塚原正章の「イタリア便り」①

2007.7.30   塚原 正章

 『イタリア紀行』といえばゲーテということになっているが、フランス派好事家のあいだでは、サド侯爵とスタンダールの作が有名。だが、あまり知られてはいないがフランソワ・ラブレーに、たしか『イタリア便り』と題する瀟洒な小冊子があり(渡辺一夫訳、限定版)、某枢機卿に同道したおりの、メモ的な道中書簡だったと記憶する。考えてみれば私のイタリアワインへの道も、多分にフランスの文化とワイン経由であったから、ラブレーもどきのタイトルを、大目に見ていただきたいものである。  さて、2007年6月上旬、にわかに思い立ち、イタリア中部から北部を慌しく駆けまわってきた。が、旅というよりは点(ワイン産地)と線(移動)の頻繁な繰り返しからなる生産者行脚に尽きるから、細かに道筋をたどるほどの興趣に乏しく、本人にとってすら味気ないことおびただしい。と言うわけで、慌しい道中で考えたことなどを中心に、かいつまんでご報告したい。

(1)波は強し、地球の温暖化
 ここ数年というもの、各ワイン生産地から異常気象の報が寄せられているが、生産者の直談に接すると、これは容易ならないという思いに駆られる。昨年の暖冬については、ピエモンテ(エリオ・アルターレ)でも、アブルッツォ(ヴァレンティーニ)でも、同じような現象が指摘されており、猪や熊が冬眠せず、「冬がなかった」とのこと。暖冬が野獣の生理を狂わせているのだ。むろん、ブドウもオリーブもまた影響を免れようがなく、イタリアのワイン生産地ではとりわけ、中部以南の地や平地にある畑で、影響が深刻と察せられる。冬が寒くなければ果樹は休眠して体力を養成することができず、翌年のヴィンテッジの質に影響する。また、果実の成熟期間中に昼夜の温度差が少ないと、炭素同化作用で得たエネルギー(糖分)が無駄使いされて果実に上手に蓄積されず、バランスを崩してしまう。したがって中期的にみれば、これまでブドウ栽培の適地とされていた地域や畑が徐々に適格性を失い、北部ないし従来やや不適地とされていたような寒冷地と、いっそう高地にある斜面畑だけが生き残れそうである。

 したがって、アペラシオン(原産地名規制呼称)もまた修正変更を余儀なくされそうだが、このアペラシオンなるもの、各国・各地における有力生産者群の〈既得権益確保〉というインサイダー志向が強いから、改定の難航もまた必至。とすると、客観的に信頼すべき地域ごとの適格条件保証が怪しくなるから、ワインの業界と消費者はともに、アペラシオンという指標や、ワイン雑誌や批評家の評価など、しばしば当てにならない外部情報に惑わされることなく、以前にもまして自分でワインを見分ける力量が求められることになるはずである。つまりは、過去の実績なるものが、根本的に問い直されることになるかもしれない。ただし、ここで思い出すのが、芳しくないヴィンテッジにこそ、実力があって柔軟な生産者が、ヴィンテッジの特徴をも映し出した良品を造りだすのに成功する、という傾向である。生産者の識別は、いよいよ重要な意味を帯びてくること、疑いない。

(2)ヴァレンティーニの場合は……
緊張にみちた初めての取材

 アブルッツォに籠もるエドアルド・ヴァレンティーニを最初に訪ねたのは、1999年の4月。ル・テロワール社を合田とともに創設・経営していた時代のこと。生産者とワインをより深く理解するための自主取材が目的で、おそるおそる「聖地」ロレート・アップルティーノにあるヴィッラの門をくぐった記憶が懐かしい。そもそも1995年、ヴァレンティーニのワインの素晴らしさを私たちに教えてくれたのは、バートン・アンダーソンであった。その経緯については、合田と共訳したバートンの『イタリア:味の原点をもとめて』(1997年、白水社)の後書きを参照されたい。例によって聞き取りにくい小声でバートンは、ぼそっとヴァレンティーニの名前を漏らしてくれた。以後機会さえあれば、イタリア各地と国内(エノーテカ・ピンキオーリ)で、モンテプルチアーノとトレッビアーノの両「ダブルッツォ」とチェラスオーロ(ロゼ)を好んで味わっては、いよいよ傾倒の度を深め、雑誌などのエッセイで紹介するまでになった。

