ワイン批評について(続)

2009.10.28   塚原 正章

[苦しい弁明]

 竜頭蛇尾が、私のエッセイの癖であるらしい。出だしの問題設定はおおむね壮大なのに、総身に知恵がまわりかねる大男もどき。力足らずのために、結論部分がみすぼらしい体たらくに終わりがちとくる。恥ずかしながら前回の分を読み直してみれば案の定、その後半は詳しく述べる余裕がなく、駆け足で結論だけをとって付けたような按配。なんとも舌足らずな文章だったので、体系だった説明にはならないだろうが、アト・ランダムにすこし文意を補足してみたい。といっても、あくまでワイン批評(家)一般の傾向を論じる予定だし、日本の「批評家」にたいする率直な批評を期待されるとしたら、おあいにくさま。そんな時間つぶしをするくらいなら、まともなワインを飲んでいるほうが、ずっとマシじゃなかろうか。

1,本質論――ワインを批評することは可能か?

 アピキウス(同名のローマ人著者が複数いるらしい)このかた、料理のレシピーを集大成した書物は少なからずある。が、実用的な料理の域をこえた「グルメ・フード」や豪勢な料理/宴会となると、小説の体裁をとることが多い。「トルマルキオの饗宴」(『サチュリコン』の一節)とか『ガルガンチュアとパンタグリュエル』などのように。これは、ロラン・バルト流にいえば、日常食は肉体の《必要》に対応するが、グルメ・フードは《欲望》や《空想》に対応しているからなのだろう。いずれにせよ、実在と空想とをとわず、料理や食事という文化現象について、解説の域を超えて記述することは、文明批評という色彩を帯びざるを得ない。

 こと、食事の批評になれば、これは文化の基礎を論じるという大事に通じるのだが、フランスには世に知られるブリア=サヴァラン(『味覚の生理学』。アメリカの誇る名文家M.F.K.フィッシャー女史による英語訳もある)とか、奇人グリモ・ド・ラ・レニエール(邦訳『招客必携』)といった、その道の大先達がいる。彼らの、深遠にして博大な知識と透徹した見識、それにごく個人的な感慨を織り交ぜたオリジナルな文章は、いまなお現代の読者に示唆するところが大きい。

 ついでに言えば、『現代社会の神話』(完訳版はロラン・バルト著作集第3巻・みすず書房)でもって、「ワインとミルク」をふくむ食事や社会風俗現象を機知ゆたかに論じたバルトにも、『〈味覚の生理学〉を読む』(みすず書房)という洒落たブリア=サヴァラン論がある。これには、簡略版『味覚の生理学』の訳文もそえられているから、岩波文庫版(関根父娘訳)に飽き足らない者にはありがたい(付け加えれば、「ラシーヌはラシーヌ」という、トートロジーに関する一文もあります)。

 このように、料理とワイン(と料理哲学)をめぐって知的に論じることは、”人によっては”――これが大事なポイントなのだが――可能である、といってもよさそうだ。そういえば、文化人類学者では、料理(方法)の三角関係を図式化したクロード・レヴィ=ストロース以外にも、イギリスにはメアリー・ダグラス女史のような犀利な記号学者がいるし、日本では石毛直道さんのようなアジアの食に通じた先人がいる。

 とはいえ、これらの著者たちは、「どの店のどの料理」についての各論を述べたわけではなさそうであって、バルトにしてもモロッコのクスクス料理でスムール(粒状にした小麦の蒸しもの)に用いられる白バターに触れはしても、パリの特定のクスクス料理屋(たとえばラ・ターブル・ド・フェズ)などについて感想を述べ、議論をしているわけではない。

レストランの批評

 でも、タイヤ・メーカーが発行している、世界各国のレストラン批評なんかがあるじゃないか、という反論が予想される。が、たとえば『ギッド・ミシュラン』という名が示すとおり、これらは所詮、レストラン&ホテルのガイドブックと割り切るべきだろう。むろん、取り上げるに足るかどうかという判定と、選んだレストランに与える星の数は、判定者たちの味覚の水準(の高低)や見識(の有無)を露見しこそすれ、批評というような高級な代物、すなわち練達した知的作業がたやすく感じ取れるような、刺戟的な作品とはほど遠い。むしろ、かつてこの国でグルメ・ブームが花開いたころ、見田盛夫さんが優れた見識をメリハリのある文章で表現した、日本のレストラン評価本のほうが、よほど批評の名に値する。

