ストレス・フリーに勝るものなし

2008.12.27   塚原 正章

 まずは、ぼやき話から。このところなぜか、耳の調子がよくない。自分の内外の音が「耳障りに」響くのでうっとおしく、CDの愛聴盤ですら聞きたくない。おまけに、女性が実際に話している高音が、かすかに倍音になって聞こえてくるという始末(残念ながら、誰かが他人に聞こえない声で囁きかけるのではない)。やがては、幻聴でも始まるのだろうか。

 そういえば、わが愛読書のひとつが、イヴリン・ウォーの『ギルバート・ピンフォールドの試練』(吉田健一訳、集英社)。主人公は著者ウォーを思わせるうるさ型の作家で、船室のスピーカーから主人公の悪口が幻聴で聞こえるのに悩まされる、という状況設定。著者とおぼしい主人公をからかいの対象とする、一筋縄ではゆかない渋いユーモア小説である。とど、船旅が終われば、悪意のある幻聴から目出度く解放されるという結構なのだが、ひねくれた主人公と(幻聴で聞こえる)意地悪な発言内容の組合せが、絶妙なのだ。ちなみに、ウォーその人も、都合の悪いことは聞こえなかった(聞こうとしなかった)よしで、実話と空想がない交ぜになった(他人ごとならば面白い)ブラックコメディーである。

 が、もしもこれが実際にわが身におこったら、さあ大変。というわけで、オフィスの近所にある名医のもとに駆け込んだ。先生いわく、聴音テストの結果では、当初は低音域がやや聞こえにくかったけれど、一週間の服薬で聴音レヴェルが上がり、特に高音域の聞こえがよろしい、とのご託宣。心身がふたつながら一時的にストレス過剰になったせいだろう、とのことである。つまりは、あまり根を詰めて仕事をするな、というわけ。それに、まだ、高声域の倍音がとれない。

 しめた、これで仕事がさぼれるぞ。と、前にもまして書物をしこたま買い込んだ。年末年始は、読書三昧を決め込む、とすでにまわりにも触れまわった。今月のエッセイは、そんなわけでストレス防除のためにお休みです。読者の皆さま、あしからず。そいじゃ、また!(吉田秀和さんのラジオ番組のイントネーションを思い出してください)

 と、書きかけたが、ストレスつながりで思い出したことがある。《ワインにストレス無用》というわが年来の説があったではないか。この際、年末大サーヴィスで、ご披露しよう。

 そもそも、ワインは本来、ビンの中に詰まった生命ある液体であることを、忘れてはいけない。むろん、世の中には、「もとワイン」、つまりは死んだ液体や腐敗した液体になっているものもあれば、SO2などの化学物質がどっさり盛り込まれている化学溶剤もどきの液体もある。逆に、優れもののワインには、大地の気や造り手の精神があふれていることもある。それらを口に含んでみても、ワインの亡骸や薬剤をあてがわれたワイン類似品であることに気づかない者もいれば、溌溂とした生命力に驚嘆し共感する勘の良い生活者もいて、飲み手もまた千差万別なのだ。いずれにしろ、ビンの中になにが詰められているかは、一般には前もって判りようがない謎である、としておこう。

 ビンの中に生きた生命体であるワインが詰まっていることを、まず前提として、次に進もう。その際、視点を飲み手の側におかず、ワインの立場から見ることが大切だ。ブドウの果汁(マスト)と酵母が同居をはじめるやいなや、樽やタンクのなかで懐妊(発酵)がはじまり、樽などの容器のなかで胎児として育てられ、数年がかりでビンの中で一人前に成長する、というところまでが、ワインの前史に相当する。さて、ビンの栓が抜かれ、グラスの中にワインが注がれることから、ワインの「真の人生」が始まるのだ。

 いってみれば、《セミの幼虫が7年間ほども地中で養分を吸収したあげく成虫になり、めでたく地上に躍り出てカラを脱ぎ、僅かな期間だけ高らかに鳴き声をたてるプロセス》と、《ワインが充分に熟成をとげたあと、グラスに次がれて、数時間だけ美味を奏でるというプロセス》とは似た関係にあり、セミとワインの間にはアナロジーが成り立つとみてよい。いわば、夏の日に高らかに響くセミの鳴き声は、ハレの時間のカーニヴァルなのだが、グラスに注がれたワインが、持ち前の複雑で優雅な風味を放つのも、時間の芸術なのだ。

 グラスに注がれるまでに、理想的なセラーのなかで安眠し、充分な熟成を遂げたワインが、ボトルの中に息づいているとしよう。この命ある、しかもフラジャイルな(傷つきやすい)液体には、神経を使いすぎるということがない。もちろん、揺すらずにセラーから取り出し、なるたけ急激な温度変化にさらさず、できたら「揺りかご」(クレイドル)にもたせかけ、ビンに衝撃を与えないようにしながら、そっとコルクを抜く。この「安産」に導くのが、ソムリエあるいは主人側の役割である。

 抜栓したワインから、グラスに注ぐまでが、次の段階である。前もって用意された、臭いの付いてないクリーンなグラスに、ワインをどう注いだらよいか。まだ眠りから覚めない(固い)ワインと、すでにほぐれかけているワインでは、注ぐ際の力のかけ方が違い、ワインの液体の中に注ぐやりかたと、グラスの壁にそっと当てるように注ぐ(とりわけ、シャンパーニュに適したやり方である)、という方法に分かれる。が、いずれにせよ、覚醒を促すと称して「高い(長い)距離から荒々しく注ぐ」のは無謀である。ワインがグラスの中で目を覚まし、息づくのを、待とうではないか。

 さて、グラスの中心部に、細い放物線を描きながらワインを注ぐのは、そう容易くはないが、それだけではまだ、ワインにストレスを与えすぎである。放物線は卑猥な連想を招くだけでなく、余計なエネルギー(すなわちストレス)が加わっているのだ。理想は、グラスの中心部に向けて、ボトルの口から真下にむけて、重力だけを用いて、揺らすことなく細い一直線で垂直に注ぐこと。これを私は「ストレス・フリー・ポーアリング」と称している。この注ぎ方は、慣れないとなかなか難しいのだが、ここで秘訣を公開しよう。

 空中の一点を「架空の支持ポイント」として想定するのだ。この不動の支点を中心にして、ボトルのお尻をそっと持ち上げ、手先ではなく腕全体でもってゆっくり角度を調節すればよい。ボトルの口を定点として、ワインが重力だけで自然に落下するという仕掛けである。種を明かせば、なんということは無いし、心ある造り手はすでにワインセラーで重力だけでワインを移動させる仕組みをつくっている。重力しか用いない垂直式のストレス・フリーな注ぎ方をされたワインは、無傷なうえ歪まずに活性化を促されているから、必ずやグラスの中でやさしい味わいを発揮し、飲み手をうっとりさせること、間違いない。

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