2010.02.24 塚原 正章
1、ワインはアルコールでないこと
俗に、酒類を総称して、アルコールという。考えてみれば、不思議な呼び方ではないだろうか。アルコールが酒の主成分であるから、という説もある。たしかに、スピリッツで、アルコール度数50%を上回るという代物がないわけではない。けれども、そんなに高いアルコール度のものに飲みふけっていたら、(たとえ極北のロシアか中国に住んだとしても)ひたすら酔っ払うだけの人生になりかねない。そもそも、純粋のアルコールに近いような蒸留酒を常に飲んでいたら、ガン化を促すだけのこと。まして、相対的に酒に弱い日本人には、超高アルコール度の酒類は、しょせん無縁な飲み物である。およそ、純粋とは危険なものと、思い知るべきである。
それはさておき、もっと本質的な議論がある。いったい、酒の主成分はなんだろうか。話をワインにかぎると、ワインの主成分は物理的には水。たしか80%以上に達する(と、かつて岩野貞夫さんの『ワイン事典』で読んだ記憶がある)。いや、水以外の物質について主成分を論じるべし、という議論もありうる。この場合、主成分の定義を、「飲料の主たる風味の特徴を形成するもの」とすれば、アルコールよりもむしろ、エキス分――ワインをビーカーの中で加熱して残った乾溜物(ミネラル分など)の総重量――が、それに当たる。というのも、味わいと風味の特徴となる成分は、アルコール(甘みを感じさせはするが)ではなくて、エキス分のはずだから。
とまあ、例によって悪い癖で、《議論のための議論》めいてきたが、要するに、少なくともワインに話をかぎれば、エチル・アルコールをもってワインの主成分であると断ずるには、無理がある、ということ。かりに、(我らワイン党としては無論のこと、世界中でワインは酒類の代名詞でもあるから)、ワインが酒類代表であるならば、ワインをアルコールと呼ぶ根拠は乏しい。だいいち、私たちは、《ワイン風味抜きの》純粋なアルコールなんて、飲みたくもない。再説すれば、アルコールを含めて「およそ純粋なものほど、危険なのである。」もちろん、酒徒のなかには単に酔っ払うために飲む者もいるだろうし、歴史的な事実としては、古来日本酒は酔うための飲み物だったらしいし、19世紀のフランスでは、ワインは労働者のカロリー補給源であったわけで、ワインや酒類は必ずしも味わわれるためのものではなかったけれども。
さて本題に戻れば、理の当然として、ワインはアルコールと呼ぶのに相応しくない以上、単にワインあるいはブドウ酒と呼ぶべし。あまりに当たりまえの結論で気恥ずかしいけれど……。
ついでに言えば、シャンパーニュなどのスパークリング・ワインを、「泡もの」と呼ぶ習わしが、いつのまにか業界と消費者のあいだに広がっている。が、私はおよそ泡なるものが好みに合わなくて、泡を使った流行の料理は食べないか、いちいち泡を取り除いたり吹き飛ばして、食べることにしている。まさか、化学実験ではあるまいし。ひたすら、「泡よ、消え去れ!」と念じている。料理に泡を配しても、その売り物である微妙な風味よりは、奇妙な触感が気になるだけで、およそ居心地が悪い。そういえば余談ながら(全編、余談ではないかですって?)、スペインでは「泡料理の総本山」エルブジ(エルブリ)が、店をたたむという話が伝わっているが、まあ、私にとっては当然といおうか、どうでもよいのだ。いっそ、泡沫候補という言葉にならって、泡沫料理とか泡沫スパークリングという名称があったって、いいじゃないですか。あれ、悪口の言いっぱなしになっちゃった。
2、酒の作用あれこれ(前置きとして)
この国には、「酒を呑むと人格が変わる」とか、「酒に呑まれる」という表現がありますね。どちらの言い方も、酒(日本酒?)が人間に悪さをして、もちまえの人格を歪めてしまう《マイナス効果》についての警告でもある。が、それとは逆に、「『アルコール』は過度の緊張を解きほぐして、人間関係を円滑にする」とか、「酒は百薬の長」といった、人間の精神と肉体に対する《プラス効果》が、とりわけ愛飲家や業界サイドから、強く主張されている。ちなみに、タバコは人体にとって《マイナス効果》のみとされ、アルコール飲料とは対照的な扱いに価する。が、ともかく、タバコもアルコール飲料も、精神的な依存症を招きがちな点では困った共通性があるので、我らはここでも自戒しなくてはなるまい。
ともあれ、アルコール飲料が、程度の差こそあれ、プラス効果とマイナス効果の両面の作用があることは確実。だけれども、私がこれから述べたいと思うことは、これとはまったく違った話です。
3、ラシーヌのワインが、人生を変える?
