2009.11.26 塚原 正章
バーナード・ショーの言葉に、「信条を持たないのが、私の信条だ」という科白がある。これをもじれば私のばあい、「予定を立てないのが、私の予定だ」ということになる。とにかく計画性に乏しくて、未来はおろか、たいていは来月どころか来週の予定すら決まっていない。というわけで、今回も出発の四日まえ急に思い立って、フランス(シャンパーニュ)と、イタリア(ピエモンテ)に行くことにした。まあ、例年、11月末にはこのような行き先にほぼ決めているのだから、不意の思いつきというわけでもない。だが、むろん、アポイントメントなんか、事前にとりようがないから、出たとこ勝負にちかい無鉄砲さに変わりはない。
そこで困るのが、「ラシーヌ便り」の原稿である。むろん、多少の心づもりはあるから、いつも草稿くらいは用意してある。が、これがまったくの走り書きであるから、そのままお目にかけるわけにはいかない。その「積もりの中身」を、言い訳しながら紹介する手がないわけではないが、常習犯になりかねないから、また使うわけにもいかない。
それでも、今回の旅に関係がなくもないので、草稿のテーマだけでも、記すとしようか。
じつは、旧友のマイケル・エドワーズから、”THE FINEST WINES OF CHAMPAGNE” という力作の近著を贈っていただいた。が、前回のイタリア出張などの用事にかまけて、書評めいた紹介をするのを怠っていた。その罪滅ぼしとして、やや長文の記事を書いてみたが、内容が上滑りで意に満たないので、そのまま載せるのをためらっていた。マイケル(私たちは親近感をこめて「マイケルおじさん」と言い習わしているのだが、彼は私よりいくつか年下のはずである)のこの本は、彼の長年にわたるシャンパーニュ探索の、総決算である、といっても過言ではない。ある時期はシャンパーニュに住み込んで地道なフィールドワークに明け暮れていたのを私も知っていたし、だいぶ前のことだが、この地を彼の車で同道したとき、闇夜でも片隅の小道まで熟知しているので、驚愕したことがある。そのくらい、シャンパーニュは彼のホームグラウンドであり、愛情と意気込みの対象であり続けている。
だからして、近著がこの地とワインの、表面をなぞっただけでないことは、すでにお分かりいただけただろう。それだけではなく、マイケルは実に優れたテイスターであって、イギリス流の控え目な文章(understatement)も、いつもながら申し分がない。だから、そんじょそこらにある多くの類書とは、まったくわけが違う。しかも嬉しいことに、近著のポイントはまっとうにも、ワイン(作品)より造り手(作者)という人間に焦点を当てている。たとえばテロワールにしても、それをワインに写し取って表現するのは人間なのだから、人のとらえ方がつぼを得ていれば、これに勝る手法はない。結果的にマイケルは、ヨーロッパ(というよりもフランス)文学の伝統である、「ポルトレ」(肖像画)を鮮やかに描いてみせたことになる。おまけに、というか、もっと喜ばしいことに、そのポルトレである文章に、専門家(ジョン・ワイアント)による極上のポートレート写真が添えられている。たとえば、ジェローム・プレヴォーの写真が2点添えられているのだが、うち1点(暗闇の中でジェロームが樽に顔を近づけているさま)は、まるでジョルジュ・ド・ラトゥールの絵を思わせるような具合であるし、他の一点は思索家然としたジェロームのたたずまいを、よくとらえきっている。
このようにいうと、褒めすぎのように聞こえるかもしれないが、年来の友(マイケルもまた私をそう呼んでくれているのだが)の総集編に接すると、そのような感想がまず浮かぶのである。いってみれば、もし、私がこの地でフィールドワークを綿密におこない、テイスティングと英語表現の能力に恵まれていたとすれば、まさしく自分で書いてみたかったような作品である。
ここまで書けば、あとはある種の自己批評めいた感想が浮かばないでもない。つまり、これが自作であるとすれば、著者としては欠点や遺憾な点が皆無というわけではなかろう、ということ。だから、これは他人の策に対する批評ではなくて、いわば自分への批判として、同じワイン業界で似たような関心と対象への共感を有する私が、感じることを率直に述べてみよう。それは、現在の状況をほぼ正確につかんでいるのだが、ややシャンパーニュの世界の過去の流れを反映している気味があるのだ。といっても、序章は現在のシャンパーニュ(業界)がおかれている状況をぎりぎりの時点までフォローしていて、感心するほかはない。のだが、とりわけレコルタン・マニピュランの造り手の選択と評価の仕方について、すこしばかり物足りない思いがするのも、事実なのだ。
マイケルがネゴシアン・マニピュランと親しく、その理解が深いのは感心すべきことであるし、早くからマイケルがレコルタンに注目し、評価してきたことは、私もよく知っている。とりわけネゴシアンについては、冒頭に置かれたクリュグとシャルル・エドシックの長い描写(と思い出)は最上の出来栄えである。が、それに対し、レコルタン・マニピュランの動向のフォローの仕方は、こちらに力点をおくインポーターの私としてみれば、やや手薄な感を免れない。ミニスケールの畑で頑張っているだけでなく、ネゴシアンに勝るとも劣らない腕を上げている、素晴らしいレコルタンが続々と生まれていることを、マイケルは知らないはずがない。マイケルならば、少なくともその実感はあるはずだ。とすれば、この点は(本書の骨格にもかかわる問題ではあるが)、次回の改訂版に期待するとしようか。おそらく、江湖で市価を高めるくらい、この本はよくできているのだから。
というわけで、やはり、草稿をふまえたエッセイになってしまった。この本を片手にシャンパーニュ巡りをしていて、とても役に立っているのだから感謝しなければならないが、本書のカバーする範囲をこえた、大きなうねりがシャンパーニュに押し寄せていることを、ひしと感じざるをえない。シャンパーニュで初日を迎えた昨夜、エルヴェ・ジュスタンと膝をまじえて語り合ったあと、私はシャンパーニュの過去でなく、未来に思いを馳せざるを得ない。バラ色にかたどられた未来ではなく、根本的な変動と内外の競争が待ちうけている未来に。