心に響くワイン

2010.07   塚原 正章

はじめに
今月の合田泰子の便りのなかに、「魂の深い」「心に響くワイン」という言葉が出てくる。このような殺し文句を使われると、嬉しさがつのるだけでなく、心おだやかではなくなる。ティエリー・アルマンや、人も知る「ある偉大な造り手H.J.」のワインについてならば、まことに無理からぬ表現であるが、魂と心を持ち出されると、こちらも気合を入れて、なにか書かざるをえなくなる心境におちいる。

 といっても、フランスから届いた盟友の原稿を見たのは、つい今しがたのこと。だから、こちらにはなんの用意も備えもない。ここは例によって、ぶっつけ本番でいくしかあるまい。いつもと同じじゃないか、ですって? いかにも、そのとおり。それじゃ、肩の力を抜いて、気楽に書いてみますか。ま、それもまた、いつもどおりなのだけれど……

パリで見つけた“reiki”
 まずは、フランスねたから。この春、パリで久しぶりに数時間(数日ではありません)の余裕ができたので、宿のあるオデオン近辺で古本探しに出かけた。なにせ、神田の古書店を自転車でまわる癖が、中学時代から骨がらみに身についているのだから、古本には目がない。で、いずれもカリフォルニアにちなんだ名前の、英文専門の古書店をすぐに2軒ばかり探り当てた。フランスでは、優れた英書の販売店や古書店の数はそう多くはない。なかでは『シェイクスピア&カンパニー』が老舗格で、よく通ったものだ。かつてはヘミングウェイなどパリ在住の英米文学者や無宿者の集い場であったのだが、今は見る影もないし、そこまで足を伸ばす暇はない。

 オデオンの近所で主に探したのは、オスカー・ワイルド、ジョン・ファウルズ(『魔術師』『フランス軍中尉の女』)、ジュリアン・バーンズ(『フロベールの鸚鵡』)などの、古典的な英文学作品や評伝のたぐい。だが、そこで、妙なペーパーバックを見つけた。“teach yourself”(自習)シリーズの一冊で、表紙には、上に向けた両掌(てのひら)に光が当たっている、やや不気味な写真。タイトルは“reiki”とある。まさか、霊気? いかにも。手から発するreikiによるヒーリング(hands‐on healing)の学習法であった。その本に接するまで、手を翳す療法、いわゆる「手当て」術があることは日本で聞き知っていたが、霊気療法が世界に広まっていることには無知であった。

霊気の運動は国際的
同書をパラパラめくると、やはり日本に起源があるらしい。19世紀末の同志社大学でキリスト教神学を講じた「ミカオ・ウスイ」教授が、キリストの癒し方を探るため、職を捨ててアメリカとインドに渡ったあと、日本の山中で孤独な修行のすえ、ふとしたことで手を翳すことが治療効果を発揮することを知ったとか。そのウスイ氏を助け、学び、引き継いだのが、もと海軍将校で貴族の「ハヤシ・チュウジロウ」医師で、東京・信濃町に診療所を開いた。そこの患者だったハワイ出身の「ハワヨ・タカタ」女史がこの術を身につけ、故地ハワイで22名の弟子を養成し、1980年に他界した。その高弟だったスウェーデン人でカナダ在住の「ワンジャ・トワン」女史が、タカタから“reiki”を学ぶ。ワンジャから「マスター」に指名されたのが、すなわち本書の著者であるイングランド人「サンディ・レア・シャフレー」女史であるとか。

 いやはや、受け売りだけの長い紹介になったが、“reiki”は実践的なエネルギー・システム利用法であって、健康で充実した人生をおくるために、手のひらを魂、心と肉体の問題ある各所に当てて、spirit(精神)なる「世界に満ちているエネルギーの力」を交流させるという、文字どおりの「手法」であるらしい。そこから、spirit, soul, emotion, mind, bodyの定義に踏み込むのは、一知半解の私の任ではないので遠慮するとして、もっと私たちに身近な、心と魂の議論はないだろうか。

気の科学、いまだし
 “reiki”の原点に返って考えれば、「この世界に遍在する無限のエネルギー(の力)」のことを、古来中国では「気」と呼んで、世界の説明原理としていたことに思い当たる。中国(医学)における気の思想(あるいは医療哲学)のおさらいをするのは、湯浅泰雄さんとか山田慶児、三浦國雄さんのような碩学にまかせるとしよう。

 気の存在を科学的に立証しようとする人たちは、非麻酔手術の効果とか機能実験(たとえば、気の当たった体表の温度分布図)などの話を持ち出しがちだが、いかにも無理が多い。その点、『「超能力」と「気」のなぞに挑む』(天外伺朗[科学技術評論家]、講談社ブルーバックス刊)は、ニューサイエンス(素粒子物理学)、深層心理学(ユンク、とりわけライヒの精神分析学)と東洋哲学の接点を探るという正統的にして大胆な手続きを踏みながら、〈宇宙のしくみ〉の根本原理に迫ろうとした、意欲作である。が、このヴィジョンをもってしても、著者が自認するとおり、「『気』と呼ばれる未知のエネルギーの正体」を明らかにできなかった。つまり、「『気』が存在すること。トレーニングにより、人間の発生する『気』を強くしたり、他人や植物の『気』に対する感受性を高められること(……)などなどは、ほぼ経験的に(あるいは数千年の歴史により)確かめられている」のに、既存の物理学の体系に照らしてどう説明できるのか、現在では見当がつかない」(要旨)と、率直に認めているのだ。