どこやらの業界で流行中の自画自賛めいた話になるが、最近めぐり合った方々が、異口同音に次のようなことを述べられたのがとても印象に残っている。あえて文章にすれば、それらの方々は、なにかのご縁でラシーヌの扱っているワインを召し上がり、それが何回か続いたとご想像いただこう。結果、「ラシーヌ・マーク」の裏ラベルがついたワインを探しているご自分に気がついたとのこと。むろん、その逆のケースもあるだろうし、ワインとご自分のコンディションがともに整わなければ、美味しく感じられるわけがない。
それだけにとどまらず、このような(ラシーヌ扱いワインを選んで飲むという)習慣がいったん身に付くのと並行して、他の輸入ワインが飲めなくなってしまった、という直談だったのである。つまり、たとえていえば、ラシーヌのワインが、その方の味覚(あえていえば、判断基準)を変えてしまった気配なのだ。大袈裟にいえば、多少とも人生が変わってしまったといえなくもない。もし、こういう事実があるとすれば、その方にとっては大いに迷惑に違いない。少なくとも、罪作りな話ではある。
だが、はたして、ラシーヌ扱いのワインには、そのように「特殊な」依存症を生む作用があるのだろうか。少なくとも私たちは、依存症を招くような便利な物質を添加してはいない(冗談)。それどころか、できるだけSO2を含むあらゆる化学物質を、直接(セラーの中)または間接(畑の中)に用いないよう、生産者に働きかけている。とすれば、化学物質の含有量がきわめて少ないか、ときには皆無に近いという事実が、飲み手にそのような働きかけをするのかも知れない。いってみれば、《無の作用》なのだろうか。なにか、禅問答じみてしまったようだ。ネガティヴ物質が(少)ないことと、オリジナルなクオリティとコンディションが保たれているという、いわば《マイナス要因の不在》が、直ちにそのように作用するわけではなかろう。もしかしたら、たとえば「気」のような、なにかスピリチュアルなもの(スピリッツではない)が、ラシーヌ扱いのワインに作用しているのかも知れない(本気かいな?)。この件に関しては、あらためて考えてみたいので、いずれエルヴェ・ジュスタンとじっくり議論してみようと思っている。
さて、むしろ、一般のワイン愛好家には、そのような複雑な思考や思惑などなしに、いわば虚心坦懐に、つまり、「ワインとはどういうものであるはず」という、経験がらみの固定観念や過剰な期待感抜きで、飲み味わうよう、お奨めしたい。タブラ・ラサ(白紙)状態における純粋経験が、新しい味覚の世界を開眼させてくれるかもしれない。
ちなみに、かくいう私もまた、当然とはいえ、国内ではこのマークのついたワインしか飲めない身体になってしまったようだ。さあ、どうしよう? と今更いったところで、自己責任の問題でもあるし、もう、手の施しようがない。とすれば、日々せっせとそのワインを飲みながら、品質鑑定業にでもいそしむほかはない。
なんていうことはない、身近にあるワインに溺れ、がんじがらめになっているだけではないか、という悪口がどこかの筋から聞こえてくる。が、ひとことだけ言っておけば、私はラシーヌが取り扱っているワインを、むろん只で飲むような真似はしないから、自社扱いワインをせっせと買い、あるいは、コンディションに気をつけているどこかの店で、飲み味わっているという次第。
だから、このように、「酔っ払った認識」(マックス・ヴェーバー)にみちた、飲んだくれの戯言をひねりだすのだろう、ですって? まあ、当たらずといえども遠からず、かな。でも、およそ仕事でワインを扱ったり、売ったり、飲んだりしておられる方には、多かれ少なかれ、同じような言動がみられるのではありませんか、ねえ、ご同役?