 さて、面会は取材目的であったから、ビジネス上の話は一切おこなわず、エドアルドの哲学にひたすら聞き入った。書籍がとりまく知的雰囲気にみちた書斎のなかで、興がのるとエドアルドは、まるで朗誦するかのようにうねりのある節回しとよく響くバリトンで、語り続けた。同じトレッビアーノを2本開けてくれたのには恐縮したが、フルーティな味わいは、イタリアのレストランなどに出まわっていた当時のややドライな趣のものとは大違いで、スタイルの変化を窺わせた。また、オリーブオイルには、並々ならぬ情熱を注いでいることが伝わってきたので、本人言うところの「まだ試作途上品」を味わわせていただき、アブルッツォ料理のようにスパイシーで驚いた旨を話したところ、「オリーブオイルのほうがワインよりも、テロワールをよく伝えてくれる」と断言され、さらにビックリした。

ヴァレンティーニ再訪
 書斎でのテイスティングをしながら今回発見したのは、抜栓後に数ヶ月をかけて緩やかな酸化に導き、ボトルあるいはグラス(小ぶり)の中でワインの変容振りをフォローする、という手法である。基本的にはラシーヌも小規模ながらこれと同じやり方をとっており、特に生きている自然派ワインの成長していく姿を理解するために欠かせないと、私たちもまた考えている。

  ヴァレンティーニにおいてすら、あまりの暑熱のため、ケミカルな処置をいっさいしない農法と醸造には困難がともない、モンテプルチアーノ・ダブルッツォでは2003年と2004年、チェラスオーロでは2005年に、製品化を見送ったとのことである。2007年のワインについては、開花こそ例年より1ヶ月早かったが難しい年で、前年の暖冬の後遺症による影響を免れないとか。つまり、ヴァレンティーニのワイン哲学は、温暖化という厳しい試練のなかで鍛えなおされつつある、という印象を受けた。

抜栓後の酸化とフォロー
 書斎でのテイスティングをしながら今回発見したのは、抜栓後に数ヶ月をかけて緩やかな酸化に導き、ボトルあるいはグラス(小ぶり)の中でワインの変容振りをフォローする、という手法である。基本的にはラシーヌも小規模ながらこれと同じやり方をとっており、特に生きている自然派ワインの成長していく姿を理解するために欠かせないと、私たちもまた考えている。

セラーの中に、古樽が鎮座
 テイスティング後、初めてセラーの中を見学することが出来たが、むろん撮影は許されていない。ナポレオン・ボナパルト時代の、黒ずんだ樽(ボッテ)や規格容量の樽(バレル)が、手入れをされながら今でも現役で使われているのには、魂消てしまった。生ける樽の博物館という格好であった。 なお、別に熟成用のセラーを現在準備中とのことで、邸宅と道を挟んだ向かい側にある廃屋(かつてのワイナリー跡)を全面改装する予定とのことだが、ほとんど手付かずのままという有様で、前途は遼遠と感じられた。

世代交代について:
  現在47歳のフランチェスコが、ワインの仕事に手を染めたのは、20歳のとき。つまり、父エドアルドと26年間、畑とセラーで共同作業にいそしんでいたことになる。ということは、世に出ているヴァレンティーニの大半のワインは、親子の共作品であるといっても過言ではないのだ。エドアルドが亡くなって、世代交代を強いられた形ではあるが、さまざまなやり方でエドアルド流は健在である。天才エドアルドの流儀が、どのように形をかえてフランチェスコ自身の境地になるのか、時間をかけて温かく見守りたいものである。

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