命名譚、
あるいはアリス・エ・オリヴィエ・ド・ムール
のアリゴテ酒について

2009.08.27   塚原 正章

 〈ネーミング〉という言葉は、なつかしい。かつて私が広告代理店で携わってきた〈マーケティング〉分野で、ネーミングは商品開発の一環として、〈ポジショニング〉や〈コンセプト・ワーク〉と並んで実務上、重要な位置を占めていたからだ。が、マーケティングのくだくだしい議論などは省略して、ネーミングにまつわる個人的な体験談でもするとしよう。

三題話①「ル・テロワール」

 私たち、合田と塚原が12年前に最初のインポーター会社を立ち上げたとき、むろん会社名は死活を制する重要な問題だった。そのとき、共同経営を担っていた合田泰子が、当時いち早くフランスにおける自然派のワインづくりに深い関心を抱き、優れた生産者とのネットワークつくりに邁進していた。そこで、いささか大胆ながら、「テロワール」という自然派のキーワードに「ル」を添えて「ル・テロワール」として会社名にすることを提案したという次第。その後、テロワールという一般名称がワイン界をにぎわせるにいたったので、やや面映い思いをしないでもなかったが、会社のフィロソフィーを示すコンセプチュアルな言葉として、このネーミングは間違っていなかったと、いまでも思っている。

三題話②「ラシーヌ」

 ル・テロワールを去って新たに会社を興すとき、やはり私は、コンセプチュアルなネーミングにしようと思った。テロワールを表現するワインは、土地の上質なブドウからしか生まれず、ブドウの樹は見えない地下の根(ラシーヌ)によって支えられている以上、根っ子が大事なんだという、自然派ワイン生産者の共通認識をふまえて、ラシーヌという名前を私は提案した。が、じつは理由はそれだけではない。

 カール・マルクスはかつて、「ラディカルであるとは、ものごとを根源(ラシーヌ)から捉えることである」とフランス語で述べていたことを、私は大学一年のときに聞き及んで、深く胸中にとどめていた。なんという美しい言葉だろうか。ラディカルとは、荒々しい暴力的行為ではなくて、本質を求める意志の表れなのである。真の意味で自分たちの歩みをはじめるにあたって、そのフランス語を想い出して企業名に被せたのは、ワインビジネスに対する「ラディカルな意志」(スーザン・ソンタグ)を表現したかったからである。つまり、「ラシーヌ」は、二重の意味、ダブル・ミーニングだったのである。念のため付け加えれば、大好きな『フェードル』を著した詩人劇作家ジャン・ラシーヌの名前が、そのときふと頭を過ぎらぬでもなかったが、そのラシーヌは単数形であって、当社とは綴りが違っている。


三題話③「ラ・グラディスカ」

 イタリアン・レストランを2年半前に西麻布で開くとき、私は好きな映画の主人公の役名を思い浮かべていた。いうまでもなく、フェデリコ・フェリーニ監督の名作『アマルコルド』で、年少の悪童どもの憧れの的であった女性の名前は、「グラディスカ」であった。演じたのは、マガリ・ノエル。彼女の真っ赤な衣装を今でも私は忘れない。さいわい、「グラディスカ」には「料理をお楽しみあれ」というイタリア語の意味もあったので、さっそく店名に借用した。だから店の壁には、ミラノのスカラ座近くで探した、アマルコルドの初演ポスターが掛かっている。いずれにせよ、これまた、ダブル・ミーニングであること、いうまでもない。私は多義的な表現が好きなのだ、とつくづく思う。

アリス・エ・オリヴィエ・ド・ムールのアリゴテ酒の名前は?

 シャブリ地区の端で、独り気を吐いている生産者が、アリス・エ・オリヴィエ・ド・ムールであることは、先刻ご承知のとおり。「文化の前衛は辺境の地から表れる」という、文化人類学の定石を実証しているのが、この若き二人組なのだ。彼らの作中でお買い得なのが、アリゴテ(Aligote)であることもまた、読者はご存知のはずだ。ところが、彼らの造るアリゴテ酒はあまりにユニークであって、世に横行するアルコール過多でエキスに乏しいアリゴテとは世界を異にするから、例によってAOC委員会からしょっちゅう「アリゴテを名乗ること、まかりならぬ」と命じられる始末。だが、そこはユーモアたっぷりのムール夫妻コンビだから、同音異義の「ア・リゴテ(A Ligoter)」(首に縄をかけて引っ張る)という名前をつけてしまった。ところが最近、これまたAOC委員会のお気に召さずときて、ふたたび使用禁止を命じられた。そこでコンビは、このワインを愛して支えてくれる日本市場に敬意を表して、似たような名前の「アリガトオ(A Ligato-o)」と命名してしたことを、近ごろ連絡してきた。

 このように日本語をワイン名にするいささか悪趣味な生産者がフランスにいなくもないが、格調のある彼らのアリゴテ酒に日本語名は不向きであるし、そもそも駄洒落は下品であるとして、私たちはその名前に賛成しない由を伝えた。賢い彼らは、すでにラベルを貼りおえて出荷ずみのアリゴテ酒を、瞬く間に輸出業者の倉庫から回収して、名前を付け替えることにし、私たちの意見を求めてきた。じっくり考える余裕など、むろんありはしない。

 そこで私が提案したのは「ア・レガリテ(A L'egalite)」。ご存知のとおり、フランス革命のスローガンは、「自由・平等・博愛」であって、「平等」はなかでも画期的な思想表現であった。ちなみに私の学生時代に敬愛したフランス革命時の思想家の一人は、平等主義者のバブーフである。この「人民の友」のことを思い起こしながら、アリゴテと音韻をほぼ共有する「ア・レガリテ」を、「平等にむけて」(平等に乾杯)という意味合いで私が提案したこと、いうまでもない。

 ワインは、万人がすべからく味わうことができる、じつに民主的な飲み物である。デモクラシーに乾杯、という気持ちを込めて、アリス・エ・オリヴィエ・ド・ムールのアリゴテを、ともに楽しみたいと思う。

 やれやれ、民主党政権の誕生を予期しながら、ついまた駄文を草してしまった。

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