武器よ、さらば
――シャンパーニュのサーベリング・考――

2009.02.25   塚原 正章

 あらすじ:平和主義者である私は、戦争と軍隊・軍人はむろんのこと、兵器や武器のたぐいが大嫌い。食卓やキッチンに、おっかなそうな武器まがいの品があるとゾッとして、飲食が進まない。もう一つの苦手は、表面的な取り繕いや見せびらかし。その二つが一堂に会すると、さあ大変。最悪の例が、シャンパーニュのサーベリングというパーティ・トリック。客の目の前で、栓をしたままのシャンパーニュの首をサーベルで刎ね飛ばす、という派手な芸当である。なにも、シャンパーニュをギロチンにかけなくてもよいのに。最近とあるブログに、私と同じような受け止め方をしているアメリカ人ワインライターの意見を見つけた(ただし後半では、ワイングラスの台尻で首を断ち切るのはスマート、と論調を和らげている)。思わず私は「著者に万歳2唱」と喝采を送り、前半の意見に賛意を表しついでに、ソースティン・ヴェブレンの「衒示的(つまり、見せびらかしの)消費」という名文句を用いた。案の定、件のグラス芸をしているブロガーから猛反発を受ける、というおまけがついた。100年前のアメリカ社会の病理現象を深くえぐったヴェブレンの言葉は、今でも毒ならぬ鋭さを秘めているため、人を衝くのだ。さても引用は、怪我のもとか。くわばら、くわばら。

 平和主義者の弁

 私は平和主義者だ。
――と書くと、吉川英治版『三国志』の愛読者ならば、ニヤッとすることだろう。第二次大戦後の平和運動に違和感を覚えた吉川氏は、いささか頭が弱くて好色な怪力漢・呂布が計略で捕えられたとき、呂布にこのような苦しい弁解を吐かせて、平和主義運動をからかったからである(ついでに言えば、邱永漢さんの現代語訳『西遊記』は、当時できたての警察予備隊(自衛隊)を揶揄するなど、社会風刺にいっそうとんでおり、藤代清二さんの挿絵もまたすばらしい)。

 近年、平和主義の旗幟を鮮明にしたのが、故・加藤周一氏や大江健三郎氏たちの「憲法9条の会」の活動である。より記憶にあたらしいのは、「エルサレム賞」を受けた村上春樹氏が、イスラエルの授賞式でおこなった、勇気あふれるスピーチだろう。ユーモアにとむ英語でもって村上氏は、イスラエル軍によるパレスティナ・ガザ地区侵攻に言及しつつ、現代の「高くて堅固な壁」である「システム」が自己増殖して、「壊れやすい卵」である私たちを組織的に圧殺する危険性を語った(スピーチの英語および日本語訳の全文は、47NEWSに掲載されているので、ぜひ参照されたい)。

 それでは、どのような意味で、私が平和主義者なのだろうか。たとえば私は、おおいに議論を好むし、武器を使わない武術家(たとえば合気の達人・佐川幸義氏)に興味があるが、暴力がなによりも嫌いであって、子供のころから肉体的な意味で喧嘩をしたことがない。こちらから手出しをしないのはもちろんのこと、殴られそうになれば口先で相手の気をそぐか、さっさと逃げるという戦法をとっていたのだから、子供ながら可愛げがなかった。逆にいえば、負けず嫌いな性分で口ばかり達者とくるから、なにごとによらず議論を戦わせ、論争を頭のスポーツとして楽しむ悪い癖が昔からあった。

 議論という争いごとの是非

 それでは、「ある店や料理が美味しいか・不味いか」をめぐる争いについてはどうか。相手が美食家であれば、私も(あるいは心中ひそかに)楽しい議論に仲間入りするかもしれない。が、このようなテーマはおよそ正邪や正誤にかかわりがないから、知的刺激が乏しいだけでなく議論が不毛になりがち。まあ、味や趣味の問題は個人的レヴェルにとどめて争いを避け、“a matter of taste”「蓼食う虫も好き好き」と放っておくに限る。

 ワインの味わいについても、あまり言い争いをするつもりはない。目の前のグラスに注がれたワインについて、主観的な判断や好みをいうことならば、だれでも難しくはない。けれども、特定の生産者とそのワインを客観的に品定めするとなると、相手もこちらもそのワインを熟知しているばあいは少ないだろうし、まして利害関係者に中立的な判断を求めても仕方あるまい。すでに何度も述べたとおり、良いコンディションでそのワインを飲み続けないかぎり、判断の基準となる経験が身に付かないはず。だとすると、極論すれば現地で経験をつんだ鋭敏なテイスターや専門家としか、話しても参考にならず、そのほかの議論は時間の無駄に等しい。

 さて、ビンのなかに文化が詰まっている、と考えると、ずいぶん楽しいことがわかる。中身が本モノだろうと、偽モノだろうと、それがそのワインを生んだ文化なのだ、としようじゃないか。むろんのこと、ワインには造った人の生き方が、体現されている。のと同時に、消費する人たちの価値観や欲求という、生活思想をもまた、ワインに反映されている。もちろん、特定のワインを輸入し、販売する業界人の生き方もまた、選ばれたワインによく映し出されているのだ。ブリア・サヴァラン流にいえば、選ばれたワインをみれば、選んだインポーターの生き方がわかる。というわけ。そう、人はさまざまなワインという特定の文化を造りだし、文化を選び、文化を売り、文化を飲み味わっているのだ。

文化の味

 「なに、文化の味ですって?」「そうです。」「でも、あまり、美味しそうじゃないな!」 「たしかに。」 もし、美味しくないのだとしたら、それは、造った人、扱った人、売る人、飲む人のどれか、あるいは全体にかかわる問題なのですね。

  そこで話は変わる。シチリアのエトナの地に拠って、エトナの固有品種で、エトナの歴史と文化の流儀でもって、ワインを造り続けている人がいる。その人の名は、サルヴォ・フォーティ。ところで、自作の「イル・カンタンテ」を紹介するために、忙しい合間を縫って、サルヴォが6月初旬に来日することが、このほど決った。ワインという文化と、エトナの文化のありようを考えてみるために、彼の話を聞きながら、彼のワインを飲み味わってみたい、と私はいま楽しみにしている。

▲ページのトップへ

トップ > ライブラリー > 塚原正章の連載コラム vol.20