塚原正章の イタリア便り・続
~ワイン界の胎動が聞こえる~

2007.9.4   塚原 正章

【長い前置き】
 ワインの世界にある程度のめり込むと、つい事情通のような気になってしまう。周りからおだてられて「先生」に祭り上げられ、あげく、したり顔でご高説をのたまったりしがち。あたかも世界に知らざることなしという格好だが、そのじつ、どこかの誰かの説明を受け売りしているだけ。本当は、ご本人の頭の動きが止まっているだけかもしれない。ここは、ガリレオ・ガリレイ流に(といっても、ガリレオその人が実際に呟いたかどうかは別として)、「それでも(ワインの)世界は動いている」と、つい、洒落のめしてみたくなる。

 それはともかくとして、生産者をふくめてワインの世界は変転常なく、その一部をフォローするだけでも大変な労力を要するから、自分がその世界に通じているなどと増長することは笑止のかぎり。なんなら、ジャンシス・ロビンソンの『オクスフォード版ワイン事典』(第3版)をご覧になればよい。ワイン界随一の頭脳明晰なジャンシスをもってしても、独力でこの大著新版の編集作業に当たることを諦めたくらい。われら凡人には、この大判の隅々にまで目をとおして、世界の流れを理解するだけでも、まずもって不可能にちかい。まして、個別の生産者とワインのレヴェルでもって、自分で具体的な情報を集め、味わいを評価判断することは、いくらインターネットやワイン批評・情報があふれかえっていようと、至難のわざといってよい。だから、謙虚にならざるをえないのですね。

 よく、「ワインは難しい」というけれど、どのレヴェルで捉えようとするかによって、その当否は変わるはず。むろん、なに事につけても全てを理解することは不可能と割りきろう。そのうえで、J.S.ミルが述べたように「全てについてなに事かを知り、なに事かについて全てを知る」ことを心がける戦略を、ワインについて自分流にするしか、まあ、手はなかろう。要は、自分の関心と目的に即して、「なににどう迫るか」というアプローチ法を考えて実践するだけのことでしょう。

 そして、あるいは、だからこそ、自分にとって新しい事実や考えを――それがいかに小さなことであるにせよ――、しかも、自分で発見または着想したとき、その喜びは一入なのです。

【イタリア昨今】
 さて、前回の報告の続きに戻るとして、〈イタリアのワイン界は努力し、動きつづけている〉と、つくづく実感した。もっとも嬉しいことは、各地にみられる素晴らしい成果のかげで、沈思黙考と営々たる努力が積み重ねられているという事実に、繰り返しめぐり合ったこと。 たとえば、次のように……

【サンドローネと、畑のなかで邂逅】
 たまたまサンドローネのワイナリーを訪ねることになり、トリーノからタクシーで駆けた。が、バローロの村に入ると、いくらプロの運転手でもしょせん都会人だから、丘陵の合間をうねる畑地の勝手が、わからなくても仕方がない。そこで、午前中とはいえ猛暑のなか、とある斜面にあるブドウ畑の脇で、上半身裸で短パン姿をした農作業者に、サンドローネ邸への道を尋ねたところ、その人物がなんと当のルチアーノ・サンドローネ。

 そういえば、初めてカンヌビ・ボスキスの畑を訪ねてから、もう10余年が経っていて、すっかり地理を失念していた。互いに相手に気付き、1年ぶりの再会の挨拶をしたという次第。だが、(老ではないにしろ)大家が炎天下の畑のなか、厚い手袋をはめたほとんど裸姿でブドウの手入れをしているのには、魂消た。もっとも、本人は当たり前の仕事をしているだけ、という風情。この、「当然のことを、当然のようにする」ことの重要性を、私たちは忘れていることが多いのではないだろうか。いつも、ヴェローナかバローロの事務室か応接室、あるいはセラーの中で、ルチアーノとバーバラの父娘と話し合っていたので、つい、「畑の中でワインができる」という真理から遠くなっていたことを、反省したような次第。

 サンドローネといえば、すぐに当今の「ヴィッラもどきの超近代的な大セラー」のたたずまいと「モダンな味わい」、「高級なブランド・イメージ」を念頭に浮かべがちだけれど、実はルチアーノはとても研究熱心な生産者である。大規模なセラーは、重力の原理に忠実に従い、長い熟成期間を可能ならしめる貯蔵スペースをたっぷり整えたまでのこと。そういえば、数年前ヴェローナ近郊で催された、フランスを中心とする自然派ワインの展示試飲会場で、熱心に試飲しているルチアーノの姿を見かけた。早速、出しゃばりとは心得つつ、つい、試飲に値すると思われる生産者とワイン名を告げたところ、ルチアーノはそれらのワインを丁寧に試飲しては、フランス自然派ワインの美質に感嘆していた。

【若きカップルの、実験精神にとむブドウ畑】
 巨匠の畑姿だけでなく、若手ワイン人の気概とすでにして垣間見せた実力にもまた、大いに感心した。その場所はイタリア中部の内陸部で、ワイナリーの名は今のところ、L.C.とだけ。近々ワインが完成した暁には、正式にご紹介するとしよう。あいにく、まだブドウの木が若すぎて、自社畑産のワインを一本も造っていないのが現状。なのに、なぜL.C.の実力を確信しているのか。畑の設計・考え方と作業方法(多様な地形と地質にあった品種構成の模索と、そのための飽くなき実験)が説得的なだけでなく、同地区産の買いブドウによるワインが、既に気品を放っていたからです。若きワインメーカーのカップルは、フランスで醸造学を了えたあと、尊敬すべきワイナリー各所でみっちりスタジエしてからイタリアに戻り、念入りな畑造りに乗り出して、まだ数年にすぎない。けれども、彼らの評判は、優れた同業者のあいだですでに国境を越えている。

 これまた炎天下のなか、斜面を上下しながらの3時間におよぶ説明は、きつい日焼けのおまけ付きで、造り手の精神構造を余すところなく伝えてくれた。後にセラーと居宅で受けた画像つきの説明もまた、印象が深い。畑の開墾法(アルザスの畑造りの名人が現地で手ほどき)、独特な接木法(若木の「アイ」の切片を、瞬時のうちに巧みに台木に張り合わせて上から縄紐でしばるだけ)と、クローンの出所(たとえばサンジョヴェーゼは、ソルデラから分けてもらったよし)を補って考えれば、十分に将来が想像できる。はたして、小さなセラーで試飲したネゴシアンものは、澄んでいながら複雑な風味をかもし出していた。帰国後の試飲用に携えてきたネゴシアン製ワイン各種も興味深い出来ゆえ、今秋中にはこれらを少量ばかりご案内できる手筈である。

 若き才能とたゆまぬ努力が、確実に実りゆくさまに接して、イタリアワイン界の行く末がいっそう楽しみになってきた。と同時に、この仕事に関わりながら、個人的には、ワインというより、人生について考えることもまた多く、実り多き旅であった。

 エドアルド・ヴァレンティーニを偲びつつ、擱筆。

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