 いまや、単行本や雑誌、インターネット(特にブログ)などで、レストラン情報は溢れかえって百花繚乱の体ではあるが、それらを当てにして店を選んで大失敗した方が多いことだろう。かくいう私も煮え湯を飲まされた一人だが、こういう惨めな失敗を減らすには、以前にも書いたように、自分の好みにあった(その意味で信頼できる)特定の書き手とその著作を選ぶしかない。情報はあくまで発信者が肝心なこと、いうまでもない。

 以上、くどくどしく述べたが、要するに食事と料理については、ストレートに論じるか、小説のようなフィクションの形をとるかは別として、高度な文明批評や学問的分析の対象になりうるが、個別のレストラン批評がたやすく成立するかどうか疑わしい。稀ながら、批評の芸を見せる少数の冴えた味覚と見識の持ち主が例外的にいる、ということだろうか。

2.ワインの批評

 そこで、ワインの批評が可能かどうか、という本論にはいる。もし、料理や食事について一種の批評が成立しうるとすれば、アナロジーとして、それらと近縁関係にあるワインもまた、批評の対象となりうることになる。が、同時に、個別のワインを論じて、批評の域に達するかどうかも、また難しそうだ。現実には、どのようなワイン批評が可能なのだろうか。あまり抽象的に論じてもしょうがないので、イタリアワインを例にとろう。

イタリアの場合
①ルイージ・ヴェロネッリ

 誰よりもまず、ルイージ・ヴェロネッリを忘れるわけにはいかない。先年惜しくも物故されたルイージは文芸批評畑の出身で、ワインと食事に見識を発揮した人物だった。眼光鋭く個性的な面構えをした当人を、何回かヴィニタリーで見かけたことはあるが、遠慮して話しかけなかったのが、今となっては悔しい。そのルイージは早くも1950年代にイタリアワインの問題点を、フランスワインとの対比において鋭く衝きながらも、その可能性を見通したヴィジョンを構築して、今日のイタリアワインを隆昌へと導いた。のちに彼が創設した出版社が毎年、ワイン・レストラン・ホテルなどに関する評価を添えたガイドブックを発行していることは、これまたご存知のとおり。だが、ワインガイドが網羅的であろうとすればするほど、個別ワインの批評と評価に紙数を割くことは難しい。ルイージには、自分の評価する特別なワインについて、ゆくりなく個性的な批評を残していただきたかった

 そこで、ワインの批評が可能かどうか、という本論にはいる。もし、料理や食事について一種の批評が成立しうるとすれば、アナロジーとして、それらと近縁関係にあるワインもまた、批評の対象となりうることになる。が、同時に、個別のワインを論じて、批評の域に達するかどうかも、また難しそうだ。現実には、どのようなワイン批評が可能なのだろうか。あまり抽象的に論じてもしょうがないので、イタリアワインを例にとろう。

②バートン・アンダーソン

 次に取り上げるべきライターは、『ヴィーノ』(1980年刊・未訳)でもってイタリアのワインの流れと有力な造り手を先んじて捉えたアメリカ人、バートン・アンダーソンだろう。ミッチェル・ビーズリー社から世に問うた労作『ワールド・アトラス・オヴ・イタリアンワイン』(未訳)と、同社の『ポケットブック版イタリアワイン』(邦訳あり)で、確固たる地位を築いた。単独でもって各州のイタリアワインを論じつくすことは、バートンだけにできた荒業であったが、「イタリアワインの読者マーケットが小さく、経費の点で出版社の手に余ったため、大掛かりな改定版をついに出せなかった」(本人談)のが、悔やまれる。けれども、イタリアの優れた食材12点についてバートンが著した『イタリア―味の原点を求めて』(合田・塚原訳、白水社)のなかで、ワインではただ一人エドアルド・ヴァレンティーニの人物像をフルスケールでもって描いてみせたのが印象的である。定評あるテイスティング能力でもって、微妙な味わいまでも的確に判定することができる「静かなアメリカ人」バートンこそ、オールラウンドなイタリアワインの批評家であろう。

③ワッサーマン夫妻vsエド&メアリー夫妻

 同じくアメリカ人に、『イタリアの高貴な赤ワイン』(未訳)と銘打った大冊を1985年に出版した、シェルドン&ワッサーマン夫妻がいた。ネッビオーロ、サンジョヴェーゼ、アリアーニコなどの主要な高貴品種別に、生産者とワインを詳しく評価して見せたし、その改訂版(1991年)は、今でも古酒について参考になる。いち早くテオバルド・カッペッラーノの実力を見抜いて評価したのは、慧眼な批評家というべきである。

