ワイン批評家の不在を歎く

2009.09.25   塚原 正章

評論家Y2

 吉田さんという、日本が誇る二人の名評論家がいる。いうまでもなく、故人の吉田健一さんと、ご健在な吉田秀和さんである。『ヨオロツパの世紀末』でもって、ユニークな文明観を独特な文体で展開した健一さんは、かつて銀座にあったフランス料理屋《胡椒亭》のカウンター席で、同業の先輩・河上徹太郎さんと同席されているのを、何回か見かけたことがある。吉田さんの話しの半ばは、朗らかで屈託のない笑い声で占められていた(ちなみに、残り時間の多くはワインを飲むのに費やされていた節があって、面倒な議論などは聞こえてこなかった)。吉田さんの「オ・ホ・ホ・ホ・ホ♪」という伝説的な笑い声ときたら、一度でも耳にしたらまず忘れようがない。ちなみに、ミュージカルのプロデューサーで文筆も巧みな安倍寧さんには、吉田さんの笑う姿と声を上品に模してみせるという芸がある。

 さて、もうお一人は、音楽評論家の吉田秀和さん。ちかごろめでたく94歳の誕生日を迎えられたが、いまなお現役として最高水準の批評活動を繰り広げられていることに、心から敬意を表したい。愛妻を亡くされたあと、吉田さんはしばらく執筆や放送などの活動から身を退かれたため、太陽が姿を隠したかのように日本の芸術評論が寂しくなった観がした。が、吉田さんはついに苦境を乗り越え、ながらく目と耳に馴染んだ例の吉田節でもって公的活動に復帰されていることを、数多い吉田ファンの一人として喜びたい。すでに触れたとおり、先日もよおされた加藤周一さんを偲ぶ会で、吉田さんは加藤さんの遺影に一礼したあと、ひょいと後ろに向きなおって集まった人々に諄々と語りかけ、加藤さんを(ディドロでなく、同時代のもう一人の大知識人)ヴォルテールに譬えたのであった。

慶祝・吉田秀和さん

 ところで、書評で定評のある毎日新聞が本年9月6日、この長老批評家にオマージュを捧げる意気込みで、「誕生日特集♪吉田秀和」と銘打って広い紙面をさいたことは、とかく世知辛い近年の快挙である。丸谷才一さんによる「この人、この3冊」欄が、あたかもその前奏曲のような形をとる。丸谷さんが、困りながらも嬉しそうな身振りで3冊に絞り込んでみせる芸を、読者はよろしく楽しむべきである。湯川豊さんの「軽々と運ばれる文章にのぞく芸術の深遠」は、西洋音楽を享受することにたいする吉田さんの根源的な問いかけと考察に焦点を合わせた、刺戟的な中間総括になっている。較べれば、堀江敏幸さんの「現実に言葉で加える『ちょっとした弾み』」は、大家の「考えつづける過程」に正しく注目してはいるものの、ややとおりいっぺんな紹介の感がしなくもない。「吉田秀和は音楽批評家である。」という出だしからして期待感が失せるだけでなく、文中、「吉田秀和」と「吉田さん」が混在するのは、書き手のスタンスが定まらないことを示唆していて、いささか鼻白む。


批評とはなにか?

 そこで、批評あるいは評論とはどういう頭脳活動なのか、あらためて検討してみたくなった。桑原武夫さんの論考に拠れば、この国では「創作」と「批評」が対立的な概念として扱われるだけでなく、批評は創作よりも劣るかのようにみなされている。それは、この国ではたとえば俳句が、(上手下手は別として)誰でも容易に詠むことが出来る文化的な風土であることと関係がある。このような市民的な創作が日常化していたのに対し、自分で創りもしない(できない)のに他人の作品を論じることはもってのほかだとされた――と、たしか桑原さんは述べていたように記憶する。

