わが意を得たり

2009.06.25   塚原 正章

 定期購読している雑誌は、ただ1冊だけで、その名を月刊『FACTA』という。ジャンルとしては経済情報誌に入るのだろう。店頭販売していないので、ご存じの方は少ないかもしれないが、鋭い筆力と確かな見通し(あるいは深読み)には、定評がある。反権威主義的、というよりは、アンコンヴェンショナル(慣例やしきたりにとらわれない行き方)で、権威から自由という、まさにジャーナリズムの本流を実践している、現代日本では稀な存在である。その一端は、インターネット版の“FACTA online”のフリーコンテンツで覗くことができるから、ぜひアクセスすることをお勧めしたい。

 さて、そのような離れ業を可能にしたのは、ひとえに編集長・阿部重夫氏の幅広い教養とユーモア感覚だろう。だから、本誌があつかう情報の範囲は、経済・社会だけでなくて、いわゆる文化面でも、ときに特筆に価する記事が登場する。最新号(2009年7月号)の無署名記事「『二流のピアニスト』だらけの日本」(PP60~61)が、まさしくそれに当たる。タイトルだけでも食指が動くが、読みすすむにつれて大いに共鳴し、はたと膝を打つ思いに駆られる。「よくぞ書いてくれた、あっぱれ」と、拍手喝采したい。

 タイトルの脇に添えられた要約文が、ライターの姿勢と判断力と趣味のよさを、端的に物語っている。いわく、「評論家も聴衆も甘すぎる。テクニックを極めるだけでは世界の一流に太刀打ちできない」。そのとおりだ。だから、というわけではないが、私のひいき筋は、マリア・ジョアオ・ピリスとホルショフスキーである。

 それはさておき、肝心の記事の論旨をていねいに追ってみよう。冒頭、筆者はチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で優勝した上原彩子を例にとって、彼女は『テクニック一流、音楽三流』という日本のピアノ界を体現する、といきなり切りだす。このピアニストがウィーンフィルと競演したモーツアルトのピアノ協奏曲を、演奏会で聴いた筆者は考える。「ハッキリ言ってあれはモーツアルトではない。ラフマニノフやチャイコフスキーをバリバリ弾くことしか知らないピアニストが、モーツアルトの『様式感』をまるで理解せず、音符だけをなぞった演奏」なのだ。一歩論を進めて筆者が問題とするのは「コンクールで優勝したての二十代の女性をスターダムに押し上げて一儲けをたくらむ輩、身内にやさしい音楽評論家や音楽ジャーナリズム、そしてそれに乗ってしまうわが国の聴衆のレベルである」。一刀両断するにとどまらず、返す刀でもって営利主義者や評論家・ジャーナリズムをなで斬りにする芸当には、ほとほと感心せざるを得ない。(第一の拍手!)


 かの筆者は、一般論として、日本人のピアノ演奏について、常に2種類の評価がなされるとする。つまり、『正確無比。難しい局もやすやすと弾きこなす技術がある』という評価と、『無味乾燥でつまらない。演奏家の個性が感じられない』という評価である。日本人好みの技術である、ハイフィンガー(「指を高く上げてストンと落とす」)奏法が行き着くところは、「ピアノ演奏をあたかもスポーツのように扱うこと」だ。

 しかし、技術が評価の最大の基準であるスポーツの世界と違って、「芸術の世界では技術はあくまで表現のための手段にすぎない」。テクニック至上主義に毒された日本人ピアニストが、難曲を速く正確に演奏するさまは、『指のアスリート大会』もどきである。よきかなや、筆者の喩えぶり(もう一度、拍手!)

 そのうえ、若いコンクール出場者が芸術性の評価にまで届かず、また、審査員の多くがピアノ教師で占められ、審査が細かい技術的なことに注意がいきがちとくる。ゆえに、日本人ピアニストがコンクールでよい成績を収めがちだが、それらの大半が「20歳をすぎるとただの人」になってしまう、という因果関係にまで筆者は踏み込む。オ・ラ・ラ!

 だからといって、賢明なる筆者は、これを西洋文明に接するのが遅かった日本の宿命とはしない。そういう例外的な日本人演奏家として、わが道を行く内田光子と高橋悠治の名を挙げて、芸術における「個性の勝負」という面の強いことを指摘する。結論的には、現在の日本のピアノ教育は、個性を圧殺しこそすれ、伸ばすことは決してしないばかりか、技術的な練習に明け暮れる子供を「つまらない人生」と「つまらない演奏」に導く、と言い切る。可哀想なのは、この子でござい、と言わんばかりの名調子に、あらためて喝采を送りたい。

 えっ?「引用だけが輝いている文章がある」(ホラティウス)と、モンテーニュの『エッセイ』にあったではないか、ですって?それは、そのとおりです。けれども、それほどまでにこの「『二流のピアニスト』だらけの日本」という記事が、鋭いのですね。さて、それでは、長すぎる引用と紹介から、私がなにを言いたいのか、読者はもうお判りのはずです。

 ピアノをワインに置き換えれば、ほとんど見事なまでに、日本をふくめた世界のワイン界の現状が、ここに鋭く深くえぐり取られているとしか思えません。生産者、インポーター、販売者、批評家・ジャーナリズム、飲み手からなる日本のワイン界の構図もまた、日本のピアノ界と無縁ではないのですね。ま、いずれ、「二流のワインだらけの日本」というエッセイでも、書くとしましょうか。

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