余禄 そして 余談

2009.12.25   塚原 正章

職業としてのワインビジネス?(マックス・ヴェーバー流の冗談)

 ワインとワインビジネスに関わっていると、《日頃から美味なワインにとりかこまれ、日夜、美酒三昧をしている》と、誤解されかねない。たしかに、だれしも麗しいワイン浸りの生活ができたら羨ましいような気がしかねない。が、そんな暮らしをしていたら健全なビジネスはおぼつかないし、だいいち身体がもつまい。少なくとも、ラシーヌのように常に原点に立ち返って前進を志す小体な会社を、共同運営していけなくなってしまう。

 むしろ、ワインとはビジネスとして関わりのない世界に住む、懐具合のよろしい方のほうが、美酒に浸っていられるのかもしれない。ま、同業者の方々とはほとんどお付合いがないので実情はわからないが、私にかんするかぎり、美味しいワインまみれの生活をしていないことは、たしかである。なぜだろうか? そのような誤解を解いてみるとしよう。

誤解・その1~「日頃から美味なワインにとりかこまれている」
《ワインは遍在すれど、わが身辺にあらず》

 まず、前半の誤解について。ワインと縁が長くて深いので、私の周りにワインはある。ことに、頭のなかはいつもワインで一杯。だが、「美味なワイン」となると、話は別である。プライヴェート・セラーのなかには、私の好きな――あるいは、かつて好きだった――ワインがこっそり眠っているが、その数はせいぜいのところ「100のオーダー」、それもごく低いほうでしかない。購入が消費に追いつかないせいもあるが、私がワイン・コレクターでないのが、主な理由だ。書庫など、住まいの至るところに散在している本の数が「10000のオーダー」であることからすると、どうやら私は、本ほど熱心にワインを集める努力をしていないのだ。

 他方、仕事として扱っているワインの種類(アイテム)と量は、小さなインポーターとしては少なくないだろう。が、それは、単価が(ボルドーやブルゴーニュなど一部の「高級酒」と較べれば)高くないので、本数が不相応に多いように見えるだけのこと。いずれにしろ、ラシーヌの販売用ワインは、全量が品川の寺田倉庫に預けてあり、オフィスでは商品を保管・出荷していないので、身の周りには到着直後の試飲用ワインや、比較参考用のワインしか置いてない。

 つまり、日常身辺が多くのワインに彩られているという事実はまったくない。ゆえに、生活時間の大半を占める執務時間中は、美酒を含むワインに包囲されてはいないし、わが住処にも多数のワインがあることはなく、身辺は寂しいかぎりである(本当かいな?)


《美味なるワインは、どこに?》

 だが、この職業に就いていれば、美味しいワインにめぐり合うチャンスは、ほかの品物やビジネスの場合よりも高いかもしれない。けれども、ありていに言えば、美味しいワインにありつくことは、そう、ざらにあるわけではない。その理由を詳しく述べるのは、これまたちょいと憚られるのだが、要するに、私にとって美味しいワインが至るところにあるわけではない、ということ。もっと言えば、世間で考えられているほど、美味しいワインが沢山はないと、私には思えて仕方がない。たとえば、仕事の参考用に内外で購うワインの本数は少なくないが、テイスティングしてみれば、そのうち美酒のカテゴリーに入れられるものは、ほとんどない。

 「それは、おまえの主観的な意見ではないか?」という反論が、ただちに予想されるから、あらかじめ断っておけば、「自分にとって」と「世間で考えられているほど」とのギャップが、とてつもなく大きいらしいのだ。

 「そんな逃げ口上は通用しない。そもそも、おまえの『美酒』観が問題なのだ」と、さらに突っ込まれかねない。けれども、ここで「美味しいワインとはなにか」を本格的に論じだしたらキリがないし、収拾がつかなくなる惧れがあるから、その件については稿をあらためたい。少なくとも、私たちラシーヌの、ワインに対する要求水準が高いことは疑いえないが、ビジネスの対象であるワインについては、今後とも妥協するつもりはないこと、言うまでもない。

 いずれにしても、私見によれば、ワイン全体に占める「美味しいワイン」の割合が、驚くほど低いだけでなく、評論家や自称専門家などから「美味しい」とされるワインのなかで、実際に飲み味わってしみじみと「旨いなあ」といえるワインが少ない、というのがわが偽らざる実感である。いつも言うように、だからといって諦めるのは早計。「求めよ、さらば、得られん」は真実であって、高い志と合理的なリサーチ、それにワインに即して味わいを判定できる味覚さえあれば、相対的に美味しいワインにめぐり合う確率は高い。


