

 唇とワイン(「続編予告」のはずが…)

 おっと、いくらなんでも逸れっぱなしの漫談を切り上げて、ワインとの関係における唇の功罪を真面目に論じるとしよう。といっても、ここで唇の形を図案化したラベルのワインをあげつらうわけではない。ワインを飲むとき、唇がはたす役割について、若干の考察をしてみたいだけのこと。なのですが、いつもながら本論に入る前に、すでに文字数が増えすぎたようなので、続きは来月に回させていただきたい。今回もまた、ワインにはなんの足しにもならない、お粗末な唇談義(リップサーヴィス)でした。

 ……と書いたところで、編集の都合で原稿の締切日が1日延長という知らせがとどいた。ということは次回にまわさず、さっさと書き継げという思し召しなのだろう。けれども、シャンパーニュの生産者(ドノン&ルパージュのシャルル=シモン・ルパージュさん)が来日中なので、あまり想を練るいとまがない――という言い訳をして、ざっと構想だけを要約してお伝えしたい。

 唇の機能(おさらい)

  上下二枚の筋肉層からなる唇には、少なくとも開口・閉口、吸引・噴出という二項対立的な基本機能がある。ひらたく言えば、「口を開くこと」と「口を閉じること」、「口内を陰圧にして吸いとったり吸い付くこと」と「口内を加圧して、液体や気体を流出または噴出させること」をつうじ、あるいは組み合わせて、さまざまな高等かつ複雑な芸当が可能になる。

 そのよい例が(誰ですか、「キスだろう」なんて変な先読みしているのは?)言語活動、つまりは発声。いうまでもなく発声は、舌、歯(の根)と声帯、気道や鼻腔などを連動させた高級で迅速な意思的作用であって、唇だけの単独芸ではない。けれども読唇術が示すように、外形的な唇の動きと変化だけから、話者の発音が読み取れるくらい、発声時における唇の役割の大きさが推測できる。ここで、さらに立ち入って、言語(やキス)を論じる余裕と教養(経験)の蓄積があまりないので、さっそく唇とワインの関係に踏み込もう。

 唇とワイン

 飲食の際にはたす唇の役割はきわめて大きく、唇なしに飲食はほとんど不可能である。妙なたとえだが、マスクをしたままでは水も飲めず、食事もできないのと同じように、唇なしではおいしく飲み食いできない。としたら、私たちはもっと唇に関心をもってよいのだ。が、さりとて唇の効果だけでなく、功罪もまた論じなければ不公平である。

さて、じっさいにグラスからワインを飲むときのステップを考えてみよう。
ステップ1)グラスの外側上端に、下唇をぴったり付ける。
ステップ2)グラスの脚を持ち上げて、ワインを口の中に移す。

  ここで、ステップ1については、誰でも上手にできるし、ワインにとっても飲まれるための単なる準備動作だから、問題はない。つまり、この段階では、ワインという液体と、人体の粘膜は、まだ接触していない、という意味である。
問題は、ステップ2である。ここで、あえて「ワインを口の中に移す」と書いたのには理由がある。なぜ、単純に「飲む」と記さなかったのだろうか?

 スープとワイン

 そこで話を転じて、スープを飲むときのことをヒントにしたい。スープを「飲む」のは、フランス語ではスープを「食べる」と表現するのだが、上品なスープの食べ方もまた同じく、ステップ1とステップ2に分かれる。肝心なのは、スープを飲むときに音を立てないのが上品な「文明の作法」とされていること。そのためには、スープを「口で吸い取る」のではなくて、唇を支点にして、スプーンの端をゆっくりと円弧を描くようにして持ち上げること。そうすれば、引力の法則(つまりは重力)にしたがって、スプーンに浚いとられたスープは、自然に口の中に入ってくる。つまり、「吸い取る」必要がないから、唇とスープが接触して陰圧によって音を発することがなく、しかも動作が見た目に上品に映るのだ。いずれにせよ、ここで、吸い取らないことが秘訣なのだ。

 ひるがえって、ワインのステップ2を考えよう。ワインを吸うのか、口の中に流れいれる(落としこむ)のか、という問題である。わざわざ音を立てながらワインを飲む人は――試飲でわざと空気接触させる場合でもなければ――誰もいないだろう。いうまでもなく、下品とされるからだし、スプーンとグラスとでは用法が異なるからだ。

 ワインは飲むな?

 ここで、結論的に私がお勧めしたいのは、ワインをスープのようにして、口に流し込むという方法である。ずいぶんと可笑しなやり方だと思われるかもしれない。本当は、ここで原稿を打ち切り、「続きは来月」として、煙にまかれた読者に自分で理由を考えていただきたいところなのだ。少なくとも、数分は自力で考えてほしいなあ。

 しかし、まあ、あまり焦らしすぎるのもよろしくないので、私の解を披露しよう。 ワインを、口で吸い込まずに、重力を利用して口の中に自然に流し込むと、どうなるのか。ここで、流しいれる際に、ワインに唇が触れるか触れないか、という問題がおきる。飲み味わうという立場からすれば、唇がワインに瞬間的に触れることは、実用上の支障がないとみなすことができる。

 ワインのステップ3――問題提起

 ほんとうの問題は、ステップ3が生じることである。一口分だけ口に流しいれたあと、グラスの中に残ったワインになにか変化が起きはしないか。ヒントは、口の中にある液体。脚を持ってグラスを立てるとき、唇に触れたワインに唾液がまじって、大袈裟にいえば、口から唾液がグラスの中に逆流するという現象が起こる。そして、その「犯人」は唇なのだ。唇には(リップスティックは別としても)唾液がついており、口の中の雑菌すら付着しているおそれがある。唇からナイフではなくて、唇から唾なのです(「サメには歯がある……」なんていう、ブレヒト作『三文オペラ』の匕首マッキーの歌詞を思い出すなあ。口には唾があるのですぞ)。

 そこで、もし、唾液がワインに逆流したら、ワインの味はどうなるだろうか。自分の唾液が少しくらいワインに流れ込んだとしても、問題があるわけがない、と考えるのは、あまりにも無思慮というもの。ワインという液体は一般に、この上なくデリケートな文明の産物であり、ましてや《上出来な自然派ワインはとりわけデリケートであって、あらゆるものごとに敏感であるし、敏感に反応しやすい》というのが常識です。

 私の説に疑問があるのならば、じっさいに自分で唾液を掬いとって、ワインの中に混ぜてみればよい。はたして、どうなることやら。まあ、ワインに唾するようなものであって、私にはこんな実験をするまでもない。唇に付いた唾液が結果的にワインに混入して、ワインの味が変化し、「不味い」と感じとったからこそ、こういう問題提起をしているのですから。

 それでは、唾液が逆流しないようにするには、どうしたらよいだろうか? ヒントはすでに、このエッセイの中にたっぷりあるから、感のよい人はピンときたはず。いずれにせよ、答えは来月号のエッセイで。暑中ながら、ご健闘を祈ります。

▲ページのトップへ

トップ > ライブラリー > 塚原正章の連載コラム vol.38