ビンの中身

2009.03.27   塚原 正章

 ワインのビンには、なにが詰まっているのだろうか? 「ワインに決っているでしょう。愚問ですね」という答えが、聞こえるような気がする。でも、そんなに単純な話だろうか。あらためて、もう一度、考えてみてもよさそうだ。

 まず、液体としては、たしかにワインと称する液状の物質が大部分を占めている。しかし、それが、本当の、あるいは、本物のワイン(real wine, vini veri)だろうか、という質問を発したとたん、問題がややこしくなり、本が一冊書けるスケールの議論になってしまう。それどころか、議論だけで決着がつくような問題ではなくなる。とすれば、ここの小さなスペースで扱うのは不適当、と逃げを打つにしかず。

 いずれにせよ問題は、ワインとはなんだろうか、という定義のしかたに関わってくる。でも、スピノザが言ったらしいのだが、「定義とは死である」という危険な面もあって、時間だけがかかる、空疎で不毛な概念規定ゲームになりかねない。

ワインは水?

 それでは、ワインと称する液体の主成分はなんだろうか? 主成分を物質の量だけでみると、ブドウのエキス(正確にいうとエキストラクト)が主成分とするのは、間違いである。答えは、水。80~85%が水だと、ものの本にはあった。ワインを乾溜した後にのこる灰状の物質(ミネラル分など)をエキスと呼ぶとすれば、エキスの量はせいぜいグラム単位でしかない。とすると、圧倒的な主成分の割合からして、ワインとは主として水である、といってよいのだろうか。いかにも詭弁的ではないか。

 シェイクスピアの『フォルスタッフ』の主人公は、いうまでもなく、太っちょで好色、でも憎めない悪漢のフォルスタッフ。だが、口ほどにもなく、勇気に欠けるみっともない振る舞いに及んだあと、あくまで自己弁護しようとするフォルスタッフが、次のような自問自答をする場面があった。

 「勇気とはなにか?」「言葉である」「それじゃあ、言葉とはなにか?」「空気である」 …なんだ、勇気とは空気に過ぎないじゃないか、としてフォルスタッフは勇気なんか問題にせず、笑い飛ばしてしまうのだ。

 その伝でいけば、ワインとは空気、ではなくて、水にすぎず、そんなモノに熱をあげたり、こだわるのは馬鹿だ、ということになる。本当だろうか。私の答えもまた、簡単。つまらないワインは、水も同様か、あるいは水以下である。逆に、マダム・ビーズ・ルロワの作になるブルゴーニュの逸品(たとえば、ヴォーヌ・ロマネ・レ・ヴォーモン2000)ほど、水から遠い液体はないこともまた、たしかである。とすれば、問題は水の量だけではないことが、明らか。

 主成分を物質の量だけで測ると、このような滑稽な間違いをしかねない。ワインをして、ワインたらしめるもの、いってみれば本質、のことを意味上の主成分とするならば、ワインの本質は水ではなくて、香気成分やエキス分ということになる。
そんなの、当たりまえじゃないか、という声が、また聞こえてくる。おっとどっこい、そうでもないのだ。『比較ワイン文化考』のなかで、麻井宇介さんは、ワインの本質を(乾燥地帯においては)水だ、と言っていたような気がする。ね、議論って、面白いでしょう!

 あほらしい、というつぶやき声が、またしても聞こえてくる。でも、いいじゃないか。先を続けよう。

ワインは文化

  ここで、もう一度、「ワインのビンには、なにが詰まっているのだろうか」と問い直してみたい。答えをかっこつきの「ワイン」だとしよう。それでは、「ワイン」とはなにか、という設問に、主成分や本質規定要因でないものを、私は想定したい。ボードレールならばワインの魂というところだろうが(『悪の華』)、散文的な私は、文化である、としたい。先にも書いたことがあるが、文化とは、“way of life”である。とすれば、特定の時間と空間のなかにおける人間の生き方が、ワインにかかわってくることになる。

 ここで、反論がまたしてもでてくる。「ワインが文化だとしたら、ワイン文化という言葉は、トートロジー、あるいは、入れ子の木箱みたいなもので、中身がない。おかしいじゃないか」と。お説、ごもっとも。麻井さんの『比較ワイン文化考』が、またしても火種になりそうだ。そのうえ彼の続編では、ワイン文化とワイン文明があまり定義なしに対比されていて、いっそう厄介なことになるのだが、それは故人の麻井さんにまかせておくほかない。ここではひとまず、ビンにはワイン文化ではなくて、ワインという文化が詰まっている、としておこう。

 さて、ビンのなかに文化が詰まっている、と考えると、ずいぶん楽しいことがわかる。中身が本モノだろうと、偽モノだろうと、それがそのワインを生んだ文化なのだ、としようじゃないか。むろんのこと、ワインには造った人の生き方が、体現されている。のと同時に、消費する人たちの価値観や欲求という、生活思想をもまた、ワインに反映されている。もちろん、特定のワインを輸入し、販売する業界人の生き方もまた、選ばれたワインによく映し出されているのだ。ブリア・サヴァラン流にいえば、選ばれたワインをみれば、選んだインポーターの生き方がわかる。というわけ。そう、人はさまざまなワインという特定の文化を造りだし、文化を選び、文化を売り、文化を飲み味わっているのだ。

文化の味

 「なに、文化の味ですって?」「そうです。」「でも、あまり、美味しそうじゃないな!」 「たしかに。」 もし、美味しくないのだとしたら、それは、造った人、扱った人、売る人、飲む人のどれか、あるいは全体にかかわる問題なのですね。

  そこで話は変わる。シチリアのエトナの地に拠って、エトナの固有品種で、エトナの歴史と文化の流儀でもって、ワインを造り続けている人がいる。その人の名は、サルヴォ・フォーティ。ところで、自作の「イル・カンタンテ」を紹介するために、忙しい合間を縫って、サルヴォが6月初旬に来日することが、このほど決った。ワインという文化と、エトナの文化のありようを考えてみるために、彼の話を聞きながら、彼のワインを飲み味わってみたい、と私はいま楽しみにしている。

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