麻井宇介論・補説

2008.11.27   塚原 正章

 前号では、お約束どおり(といってもだいぶ遅くなってしまったが)、麻井宇介『ワインづくりの思想』について、考えの一端を述べてみた。結果、前・後の架空対話篇をふくめて、A4判で約10ページの量になってしまった。にもかかわらず、急いでとりまとめたため(だけでもないが)、論を尽くしていないところが多い。そこで、舌足らずの論を少しばかり補おうと思う。

 とはいえ、またしてもフランスとイタリアを旅行中とあって、手元に参考文献がないうえ、あいにくコンピュータも故障して使えないため、例によって記憶にたよって走り書きをする破目に追い込まれた。ゆえに、不正確な記述になるだろうことをご承知のうえで、意を補ってお読みいただくよう、あらかじめお願いするしだいである。

1.麻井さんのこと
 麻井さんとは、深いお付合いこそできなかったが、公私をふくめてしばしばお会いし、手紙でもやり取りをさせていただいた間柄なので、このエッセイではあえて「さんづけ」で呼ばせていただく。「公」というのは、かつてわが勤め先でマーケティング作業(クライアントの市場分析、商品開発、コミュニケーション戦略の構築など)に携わり、短期間ながらメルシャンを担当していたとき、広告担当の部長をされていたのが麻井さんだった。そこで、麻井さんから背景的な話をうかがったうえで、意見を交換し、プロポーザルを出させていただいた。ここでは、悩み多き実務家・麻井宇介(というより、浅井昭吾)さんの、考えと姿勢に触れたわけである。

 公的な接触にくらべれば、私的な面でのお付合いのほうがずっと長く、通算すれば30年くらいになっただろうか。といっても、純粋に私的な飲み食いや議論といった場面はあまりなくて、麻井さんを囲む小さな会で歓談した程度のことが多い。その延長線上で思い出すのは、ボルドーの5大シャトーの1945年ヴィンテッジを味わう会が開かれた際に、隣席させていただいたときのことである。ムートン・ロッチルド1945の番になったとき、「これは(絶好の天候に恵まれた)ヴィンテッジの味わいですね」と、感心しながら麻井さんはしみじみと仰った。その会でのこと、シャトー・ペトリュス1945を抜栓したら、コルクには1961と記されていて、出席者一同おおいに魂消たものである。が、主催者はすぐさま「次回にペトリュス1945をご用意いたします」と確約し、そのとおりに実行されたことを付け加えなければならない。いずれにしても、麻井さんとともに歴史的なフェイク事件に立ち会った記憶は、いまだに生々しい。

 ワインライターとしての麻井さんとは、手紙や書評をとおしてのお付き合いが主であった。『比較ワイン文化考』については、知られざる業界誌に連載中のときから注目・評価していたと私が記したとき、麻井さんはずいぶんと喜ばれた。著者というものは、熱心な読み手に支えられており、そのような読者との出会いほど励みになるものはない、とのことだったが、そのような喜びを私が感じたのは、だいぶ経ってからのことになる。

 さて、麻井さんに比べればこちらは業界外の若造だったから、対等なお付き合いではない。けれども麻井さんは、こちらの生意気な意見にも耳を貸してくださり、自説に非があれば喜んで認めるという、大人(たいじん)ぶりであったから、論争にいたりようがない。

 麻井さん亡きあと、この国で本格的にワインを語り合いたい論客が見当たりにくい現在となっては、麻井さんと大いに論争しなかったことが、かえすがえす残念である。

 もし、麻井さんといま、遅ればせの議論をすることができるならば、やはり、テーマはテロワール論になるだろうか。あるいはこれを、文化と文明といいかえてもいいだろう。が、本格的にこれを論じる機会は別のときにしよう。あえていえば、麻井さんには、文化と文明の複雑で多様な関係に深い洞察を加えた、川喜多二郎『素朴と文明』(講談社学術文庫)を咀嚼しておいて欲しかった。それはさておき、旅の身のうえの今は、テロワールについて断片的なスケッチだけを加えて、前月号の補論としよう。

2. テロワールについて、私の知っている2,3のことがら
1) テロワールは実在するか

 テロワールは、現実に個別に存在するのだろうか。あるいは、概念ないしカテゴリー、つまりは認識のための道具(言葉)にすぎないのだろうか。

 中世西欧の普遍論争においては、類の概念(普遍概念)が実在する、という見方がなぜか「実在論(リアリズム)」と呼ばれ、それに対して、類の概念は名前(言葉)としてのみ存在し、実在するのは具体的な個物である、という考え方が「唯名論(ノミナリズム)」と呼ばれて、真偽が争われた。けれども、このような神学論争をテロワールにもちこむと、ただでさえ厄介な問題がいっそう複雑になりそうなので、「テロワールの神学論争」にはあまり深入りせず、自分の立場を明確に設定するしかない。

 これを要するに、一種の方法論的不可知論とでもいおうか。いわば、プラトンの考え方に戻って、「人間の不完全な感覚では、イデア(テロワールの理念)を正しく認識できないとすれば、理性によってしか捉えられない」というのにちかい。より具体的にいおう。

