ワインという幻想、または幻想としてのワイン

2010.08.03   塚原 正章

 まずは、恒例の言い訳から

 「明日できることは、今日するな」という、意表をつく言葉がある。たしか、アメリカの国民的な人喜劇俳優であった、故ウィル・ロジャースあたりの言葉だと思うが、本質的に無精者である私にとっては、これまたおおいにわが意を得たもの。そこで、勝手に座右の銘あつかいにしていたのだが、ビジネスの世界においてはこの流儀に問題がなくもない。

 ちなみに、世間知に通じる勝間和代さんによると、「ものごとを先延ばしにする人」に対して、コンサルタントのリタ・エメット氏は、「先延ばしにすると、余計に面倒になる」という法則をたてているとか(朝日新聞、2010.7.24)。原稿アップが遅れる常習犯で、井上ひさしさんばりに、2代目「遅筆堂」を名乗っている私にとって、まことに耳が痛いはなしだ。

 エメットの法則①によると、「仕事を先延ばしにするための労力は、その仕事を片付けるためのそれよりも大きい」よし。いかにもごもっともで、反論のしようがない。そのうえエメットは法則②で、「先延ばしする原因は、完璧をめざすことである」と、容赦なく追い太刀を浴びせる。この急所を突いた指摘には、(他人様からは「完璧主義者」とみられているようだが)じつは単なる無精の塊である私も、ぐうの音も出ない。

 ありていに言えば、これでも少しはましな原稿にしたてようとして日頃、材料集めのためと称して広く書物を漁り、締切り時間ぎりぎりになんとか駆け込みで入稿していた。ところが、このところわがレストラン・ビジネスの本格的なコンセプト・チェンジ作業に追われていて、睡眠すら満足にとれないしまつ。というわけで、私の本業であるラシーヌの仕事すらやや疎かになりがちで、ラシーヌ便りのための準備にまで手が回りかねるありさまだから、完璧を狙うどころの騒ぎではない。

 まあ、これまでの無精(というより、サボり)のたたりで、読書も原稿書きも覚束なくなってきただけのことで、これ以上言い訳を書き連ねることは無用のわざ。そこで今回は、日頃考えていることのスケッチでもって、文責を塞がせていただきたい。はたして、人はモノを所有できるのか、という問題についてである。

所有という幻想

 いわゆる私有財産に関して、もちろん私は否定論者ではないし、まして「人のものは私のもの」という泥棒の論理に与するものではない。財の生産・分配方式についても、私有制を排して共産主義的な方法をとるのが合理的だとも、思っていない。ただ、「所有」ということについて、ちょっとだけ考えてみたいのだ。

 誰でも、多かれ少なかれ個人的な所有物や思い出の品があって、住まいを飾り、生活を豊かにしている。普通、ある商品を購入したり、品物を贈与されたりすれば、その品は自分のものであり、所有物であると、誰しも当然のようにみなしている。でも、思うに、所有とは幻想ではないだろうか。というよりも、所有するとは、その品物を「所有者」が生存期間中にわたって、排他的に使用することができる、という使用権を指しているだけではなかろうか。じつは、このような説を、著者名は失念したが、さる実業家の論客がすでに述べていたはずである。

 「ボクは、君のものだよ」などという、比喩的な表現が通用している。けれども、人間をモノ扱いして所有権を設定することは、現代が奴隷制の時代でない以上、許されない。まあ、このような言いまわしを、なにもマルクスもどきに「人間の物心崇拝」と決めつけることは必要あるまい。が、人とモノの(所有)関係という固定観念が、人と人の関係にまで影響しているのは事実だろう。

 それはともかく、人間という動物は、あらゆる有用なモノを集めては組み立て、さまざまな機能を付与し、より便利で快適な暮らしに奉仕させることを求めている。個人でもってすべての有用な物資を集め、機能物を作りあげることは、時間的にも技術的にも無理だから、物資の交換という手法が生れた。あげく、アダム・スミスが述べたように、分業と協業によって生産性を高め、余りモノを市場に流通させて、必要な人が貨幣でもってそれを「購入」するという、巧妙な仕組み(マーケットと貨幣経済)が生れた。

所有とは、排他的な使用権

 そこで、あらためて問おう。人はモノを所有することが、本当にできるのだろうか。移動生活者でもないかぎり、「所有物」すべてを持ち歩くことはできないから、住まいなどの、他人が進入禁止領域に置いておくことになる。けれども、モノはそこ(身のまわり)にあるだけであって、それらを「所有」することとは、しょせん他人に使用させない権利が認められているだけのことじゃ、ないだろうか。

