艶消しな話

2009.07.27   塚原 正章

  ひいきの寿し屋に、これまたひいき筋のシャンパーニュを持ち込ませてもらった。オリヴィエ・コランのエクストラ・ブリュットだから、不味かろうわけがない。なにも、寿しに合うワインを探そうという(どこかのゴルフ好きなワインバーの主のような)魂胆ではなくて、この店(「寿し」という表記からして、どこだかお分かりになるはず)の上品で粋な寿しには、おっとりとした気品と余裕が持ち味であるオリヴィエ・コランに如くはない、と思ったまでのこと。それに、このシャンパーニュと寿しとの間柄は、すでに実験済みなので、問題はないのです。

 「こんなものしかなくて、すみません。折角のワインなのに、艶消しになってしまって」と、愛想のいい女将が頭を下げながら、ガラスのコップを用意してくださる(若い人のための、無くもがなの注。「艶消し」とはたとえば美人のオナラのようなもので、色気や興趣が失せること)。その用意された器は、いつもの分厚くて中背の、どっしりした広口クリスタルのグラスである。「トンデモナイ。これで充分です」と、こちらは本気でこたえる。カウンター席だけの小体なお店で、なじみの客がくつろいでいるとき、こちらが片隅でいただくシャンパーニュには、じつに申し分ないのだ。なぜかって? 広からぬカウンターのスペースでは、「目立たないこと」と「神経質な感じを与えないこと」が、必要条件なのです。ところが、レストランなどで通常もてはやされるワイングラスは、大ぶりで背も高いから、狭い和食のカウンターでは堂々としすぎて場所をふさぐ。おまけに、鉛を多くふくむ高級なクリスタルガラスは、薄手で輝きを発するから、金属製のカトラリーとは違和感がないが、白木や箸などの木の肌とはそぐわない。だからして、万事が控えめなガラスのコップのたぐいが、このような席では望ましいのですね。

 そんなグラスでは、ワインの味が充分に引き出せないのではないか、ですって? あなたは、根っからのワイン党なのですね。でも、私が寿し屋でワインをいただくのは、第一に日本酒が口に合わないから。もちろん、寿し屋でワインを飲むのは、テイスティングのためではなくって、主役である洗練された寿しとともに、その味を妨げない《控えめが身上》な引き立て役である旧知のワインを、ゆくりなく楽しむためなのです。

 カール・マルクスはかつて、「ラディカルであるとは、ものごとを根源(ラシーヌ)から捉えることである」とフランス語で述べていたことを、私は大学一年のときに聞き及んで、深く胸中にとどめていた。なんという美しい言葉だろうか。ラディカルとは、荒々しい暴力的行為ではなくて、本質を求める意志の表れなのである。真の意味で自分たちの歩みをはじめるにあたって、そのフランス語を想い出して企業名に被せたのは、ワインビジネスに対する「ラディカルな意志」(スーザン・ソンタグ)を表現したかったからである。つまり、「ラシーヌ」は、二重の意味、ダブル・ミーニングだったのである。念のため付け加えれば、大好きな『フェードル』を著した詩人劇作家ジャン・ラシーヌの名前が、そのときふと頭を過ぎらぬでもなかったが、そのラシーヌは単数形であって、当社とは綴りが違っている。


 そこで、たとえば凛としたシャルドネ酒は、自己主張が強すぎて、寿しどころか、和食一般、ひいては食事そのものに合いにくいという憾みが残ってしまう。のに対して、同じシャルドネを使っているとしても、上出来なRMシャンパーニュに話をかぎれば、スティルワインからワンクッションおいた懐の深さがあって、鋭さが表立たないから上品な和食にも合いやすい、という優れものなのです。なお、すし屋や割烹などでは、ボトルが大きすぎるのもワインの問題であって、できたら席の前(カウンターの内側)か、席の後ろ側に控えさせたいところ。味は劣っても、小瓶で我慢するのが、ダンディーなのでしょうか。

 というわけで、江戸文化の華である寿しと、ヨーロッパ文化の粋であるワインを、雑種文化が骨がらみの現代日本で満喫しようとするのなら、たとえばフランスならばやや厚手で小振りの光りすぎないグラス(バカラの1930年代製など。写真参照)か、国産なら趣のある江戸切子のガラス器でも、悪くないかもしれない。ここは、先日あの世に旅立たれた『雑種文化論』の著者、加藤周一さんのお考えをうかがってみたかったところだが、それはない物ねだりというもの。その加藤周一さんを送る会でのこと、吉田秀和さんは加藤さんを戦闘的な知性人ヴォルテールにたとえておられたが、同じ百科全書派なら私は、加藤さんを感性と知性がうるわしく相和したディドロになぞらえたいと思う(そういう私はむろん、ルソーやヴォルテールよりも、はるかにディドロ好きであって、『運命論者ジャック』は愛読書のひとつである)。そういえば、ディドロが編んだ大部の『百科全書』には、ガラスの製法に関する詳細な図解が載せられていて、現在この部分だけを複製にした大型の冊子が、パリの「ミュゼ・デ・ザール・デコラティフ」(装飾美術館。ルーブル美術館に隣接)に併設されたショップで売られている。

 ちなみに現在、国立新西洋美術館で催されているルネ・ラリック展では、ガラス工芸の美を極限まで追い求めたルネの、ジュエルリーから室内装飾品、はてはカーマスコットにいたる多彩な作品が、多くのオリジナル・デッサンとともに展示されていて、ガラス工芸に関心のある方は必見です。もっとも、かつてここでご紹介したことのある、ワイングラスのステム(脚)に艶消しの乳白色で女性の裸身を浮き彫りにした、持ちどころに困るラリックグラスは、あいにく展示されてはいない。そこで、参考までに写真を添えるとしましょう。さあ、寝苦しい夏の一夜に、グラスの持ちどころでもお考えくださいな。

(ラリック)

(バカラ)

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