 巨峰サント・ブーヴに始まる、フランス文学における批評の位置と役割を熟知していた桑原さんは、高いレヴェルにおける創作と批評は、ともに優れた頭脳活動の産物であって、むしろ批評を創作の上に置いていた気配がある。私もまたこの意見に賛成する。優れた小説家にして批評家を兼ねていた、オスカー・ワイルドや大岡昇平、あるいは吉田健一さんを思い起こせば、このことはすぐにでも理解できる。そういえば、ワイルドの『ペン・ペンシル・ポイズン』という、吉田健一さんが激賞した批評の傑作は、学生時代からわが愛読書だった。思うに、ひそかにこれを種本にして引き写したのが、かの小林秀雄の処女評論(懸賞応募作)だった、というのが私の年来の持説だ。が、しかしまあ、そんなことはどうでもよい、とここは花田清輝もどきに転じて、本論に戻ろう。いずれにしても、批評が高度な創作活動であることは疑いなかろうが、高度な批評と芸のある書評がこの国にあまりにも少ないこともまた、残念ながら事実のようだ。(ついでにいえば、「芸のある書評」については、丸谷才一さんの書評論でたっぷり紹介されているし、丸谷さんの書評こそ『芸の見本帖』のようなものである)。


ワイン批評は、知性と感性の饗宴

 批評の要素として不可欠な、あらゆるものごとを疑う輝かしい知性が、マットの語る一言一句に感じられたのだ。それでは、あらためて「知性」とはなにか? ここは例によって、フォルスタッフもどきに「知性とは、言葉だ。言葉とはなにか? 空気だ」として、知性を空中に発散させるわけにはいかない。知性とは、自分でもって問題を発見し、見つけた問題に自己流の、しかし明晰な答を構想し、解決しようとする意志と能力である。知性が構想力の原因にして結果(証アカシ)であるとすれば、とかく構想力に欠けがちなこの国では、ワインに限らず、なにごとにつけても、批評活動が貧弱に陥りがちなのだろう。

 いっけん気の利いた言葉でもって事実の上っ面だけをなでる、これみよがしで軽薄な言動があるかと思えば、感想や実感に寄りかかるだけに終始していて、事物を言葉(じつは知性)で再構成して位置づける努力を放棄しているかのような、情けない言動が、ワイン界にも横行していると見うける。だからといって、感性をないがしろにしているのではない。知性の裏づけのない感性がワインに対峙したら、しょせん感覚形容詞を乱発するだけに終わってしまうのだ(どこかのソムリエや、ワイン教室の講師、あるいはワインライターのように)。

 もしもワインが批評の対象になるとしたらの話だが、評者のワイン観やヴィジョンを鮮明にし、判断基準を明示したうえで、取り上げるべきワインの出自を洗い、味覚でコンディションを確認するという手続きをへてから、初めて当のワインについて述べる資格がある、と私は思う。そこで、初めて感性の出番が来るのです。けれども、感覚受容器官がうけとめた反応を明確な言葉に移すのは、やはり知性なのですから、当たりまえながら両者をともに磨くことが必要なのですね。だから、知性と感性の饗宴が、ワイン批評という贅沢な遊びになるわけ。ちょっと、図式的に言いすぎたかな?


あなたの出番

 けれども、ここまで述べたことは、ワイン批評の前提を確認したにすぎないのです。そのあとの本論は、……これは、読者の皆さんが書いてみてくださることを、切に希望したいですね。「えっ、逃げ口上じゃないか」だって? まあ、本日いまの私には時間がこれ以上ないのも事実だけれども、まっとうなワインに関心のある誰もが、ワインの各論を当のワインに即して語っていただきたい、というのも本心なのです。

 おっと、「それが批評になっている自信がない」ですって? 最初から完成された批評活動ができる人なんて、いるはずがないでしょう。もともと、この国に優れたワイン批評が乏しいのだとしたら、その状況を救うのは、あなたなのです。お手本はほとんど無い、と自覚された上で、あなたのご健闘に期待しています。そして、書かれた批評を、こっそり私に教えてくださいな。愉しみを共にしたいので。

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