 人は通常、貨幣をつうじてモノを購入するという形でもって、さまざまな欲望や欲求を実現し、所有しているという甘美な観念に浸っているのにすぎない。サルトルの実存主義流にいえば、「存在は本質に先行する」わけで、モノには(神から)設定された「本質的な機能」があるわけでもなく、モノは価値の体現物である以前に、(観念を剥ぎとられた)単なる裸の物体(存在)でしかない。モノを所有しているという意識に、人はただ幻惑されているのだ。つまり、所有という幻想に惑わされているのだ。が、よく言うとおり、人は死んだら、金銭や身のまわり品(といった幻想)を持っていくことはかなわず、所有の世界から解放されるのだ。だからといって、借金を残して世を去ることを勧めているわけでもない。要は、死ぬまでもなく、所有という幻想から解放されて、いっそう自由になることが可能ではなかろうか、ということにつきる。

食物・飲料と、他のモノとの違い

 だが、モノ一般と、食物・飲料のたぐいは、同じくモノの世界に属するとはいえ、まったく性質が異なる。いうまでもなく、食物・飲料以外のモノは、ふつう飲食に適さないが、人は飲食物を摂取することによって、モノを体内に取り入れ、消化吸収して自分の身体の一部(あるいはカロリー源)としてしまう。つまり、タベモノ・ノミモノは口をつうじて、体内に摂取される過程で、モノとしての形態を失い、消失してしまう。かくして飲食こそ、「所有」していた食物と飲料を、体内に取り入れることによって、所有を身体(の一部)にする、というモノのメタモルフォーズ(変身)を完成する。だから、飲食物こそ、所有という一般的な観念にもっとも適合するモノである、ということができる。

ワインという幻想

  だが、視点をかえれば、食事という行動もまた、幻想に満ちている。たとえばワインを飲むとき、ワインに関する情報や観念を飲んでいるにひとしいことが多い。たとえば、どの地方産(例・ブルゴーニュ)の、どのアペラシオンを名乗る、どこ製(ドメーヌ××)のワインで、ヴィンテッジは○○年という(不)良年。造り手あるいはエノロゴは誰それで、ブドウ樹の仕立は何式、栽培法(化学肥料や農薬の使用とか)や醸造法(ステンレス製タンクで培養酵母使用、コンピュータによる温度コントロール方式)の産物で、某ワイン評論家が何点をつけたワインであるといったたぐいの、情報である。

  ワインについてあまりに枝葉末節な技術情報が氾濫し、情報通であることがあたかもワインを知っているかのように誤解したり、誤解されたりしている風潮が、目にあまる。この際、エラスムスをもじって、「その種の情報が、いったいワインそのものとどういう関係があるのか?」と啖呵を切りたくもなる。ワインにたいするまっとうな経験抜きで、ワイン情報をひたすら身につければつけるほど、結果的にワインそのものでなく、ワインに関する観念的な情報やイメージを服用するのに近くなる。つまり、そのワインを味わい楽しむのではなくて、ワインに関するイメージを飲むという、喜劇に近づいてしまう。

レストランの食事も幻想まみれ

 レストランでの食事もまた、イメージ摂取行動と遠くない。たとえば、レストランの選択。その店のシェフは、どこで学び、どの系列に属し、どの地方のどの店で修行したとか、レストラン評論家やレストラン情報誌、あるいはブログなどで高く評価されている、といった信頼度があやふやな情報でもって、選ばれることが少なくない。また、味わいの情報についても、似たような情報が吟味されずに誌面やインターネット、ブログに氾濫していることが多いから、ついひとは影響されがちになる。その結果、レストランにまつわる情報やイメージを、人はそれと知らずに食べていることが少なくないのだ。

  つまり、ワインやレストランでの飲食行為も、情報やイメージという事前に身につけた固定観念に欺かれ、自分を納得させていることが多いとすれば、これまた所有とは別の意味における幻想行動なのである。

  所有という観念=幻想と、飲食物という所有観念からは別質のモノの摂取における、幻想に満ちた飲食=幻想行動が、この世には横行しているのだ。『共産党宣言』冒頭の有名な一句をもじれば、「世界は所有という幻想で覆われている。飲食の世界もまた、情報やイメージにつきまとわれ、人は幻想を飲み食いしている」のだ。

おまけ:理想的なワインの蒐集・費消法

 本質的な意味では、ワインもまた永久に所有していることができず、ワインを飲むことによって逆説的に所有=費消を実現するしかないとしたら、いったいどうやってワインとつきあったらよいか、が次の問題である。ヒントは、アンドレ・シモンの流儀にある。かつてシャンパーニュの販売代理人として活躍したワイン界の大御所シモンは、独力でもって膨大な情報を集めてワインに関する事実と歴史を考究するかたわら、古典的なワイン書籍を蒐集して大判カタログを出版した。シモンはワインのコレクターでもあったが、それは飲むという健全な目的のためであって、大規模なパーティをロンドンのコーノート・ホテルなどで主催したものである。晩年のシモンは、賢明にも計画的にセラーの中身を減らしていき、没後にはわずか数本のワインしか、残されていなかったという。ワインのコレクター諸君、しょせん、あの世でワインの持ち込みパーティが開けない以上、飲み残しても意味がないから、早く飲むにかぎるのだ(お手伝いしましょうか?)。冗談はさておき、ワインは飲むためにあることを、シモンは身をもって示したわけである。

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