本、ワイン&ワインセラー

2010.05.27   塚原 正章

本、あるいは整理下手の書痴の弁

 なによりも私の苦手とするところが、整理整頓である―ことは、ラシーヌの社員や友人ならば、みな知っている。その証拠に、わが狭からぬ机の上と周りは、書類や資料の山。大切な文書がどこに埋もれているのか、当の本人にもとんと判らないありさま。その蔭から、たまにひょっこり首を上げたり、身を細めるようにしてキーボードを叩いては、背を丸めてコンピュータのディスプレイに向かっている。もちろん、こんな体たらくで、いい仕事が出来るわけがない。そこで別室に、長大重厚な机とハロゲン・ランプを持ち込み、書類整理箱だけを置くことにした。が、はたしてこの状態がいつまで保たれるか、誰も知る由がない。

 もっと酷いのが、我が家である。横浜の外れにある陋屋は、書籍が山また山をなしている。住処にちなんで書斎名を、恐れ多くも「別館・金沢文庫」と称しているが、大地震に見舞われればまず、本で圧死を免れない。そこで、立花隆さんを真似して、仕事部屋を会社の近くに設けてみたが、これまた本尽くめ。何のための仕事部屋・兼・書斎なのか、判らないとくる。要するに、書物や資料という活字を、物心崇拝しているらしい。

 もちろん、インターネットという有難い手段があるから、既存の情報ならば瞬時に取り出すことができるし、海外の知人や友人とはe‐mailでやり取りができる。だから、メモリー容量さえ足りれば、いくらでも資料やデータは保存できるわけで、空間的な心配は無用ということになる。けれども、データは常に整理し、いつでも効率的に利用可能な状態にしておかなければ、使いものにならない。なんということはない、これが苦手だから、いくら高級なコンピュータなる武器があっても、あまり活用できないわけで、つまりは、整理整頓ができないという病から、逃れられない。としたら、あとは、一切の書籍や資料を廃棄して、シンプルに生きればよいのだが、読者諸賢がすでにご存知のとおり、学生時代からの書痴の宿命ゆえに、本から一生離れられそうにない。


ワイン、その美点をめぐって

 書籍と並んで、家庭で疎んじられがちなのが、ワインである。自分と本あるいはワインと、どちらが大切なのか、というとんでもない比較を持ち出し、それらが占める大いなる空間と費用を、目の敵にしがちなのだ。むろん、ワイン(あるいは本)好きの連れ合いに恵まれれば、ワイン(あるいは本)を邪険にされることはないだろう。が、世の奥方族はえてしてワイン、いや酒と酒飲みに好意的ではないようである。逆に、もしワイン好きな夫婦あるいはカップルならば、毎日ワイン浸りに明け暮れることになり、1本が2本、2本が3本という、どこやらのうるわしい臨界族になって昇天しねないから、なにが幸せだか一概には言えないけれど。

 ワインの美点は、「美味しいワインは美味しい」という(トートロジーめいた、しかしわかる人には切実にわかる)本質にあること、いうままでもない。ワインの欠点は、「美味しいワインが、あまりにも世の中に少ない」という現象なのだが、これまた再説するまでもない。ここで、先の人間と本(あるいはワイン)の比較とは違って、本とワインというモノどおしを比べるのは、リンゴとミカンの優劣を争うことのように、ある意味では無意味なのだが、意味のある比較ができなくもない。

 そういえばかつて、マット・クレイマーの訳書『ワインがわかる』のあとがきで、ワインよりも面白い本であると持ち上げたことがあった。どうやら私には、異種比較をする癖があるらしい。たとえば、もし、「イタリアワインとフランスワインのクオリティワインについて、両者に優劣の差があるわけではなくて、質やテロワールの違いしかない」、というとしたら、これは優等生か業界に気兼ねするワインライターの紋切り型にすぎまい。深く沈潜すれば、好みの域を超えて、あえて両者の優劣の大勢を論じることができるはず、というのが年来の自説である。

 転じて、好きなもの、たとえばワインについては、好きであるがゆえに、その建設的な批判をしなければならない、というのが、もう一つの持説。贔屓の引き倒しは、いけませんね。愛するが故の批判を、オーストラリアワインについて実行したのが、かのアンドリュー・ジェフォード。そのホームページでジェフォードはオーストラリアワインをめぐり、現状と国際的な評価、その国のワインライターの書きっぷりを論じ、ヒヤリングと分析にもとづいて率直な苦言を呈した、名レクチャー(“Falling in Love Again”「再び恋におちて」)を、全文公開している。日本ワインを贔屓にしている日本の業界とワインライター諸氏に、熟読玩味するよう、ぜひお勧めしたい。ワインの質の判定に、商売とナショナリズムやジャーナリズムの利害といった、本質的に無関係なものを持ち込むのは、かえって良くないということを、ジェフォードから学んでほしいものだ。


ワインセラー

 さて、ワインの物量という本題に戻ろう。さいわいワインは、飲んでしまえば空きびんを捨てるだけで、空間を支配することはない。とすれば、理想にちかいワイン倉庫に個人用ワインを預け、身辺には小振りでも熟成可能なワインセラーを置くのが、あらゆる意味でベターではないか、という仮説が生れる。

 かくして、書籍探しはさておくとして、わがワインセラー探索が始まった。要は、手元でワインを安眠させるために、日光や外気から遮断され、振動から守られた低温庫があればよいはず。なのだが、問題は金属で囲まれているワインセラーが常時、電磁波を発生する場になっているらしいと、気づいた。ことに、徹底的にビオロジックで造られ、SO2 がほとんど残留していないような良質な自然派ワインは、生きているも同然であって、人体と同じく電磁波の作用を受けやすいのではなかろうか。人間は夜間だけでも電磁波から逃れる工夫をすることができるが、電磁波を発生するセラーに閉じ込められたワインは、四六時中、電磁波にさらされていれば、変質を免れがたいことになる。同様な見解を持っている旧知の優れたワイン評論家もいる。彼は私以上に極端な理論家だから、既存の電気式ワインセラーを否定してやまない。そうなると、理想的なステレオ装置と同じく、家(あるいは地下室)ごと、ワインセラーにしてしまうしかない。が、じつは私は彼の説に与しない。なぜならば、私のささやかな実験によれば――つまり、セラーを購入して様子を観察した結果なのだが――電磁波が発生しにくいセラーがあるらしいのだ。まあ、この場で、これ以上踏み込むことは遠慮するとして、ワイン愛好家の諸氏諸嬢も、ワイン関係の業者方も、自ら実験して答えを見つけていただきたい、とだけいっておこう。

 えっ、無責任なおぼめかしじゃないか、ですって?日本語の特徴は「おぼめかし」なのだ、とかつて駿台予備校で現代日本語を担当した名講師、池上先生は仰っていたではありませんか。

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