 なお、アメリカのワインライター夫婦が著した優れたワインブックとしては、エド・マカーシー&メアりー・ユーイング=マリガンの「おしどりコンビ」による“Italian Wine for Dummies”(未訳)が、ユーザー・フレンドリーでお勧め。同じ夫妻による他の「ダミーズ・ワインシリーズ」(赤ワイン版&白ワイン版の2冊には邦訳あり)と共通するが、知る価値があるワイン情報が要領よく整理され、(コメントこそないが)定評あるワイナリー群が地域別に選ばれている。スノビズムやハッタリとは縁のない、アメリカ流のプラグマティズムに徹した実用書である。

④ニコラス・ベルフリッジ

 イギリス人では、文人ジャーナリストとして活躍した故シリル・レイが、流麗な文章でもってイタリアワインの啓蒙に寄与した。が、内容的には発刊当時からすでに物足らず、今となっては「イタリアのワイン・ルネッサンス」以前を象徴する骨董品でしかない。

 その点、イタリアワイン界の動きに焦点を合わせて『ランブルスコを超えて』(未訳)を著した、ニコラス・ベルフリッジの名を逸することはできない。『バローロからヴァルポリチェッラまで』『ブルネッロからジビッボまで』という2巻本(ともに未訳)は、力作ではあるが通読困難な資料集もどきときて、編集にもう一工夫あるべきだった。なお、本年9月には、『トスカーナとイタリア中部のワイン』(未見)を出版したばかりである。当のニコラスには、2ヶ月前にエトナのミロの町で催された「アルベレッロ仕立の過去と未来」に関するシンポジウムの際、サルヴォ・フォーティが催したパーティやツアーで何回も出会った。現在もイタリアワインの輸出ブローカー業を続けている由だが、批評家/ワインライターとワイン・ブローカーを兼ねること(イギリス人によくみられ、R.パーカーから批判されたビジネス形態)は、難しそうである。

⑤マット・クレイマー~翻訳批評的に論じる~

 ブルゴーニュとイタリアのワインをこよなく愛すのが、マット・クレイマー。その『イタリアワインがわかる』(2007年・刊)は、阿部秀司君によって今年めでたく翻訳された(白水社)。頭脳明晰な戦略家にして、テイスティングの能力と分析に優れるマットは、膨大なイタリアワインを正面攻撃するのは困難といさぎよく諦め、アメリカ国内で手に入りやすい、という意味でポピュラーなイタリアワインに的を絞ってゲリラ活動に徹し、目ぼしいワインを評価してみせた。なんとなれば、網羅的であろうとすれば、すべての(政治的に設けられた)アペラシオンに目を配り、(凡庸な)ワイン群にまで義務的に言及しなければならない。これこそ、長らくトスカーナの山中の田舎町に居を定めるバートン・アンダーソンが、労苦をものともせずに実現した、英雄的な方法だった。が、マットにとって、時間・費用・単独作業という現実的な条件のなかで、良心的に作業することは無理だし、人生にとっても経済的にもペイしない。とすれば、イタリアワインに対しては、ブルゴーニュともカリフォルニアとも違った作戦を取るほかない。一時期ピエモンテに移り住み、同地産ワインの思わぬ手強さにたじろいでピエモンテ料理の著述に転進したことがあるマットは、内心こう判断したに違いない。

 だから、アメリカの酒屋に数多く並ぶ見慣れぬイタリアワインに迷う買い手に対して、どのように選んだらよいかをアドヴァイスする兄貴役に徹して、気軽に初心者に語りかけ、自分ならばどうするか率直に打ち明けてみせた。

 翻訳は、そんなマットの心遣いを充分に汲みとりきれず、著者の不用意な誤りを訂正する労もとらない。ブドウ品種の発音が怪しいことが示唆しているように、イタリアワインへの愛情と、読者へのサーヴィス精神がもの足りない。今日この国のイタリアワイン好きは、ずいぶんと訳者の先を行っているのですぞ。また、訳文の調子は滑らかながら、ときに訳者好みの和文体におぼれがちで、やや重苦しさや古臭さが顔を覗かせるという具合だから、私見ではマットの意図的な軽い口語調にあまりふさわしくない。訳者の知友として、あえて苦言を呈したい。

総括

 イタリアワインを例にとって、並びなきテイスティング経験と判断力と文体を有する、真に実力ある過去または現在の「批評家」を恣意的に選び、寸評を加えてみた。

 ご覧のとおり、さまざまなアプローチ法があり、各ライターは自分の目的と対象となるワイン群に即して、得手な方法を探し鍛えてきた。ジャーナリスト感覚の鋭い者もいれば、文化的な視野が広くて生来の批評家魂にあふれる個性的な著者もいる。時代のなかで、産地の状況と勢力図も変われば、消費国やマーケット、愛好家のレヴェルと状況もまた異なるわけで、それらを両睨みしようと試みる者もいる。才気が横溢する頭脳家もいれば、愚直なまでにフィールドワークに徹するライターもいる。つまりは、批評家たらんとするのに、決まりきった王道はなくて、著者の力量と得意技の種類次第である。