気の実用性―整体と共鳴
 正統的な科学方法論では、いまだに手つかずな「気」の存在立証をしようとするのは、もちろん私などの手にあまる難事であるから、避けるにしかず。ここでは、イギリス経験論風に、「ほぼ経験的に確かめられている」気の存在と効果、利用法に焦点を当てたほうが、手っ取り早い。そこで、私の推奨するのは、意外に思われるかもしれないが、整体の本である。故・野口晴哉氏が編み出した整体の技法は、いまでも日本の知識階層にファンが多いときくが、野口理論の基礎にあるのが、気の思想であり、気がおこす共鳴現象を利用した身体の癖と病の体操的な施療術である。この体系を踏まえてさらに現代世界への適応を図りながら、気の共鳴現象を深く追求したのが、『整体から見る気と身体』と『整体。共鳴からはじまる』(共にちくま文庫)の著者・片山洋次郎さんである。頭脳的な戦略家でもある片山氏は、「物理概念としてのエネルギーというよりは、身体感覚としてのエネルギーの充実・集中・発散・ながれといった体験的に感じられる」エネルギーとして、気的体感を論じている。それでよいのだ。

 その原理とし、目的とするのは、世界と共鳴する(言語的コミュニケーションではない)「気的コミュニケーション」である、という指摘は、鋭くかつ新鮮である。気は、単なる物質や情報ではなく、コミュニケーションであるとすれば、気的コミュニケーションは一方通行どころか交互の情報発信ですらなくて、同時におこり、発信・受信の区別がないから、相互主体における共鳴現象なのである。整体技の根本は、「誰かに対して気を合わせて、共鳴しようとすること」であり、すなわち「自分の中で意識と身体を共鳴させること」である。

音楽との共鳴作用
が、さらに氏は言う。「共鳴とはゆるやかな関係でありながら響き合い、独り以上の存在に高め合い、互いの『間』により大きな何かを生み出す関係である」と。これはもう、関係性の実践哲学ともいうべき域に達していると、私には思える。元来、人間には「体全体が発する波動があり、周りの人や生き物、モノの波動と干渉しあっている。(…)音楽が人を気持ち良くしたり、興奮させたり、リラックスさせたりするのは、体が音楽と共鳴するように反応するからである。(…)良い音楽は体の芯に共鳴し、体の中心を開くような感じがする。そして聞く人とその音楽との間に、双方の共鳴によるもう一つの『音楽』――響きが生れる」。いかにも、音楽論としてもポイントを衝いていると思える。

ワインとの気的コミュニケーション
そこで、遅まきながら、ようやく本題に返ることができる。この「音楽」を「ワイン」に置き換えてみればよいのだ。いうまでもなく、ワインは単なる物質でもないし、まして売らんかなの商品ではない。人と人とのコミュニケーションの手段でもない。カントの言葉ではないが、ワインを「手段としてではなくて、目的として遇すべきである」。
そもそもワインは本来、それ自体が感受性をそなえた生命体なのだ。残念ながら、世の中には、すでに「死に体」、すなわちビンに入った「死せる魂」状態であって、いかに手を施しても、生き返りようがないことが、少なからずある。誰のせいでそんな事態が生れたのかを、誰かが死んだワインに代わって追跡・追及してほしいものだ。テロワールの特徴を発揮すべきワインの多くが、ワインとは本質的に関係のない技術にまみれ、テロワールを体現しようがないほど、息も絶えだえの様相に追い込まれており、おまけに扱い方のせいで出荷時の姿とも縁遠くなっている始末ではないか。

しかし、そのような議論をしていては心が汚れ、ワインの喜びから乖離してしまう。だって、素晴らしいワインと共鳴し合えるような資質(波動)をもち、響きあえることが、ワインの最高の楽しみではなかったろうか。この心境こそ、「魂の深みに達し、心に響く」ということに他ならない。ずいぶん長々と引用を繰り返し、迂回してきたけれど、要するに言いたいことは、たったこれだけ。

ワインの響き、ワインとの共鳴
あなたは魂の深みに達するワイン、心に響くワインを召し上がっていますか。
そのような波動をもって生きている、潜在的な共鳴作用を備えたワインをお届けするのが、私たちラシーヌの使命でもあるのです。

さらにもう一度、問いなおしましょう。あなたご自身も、共鳴することができる波動を培っていますか? お互い、素晴らしいワインに見劣りしない、響きあう魂と心をいつまでも持っていたいものです。

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