誤解・その2~「日夜、美食三昧をしている」

 思うに、ワインビジネスに就いているから美食の機会に恵まれるという因果関係は、業界外の人が羨むほどは無いだろう。逆に、美食を志向する者(食いしん坊)が、ワインビジネスを志向する、という傾向があるのかもしれない。要は、食いしん坊とワインとの親和性が高いだけのこと。だとすれば、私も食い意地の張ったほうだから、学生時代からワインに親しんできたらしい。

 が、そのことと、日常的に美食に浸っているということとは、別問題である。例によって、なぜかを詳しく書いている時間がもうなくなってしまったので、箇条書きにしよう。

 1、おいしいレストランの数が少ない。とすれば、美食にありつくチャンスが少ないことになる。

 2、日夜、美食に浸っていられる余裕がない。それは、ワインビジネス一般あるいは他人はいざしらず、私たちにそういう時間的な余裕が乏しいというだけかもしれない。

 3、美食よりも大切なことがある。それは個人的な価値観の問題だが、美味しい食事〈美味なワイン〈知的な世界と興味の対象〈人間―といった、価値のヒエラルヒー(序列)が抜きがたく私に内在しているからだろう。あえてオスカー・ワイルド流に表現すれば、「私は、ワインよりも人間に興味がある。なによりも、ワインのわかる人間に興味がある」ということだろうか。

 限りある時間と資力、限られた視力と思考力といった、有限な資源をいかに組み合わせて、最大限の価値の充足を図ったらよいのか。ご承知のように、これは誰にも共通し、しかも、自分でしか解けない問題なのである。

 だから、私は、日夜、美食に明け暮れるような生活をするわけがないのです。


思いがけない余禄

 だからといって、ワインビジネスがつまらない世界であるわけではないし、およそワイン(と人間)に関心がある人にとって、ここは無尽蔵なくらい豊かで未開発な世界だと、私は思っている。ワイン=美食という単純な図式あるいは固定観念を捨て去って、この世界に飛び込むだけの価値はある、とさえ私は見立てている。残念ながら現在までのところ、ワインとワイン関連業界は人材に乏しい、という実感は、先日も他の業界から来たワイン人と話し合ったときの、共通の結論であった。思考力(わけても「状況的な思考」ができること)と健全な判断力をそなえた、基礎的な能力と豊かな人間性をそなえた人材に、ワイン界(というよりラシーヌ)は期待するところ大である。

それはさておき、ワイン界に身をおいて、余禄に与ったことがないでもない。

1、ワインと近い世界にある商品(オリーヴオイルなどの食材)と触れ合うことができたこと。こちらが食いしん坊であれば、食事に見識が深いワイン生産者などと親しくなれるし、当然ながらグルメ情報が手に入るだけでなく、無名でも美味しいレストランで楽しめる機会が増えた

2、ワイン界でも、稀な個性と知性に恵まれた人物と知りあい、懇意になることができたこと。たとえば、マット・クレイマーやエルヴェ・ジェスタンである。このような無比の人物との出会が、私の人生を豊かにしてくれたことに、感謝しなくてはいけない。だが今年は、知性と個性が高いレヴェルでユニークに融合した同年の友テオバルド・カッペッラーノと、かつて同志も同然であったアルバート・スタンプという両人物を喪って、私の悲嘆は大きい。

3、ラシーヌのお客様との出会い。個別のワインに即して、自分の味覚と判断だけでワインを深く鋭く位置づけられる、実力あるワイン人に少なからず会えたことも、「予期せぬできごと」だった。このような方々の名前をここに記すのは遠慮するが、私は常に刺戟を与えられ続けている。

余談

 つい先日のこと、見知らぬ方からノエルのプレゼントをいただき、恐縮してしまった。じつは私はよくインターネット・オークションをつうじて、アンティークの家具やインテリア製品を入手しているのだが、このほどシンプルで品のよいジアン製の皿を落札した。到着した品物の封を切ったところ、ジアンの別のお皿が同封されていた。なんと、レストラン・タイユヴァンの1970年メニュがプリントされた絵皿であった。添えられた文章によれば、「いつも美味しいワインを飲ませていただいているお礼」とのこと。日頃ラシーヌのお客様であった出品者のKさんは、送付先の住所からこちらの身元を見破ってしまったらしい。私たちの仕事ぶりが、このような縁を生んでくれたことに、素直に喜ぶことにした次第である。

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