ワイン通より人間通

2010.01.25   塚原 正章

人間通とは?

 口の悪いラ・ロシュフコー公爵によれば、「美徳とは、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」(『箴言録』)。かくも、寸鉄人を刺すような箴言を集大成した公爵の文集は、じつは陰謀や政争が渦を巻いていた17世紀フランスで、権力争いに敗れて失意の生活におちいった大貴族の、悲観的な人生観の産物でもあった。このように深く人間心理に通じて、典型的なポルトレ(肖像画)を描いた一群の文士は、フランスでは「モラリスト」と呼ばれ、17~18世紀の文学のひとつの流れを形成していた。あるいは、フランス文学の根底にあるのは、モラリストの資質である、とすら言うことができる。フランス文学、恐るべしである。人間心理の奥を見すえた、斜に構えた皮肉な表現に接すると、凡百の心理学や、高級なフロイト/ユンク流の精神分析学など、恐れるに足らない思いがしかねない。

 そこで、批評家の登場である。わが敬愛するフランスの批評家サント=ブーヴもまた、優れた人間通であった。彼のラ・ロシュフコー論もまた、心理の襞に分け入った分析である。サント・ブーヴは、ラ・ロシュフコーがしばしば愛用する「ほとんど常に」“presque toujours”という副詞句に注目して、次のように言う。ラ・ロシュフコーは相手の心臓に刃を突きつけながら、グッサリ刺しとおす前に、「一瞬、ためらった振りをする」。そのためらいの身振りを言葉にしたものが、「ほとんど常に」という副詞の挿入句である、と。これまた、心理を読みきった、なんとも穿った見方ではないか。

 このように、深い人間観察ができる作家と批評家は、同列のレヴェルにある優れた文士あるいは文学者であるといって、差しつかえない。このような人間観察力と無二の表現力を備えた文学者が、現代にどのくらいいるのか、やや心もとない気がする。そういえば、かつて批評家の江藤淳は、慶応大学での「文学概論」講義にあたって開口一番、次のように明快に定義して見せた。すなわち、「文学とは、人間について自ら発見したと思うことを述べた業(わざ)である。」その言や、善し、といいたいところだが、愛妻亡きあと生きる希望を失った江藤さんは、自死されてしまい、人間通がまたひとり減ってしまった。


ワイン通より人間通に

 いずれにせよ、私たちワインにかかわる者にしても、ワイン通であるより、なによりも人間通でありたいものである。なぜだろうか? ワインもまた、文学作品ほどではないが、人間的な産物であるからだ。だからこそ、人間通でなければ、ワイン通になることはできない、とまで言いきりたくなる。その理由を論じてみようか。


ワイン通はいない

 まず、ここでは「ワイン通」という言葉を、「ワイン・スノッブ」とは別の文脈でもって、ポジティヴな意味で使うことにする。最初のテーゼは、《本物のワイン通はいない》という逆説からはじまる。

 1、ワインという物質について、産地や製造方法、生産者と生産年代(ヴィンテッジ)という外形的な特徴と、ワインの味わいという官能的な特徴をきわめたとしても、はたしてそんなことが、ワイン通であるための要件であるのだろうか?

 2、そもそも、世界中のワインについて、以上のような事柄の最新事情や官能的特徴について、一個人が正確に理解し、記憶することができるだろうか? たとえ、ロバート・M・パーカーやジャンシス・ロビンソンにしても、そんなことが出来るわけがないことは明らかである。

 3、ワインの味わいは主観的なものであって、文学作品の味読や批評と同じように、唯一で共通の批評や判断というものはない。味わいの判断尺度に個人差や分化差があるとすれば、客観的な味覚評価は存在し得ない。

 4、ワイン教室は、ワイン通への早道ではない。仮にいくらかでもワイン通に近づくことができるとしたら、そのために既存のワイン教室の類いに通う必要はない。むろん「ワイン○○○○」などという資格は、資格授与者側にはメリットがあっても、授業料を払う生徒には、メリットがあるのだろうか。ある種のワイン教室やワイン学校、あるいは教科書的なテキストが説いていることは、マット・クレイマーが述べているように、ほとんどたわごとに過ぎない。とすれば、たわごとを覚えこんでも、ワイン通になれる保証は、まったくない。それどころか、へまをすれば、偏見や固定観念を植え付けられるだけである。

 5、もし、ワイン通になる(近づく)ことに意味があるとすれば、それは、ワインを自分なりに理解し、味わい楽しみ、生活のなかに位置づけるということだろうか。そのためには、自分なりの感覚判定尺度を鍛え上げなくてはならない。その尺度を洗練させようと思ったら、ワインのみならず、あらゆる官能的な分野(音楽・絵画・演劇・料理など五感のはたらくあらゆる分野)への関心と興味をもつこと。それが、ワインや料理という「人生のマイナー・アート」を豊かに楽しむための唯一の方法かもしれない。


中間的な結論

 すべてのワインを知る必要はないし、そんなことは不可能だとすれば、世にいる自称「ワイン通」は、部分的で偏った知識と経験しかない以上、せいぜいのところ、世人の平均以上にワインに慣れ親しんでいる者というだけの存在にすぎない。もちろん、その種の知識と経験を鼻にかけたり、有名ブランドワインの名前をひけらかす者がいるのは、ワイン以外の世界でも同じことであって、しょせん人間はそんなものとわりきるべきだろう。だからといって、むろん、愛すべきスノッブ諸君に、乾杯とまではいかない。が、もし本物のワイン批評家がいたとしての話だが、彼らからすれば批評の対象にすらならない問題外の「不味い」ワインであっても、これを「美味しい」と思い込んでいるワイン愛好家は、それを製造・輸入・販売・提供している業者にとってはお客様あるいは「飯の種」であって、ふかく感謝すべき存在である。皆が同じ知識と経験、味覚と判断尺度を持っていたとすれば、ごく一部の特定ワインに需要が集中し、価格はとびきり高騰してしまうのに反して、それ以外の(大多数の)ワインは見向きもされないことになってしまうから、ワイン市場が成り立たなくなってしまう。というわけで、知識・情報・価値判断 / 評価・味覚の極端な分散と、判断基準の欠如にたいして、ワイン界は感謝しなければならないことになる

 《本物のワイン通がいない》とすれば、人間通になる必要がない、ということになってしまう。が、ここで論理をもういっぺん逆転してみよう。私がいいたいのは「ワインを楽しむのに、ワイン通になる必要はない」し、そもそも、居もしないし成ることもできないワイン通になろうとすることを目指すことは不可能なのだから、ワイン愛好家は戦略を変えるべきなのだ。ワインのある人生を楽しめばよいし、自分の文化的・味覚的な尺度でもって「コンディションのよい、美味しくて優れたワイン」を見つけだして、味わい楽しめばよいのだ。そのためには、きらいな言葉を使えば「人間力」をあげること。

 私流に言えば、文化とは「スタイル・オヴ・ライフ」、つまり特定の地域や人々の「生活流儀」であるから、そういう自分(たち)流のスタイルを生きとおす人間になり、かつ「人間通」になれば、人間が造りだすあらゆる文化的な産物に多少とも通じ、したがってワインにもいささか通じることができるようになのではなかろうか。人間がワインを造って、資本主義社会で流通させ、購入・賞味するのだから、ワインに関わる人間がすることを見抜くことによって、理想とするワインに近づき、より良い状態で味わうことが可能になるはず。だからこそ、言っておこう。ワイン人を見抜きたまえ、と。これすなわち、人間通になることではなかろうか。

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