 ただし、イタリアワインの特徴として――フランス以上に――注目すべきローカル品種の数も多く、地域的にカヴァーすべき範囲も広大で、しかも醸成は流動的で変転常なしとくるから、いまや単独のライターがすべてを網羅して執筆することは不可能にちかい。というわけで、最近では大出版社がバックになって、執筆者グループが組織的にテイスティングするパターンが目立つ。が、集団的なテイスティングと個性的な批評を両立させることは、方法的に無理がある。また、特定のワインブックについては評価が金で買われている(有料パブリシティ化している)との風評が絶えない。

 が、いずれにせよ、ワインのテイスター(誰でも自称テイスターを気取れるが、ソムリエもどきに風味の形容に終始する、無考えな「パブロフの犬」になりやすい)が、即ワインライターになれるわけではないし、ましてワイン批評家に格上げされるわけでもない。なによりもまず、物事を自分の目・鼻・口という感覚受容器をとおしてとらえ、その反応を適切でイメージ喚起力のある言葉に置き換え、総体としてのワインを自家製の評価軸(できたら二次元マップ)のうえにプロットし、見取り図を作って欲しいと願っている。感覚世界でも、比較的高度でハイブラウな芸術となじみやすいジャンル(文字や絵画などの視覚、音楽などの聴覚、)にくらべれば、より原始的でロウブラウな感覚(味覚、嗅覚、触覚)にかかわるワインや料理の世界では、その受容と判断を言語化するのは、(各感覚のあいだに)共通性が高いハイブラウな世界よりも、いっそう難しいことは自明である。

3.評価の一視点~作者(ワインメーカー)と作品(ワイン)の関係~

 ここで、批評の本質にかかわりかねない、ややこしい議論をしておこう。〈作者が上か、作品が上か〉という視点である。無類の人間通であった辰野隆が、かつて名言を吐いた。かいつまんで言えばとかく、作品を書いた直後の作家は、(力量があまり無いのに?)作品に全力投球するから、もぬけの殻にも近い状況におちいりがちだ。が、その例外が幸田露伴であって、露伴は書いた作品よりも人間が上であって、作品に盛り込みきれなかった学識や経験が山のようにあり、なによりも気力に溢れている。逆に言えば、露伴の場合、作品は著者の力量と実力のごく一部しか表していない。そのくらい、露伴は偉大なのだ、と。ここに、人物の評価と作品の評価(の関係)という、ややこしいが興味深い問題が浮かび上がる。

 書物についてだけでなく、ワインについても同じことが言える。ワイナリー巡りをしていると、明らかに作者がワインを上回るように感じることがあるのだ。私のささやかな経験では、テオバルド・カッペッラーノがそうだった。かのバローロ・ピエ・フランコ・ミケを飲み味わってすら、テオバルドのほうがワインよりも上の格にある、という実感がしてならなかった。むろん、人間と物質という違った世界に属するものを、比較考量などできるわけが無いのだが、ワインという物体のなかに、テオバルドの精神や魂、あるいは気というものが籠っているように感じてしまう。だから、テオバルドが世を去ったあとも、テオバルドが造ったワインを飲むと、「ねえ、君。僕のワインをどう思う? どのように楽しんでいるのかい。いや、ワインの話なんか、どうでもいい。人生について語ろうじゃないか」という肉声が聞こえてくるような気がする。

 作者の人物と作品が同格で、しかも同じくらい個性的でかつ高いレヴェルにあるという印象を受けたのが、エドアルド・ヴァレンティーニ。うねるような調子でワインについて述べた時のエドアルドには、なにか古代ローマ人の精神を思わせるような気迫が乗り移っていて、書斎で飲ませていただいたトレッビアーノ・ダブルッツォ(思わずお代わりのビンを所望してしまった)と共鳴しているような趣だった。

 作者よりも作品のほうが技術的な完成度が高い、と思わせるようなケースもしばしばあるが、それは造り手の人間性にかかわるので、名誉のために例を挙げるのをつつしもう。まあ、このような非常識な評価尺度を当てはめることによって、見えてくるものがあるかもしれない、というだけのこと。お前は人の器も劣り、書きものもつまらない、と言われそうなので、今回はここら辺で打ち止めとしようか。とりとめのない駄文に長らくお付き合いいただき、お疲れさまでした。

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