2009.05.25 塚原 正章
今月号の「エッセイ」は、私のことを知っている人ならばタイトルを見ただけで内容の見当がつき、クスクスと笑い出すことだろう。が、大方の読者にとっては、こんな駄洒落のごとき題名は無意味であって、そもそも私の好みになど興味はなかろうから、およそ理解不能のはず。だからそれを説明する、という野暮な文章を書くことになりますが、まあ、おつきあい下さいな。
はからずもフランスに足止めされて
まずは、近況の報告から。今年の5月上旬、フランス経由でスペインに行く予定だった。が、フランス入りしたあとで、新型インフルエンザとやらがスペインで猖蕨をきわめているとの情報。そこで、大事をとってスペイン行きを急遽取りやめたので、思いがけずフランスに延べ10日あまり滞在することになった。おかげで、スペインワインの新動向こそつかみ損なったものの、フランス各地で開かれる意欲的な小型のワイン試飲会に参加したり、生産者を歴訪したりする時間が増えたし、ブルゴーニュを再往復することができたわけで、思いのほか充実した日々がすごせた。なかでも嬉しかったのは、ユーニス・フリード女史が20年以上も前に著した“BURGUNDY”という、ワイン人の実録レポートを通じて知っていた、あるチャーミングな女性にお会いできたことだった。が、そのことと次第については、また別の機会に触れさせていただこう。
人は、仕事のみに生きるにあらず。というわけで、私が食事にも精を出したこと、言うまでもない。今回設定した個人的なテーマは、フランス以外の料理探訪である。むろん、フランスでフランス料理を積極的に避ける理由はまったくないから、たとえばボーヌでは、休日が多くて席がとりにくい《マ・キュイジーヌ》を繰り返し訪れて、実質的で感動的なブルゴーニュ料理にありついた。パリでは《シェ・ラミ・ジャン》で、内臓の火のとおし加減が絶妙なウサギ料理にお目にかかって、感嘆久しくすることになった。けれども今回、フランス料理以外に的を絞ったのには、わけがある。
いま話題のギリシャのワインと料理
その鍵は、ギリシャ。私たちは昨年から、ギリシャワインに大いに注目し、認識を新たにしているところ。松脂の香りのするレチナ・ワインは、どうやら過去の産物とおぼしいし、新樽や人工的な風味で装ったワールドワインの類だけが、ギリシャで幅を利かせているわけではない。という経緯で、すでに数人の生産者のワインが、イオニア海から日本に向かいつつある。
ギリシャは、ワインだけが新機軸なのではなくて、料理もまた近年、刮目すべき水準にあると、聞き及んだ。パリの街角の至るところで目につく、お手軽なケバブ料理(羊肉の練り物をグルグルと回し焼きにして、スライスして出す)だけが、ギリシャ料理なのではあるまい。
まあ、考えてみればこれは当たりまえの話であって、ワインだけが独り抜きん出るわけがない。ギリシャ政府も観光だけでなく、洗練されたギリシャ料理にスポットライトを当てるという具合で、売り込みに熱が入っている。パリに、そういう洒落たギリシャ・レストランやビストロがあるという情報や体験談が、ひそかに耳に入ったので、これ幸いとばかり、忍び込むことにした。
噂にたがわず、特にビストロは大人気で、《エヴィ・エヴァン》などは予約なしではなかなか席が取れない。けれども、そこを切り盛りしているギリシャ女性(マリア・ニコラウさん)とお馴染みになっているラシーヌのもう一人の経営者が合図をしたら、運よく席をつくってもらえた。名物の前菜の盛り合わせは、小皿が6品。いずれも香りが高いだけでなく、味が澄んで深い。ワインは、選択もコンディションも良くて、文句のつけようがない。なるほど、そういうわけか。となったら、話は早い。夜だけでなく、遅い昼のランチにも顔を出したりしていたら、面白い催しに誘われた。ギリシャから彼女のお姉さんが来て、コルドン・ブルーで2時間あまりの特別プレゼンテーションをするから、おいでという。こちらはパリの料理学校に入ったことはなかったので、これ幸いと潜り込むことにした。
先生は、ギリシャの人気料理人・兼・料理指導者にして、テレビCMでも活躍中という、美人マルチ・タレントのディーナ・ニコラウさん。ギリシャ語とフランス語の著作もある。マリアは20人弱の熱心な生徒たちを前にし、コルドン・ブルーの豊富なアシスタント陣のサポートを得て、手際よく4品の料理法を実演してみせた。なかでも、水を加えないで火をとおす蛸料理は優しい味わいがじわっと口中に広がるという、ヨーロッパではなかなかお目にかかれない佳品であった。
さて、ギリシャ料理だけが、今回の狙いではない。スペインに行きそびれたので、パリ一との定評がある《フォゴン》で、古いスペインワインとともに、山と海のパエジャを2回に分けてつついた。あるいは、パリでもっともワインリストが整っているというイタリア料理店を、抜かりなく訪れもした(リストは東京の優れた専門店よりも劣っていたし、サーヴィスは無神経であっけにとられた)。
いざ、クスクスの聖地へ
が、私にとって本命は、北アフリカ料理、というよりもずばり、クスクス料理である。元来クスクスに目がない私は、フランスに来るといつもクスクスが気になってしょうがない。日本と違って山盛りのスムール(蒸した小麦の細粒)と、どっさりと添えられた香気豊かな羊肉や野菜の煮込みは、思っただけで唾がわく。だから、街角でクスクス専門店が目につくと、入らずに済ませるのに苦労する。今回は『ミシュラン』を参考にして、パリで随一とされるクスクス料理屋に目をつけた。モロッコの小宮殿もどきの丁寧でこった内装を施した《ターブル・ド・フェス》である。場所は6区で、リュクサンブール公園から遠からぬサント=ブーヴ街と、えらく探しにくいところにある。とはいえ、批評家で人間通のサント=ブーヴの、肺腑を衝くようなポルトレ(人物スケッチ)を鐘愛する私には、大いに好ましい地名である。
さて、旅行疲れと連日の多めの食事に災いされて、当夜は食欲が細い。そこでやむをえず、野菜のクスクスを選んだ。ヴェジタリアン料理ならば、定めし胃にやさしいことであろう、と。当然のごとくモロッコ産の赤ワインに手を出したら、なんと皮肉なことに苦手な2大巨頭である、カベルネ・ソーヴィニョンとシラーの混醸酒。だが、例の癖が控えめとあって、ワインの味は悪くない。
ところで、そのクスクスは、実に繊細で肌理の細かいスムールが大皿に山盛りとくるし、味わい深いスープも洗面器ならぬ大型の陶器にたっぷり湛えられて登場。どちらもお代わり自由なこと、言うまでもない。クスクスに付きものである好物の香辛料アリサは、ねっとりとしたペースト状ではなく、赤みも薄くてサラサラしていて、あまり辛そうには見えなかった。ので、辛党の私はアリサをつい多めに頼んでしまったが、意外や、澄んだ辛味が大いに刺激的であって、頭も食欲も目を覚ました。
ほかにも、お手軽で人気の広東料理店や、ブルゴーニュワインの充実しているヴェトナム・レストラン《タン・ディン》などを歴訪した(むろん、仕事や用事が終わった後です)が、新スペイン風邪にやられることもなく、無事に「エスニック料理」巡りを終えることができた。帰ってみれば、ラシーヌ便りを書くことだけが残っていた。が、こんな具合に、お茶を濁させていただいたという次第。まあ、クスとでもお笑いあれ。