 「テロワールとはなんであるのか」という概念を、それを規定する要素をもれなく挙げて客観的に定義することができたとしても、テロワールのワインに対する影響関係(因果関係)が一義的かつ具体的に決らないとすれば、それは定義ではなくて仮説の域をでない。クロード・ブルギニョンの考え方が、いまのところ、もっとも説得力のある実在的なテロワール仮説のひとつかもしれない。が、畑のなかの微生物の状況、活動と作用が、土壌(ひいてはブドウ、したがってワイン)に及ぼす効果をもって、テロワールであるとするならば、いささか短絡的な感がなくもない。

 空中の一点を「架空の支持ポイント」として想定するのだ。この不動の支点を中心にして、ボトルのお尻をそっと持ち上げ、手先ではなく腕全体でもってゆっくり角度を調節すればよい。ボトルの口を定点として、ワインが重力だけで自然に落下するという仕掛けである。種を明かせば、なんということは無いし、心ある造り手はすでにワインセラーで重力だけでワインを移動させる仕組みをつくっている。重力しか用いない垂直式のストレス・フリーな注ぎ方をされたワインは、無傷なうえ歪まずに活性化を促されているから、必ずやグラスの中でやさしい味わいを発揮し、飲み手をうっとりさせること、間違いない。

 逆に、ワインの風味と味わいのなかに現われ、風土の特徴からでしか説明しにくい要素のことを、結果的にテロワールと呼ぶことにすれば、議論がすっきりするのではなかろうか。いずれにしても、このテロワ-ル観は、味覚と嗅覚だけをつうじて感じとることができ、理性によって推測することができる「目に見えない存在あるいは作用」に対する命名である。かなり抽象的な観念論であるかもしれないが、私はここに立つ。

2)テロワールは補助線であること
 ご存じのように、初等幾何学の証明に用いられるのが、補助線である。たとえば、「直角三角形の斜辺の平方は、他の2辺の各平方の和に等しい」というピタゴラスの定理を証明する際に、補助線の引き方は多数あるというように、補助線はいろいろな引き方があって、証明するのに有効であるならば、どれであっても構わない。けれども、証明の仕方には、初等数学でも同じことだが、力技をふるっただけの汚くて味気ない方法もあれば、シンプルかつ優雅で美しい方法もあることは、その美技に接した方はみな、ご存じだろう。

 そこで、ワインの味わいをさまざまな要素でもって分解して成り立ちを説明しようとするとき、補助線として目に見えない「テロワール」を想定したばあいに、ワインで肝心な特徴的な味わいがもっともよく説明されるのである。補助線は可視的なのに、テロワールは不可視ではないか、とするのは誤った議論である。なぜならば、いうまでもなく線とは面の交差した接点の連続したものであって、質量をもたない存在である(ちなみに、点は線の交点であって、これまた質量をもたない)が、説明上、図上で目に見える線という形をとっているだけのこと。かつて、安部公房はエッセイのなかで、「消しゴムで書く」という名セリフを残しているが、補助線もまた消しゴムで書いた文字のようなもの。考え抜いた人の頭のなかで、波紋のように鮮やかな軌跡を描くのである。テロワールは、味わいにその跡を辿ることができなければ存在せず、無いも同然である。「見える人には見える」――これが補助線とテロワールに共通する本質であって、しかも、美味なワインには美しいテロワールの補助線が引けるはずである、と私は確信している。

3)認識概念と操作概念
 かつて、社会科学の方法論を学んだとき、参考になった考え方が、ものごとを認識するための(客観的な)「認識概念」と、人間や社会を動かしたり扇動したりするのに便利な「操作概念」という分類法であった。わたしにとって「テロワール」とは、ワインの味わいという感覚でしか捉えられない世界を、より深く認識するための分析的な概念(先の言葉でいえば、補助線)である。けれども、過去の伝統と確証を経ない信念によって支えられてきた有名ワイン生産地では、テロワールとは、運命によって定められたに等しい「約束の地」の別名であって、その言葉を用いることによって、他の産地との決定的な違いがあるということを差別的に示し、認めさせるための用語であった。とすれば、操作概念としてのテロワールが、その信仰を共有しない他の生産地や生産者から受け入れられるわけがなかった。この認識において、麻井さんと私は共通している。

4)テロワールは気である
 ここからさらに論を進めて、気と風水の考え方をテロワールに援用すると、麻井さんや他のワイン論者と私は、おおいに見方を異にすることになる。が、少し前に私が比喩として持ちだした気の考え方は、説明がちと難しい。ここは、社会人類学者の渡邊欣雄『風水 気の景観地理学』(人文書院、1994)から引用したほうが、よさそうだ。

「風水」とは、大地にはたらく「気」の作用を感知して、それが人間生活、かつまた祖先に
好影響が及ぶよう、環境から造営物までを気で整える東アジア独特の方法論をいう。
(中略)「風水」とはなにか、さらにここでいいかえるなら、それは「風」と「水」という地上の
可視的な現象を観察することによって、不可視の天然自然の原理を探る方法論であると
いいうる。この不可視の原理こそ、「気」である。「気」とはすなわち万象の動源である。》

 最近の海外の新聞報道によれば、風水(Feng-shui、フンシー)の考え方は、欧米でもポピュラーになりつつあるようで、一般読者向けの英語文献も少なくないとか。だが、風水にはやや怪しげな予言的性格や中華思想的な偏見がまとわりついているから、妄信的に近づくのは危険である(“Bad, mad, dangerous to know。”:バイロンについていわれた言葉)。けれども風水とは、天地(自然)と人間に共通する動因として「気」を設定し、「気の流れを読み取って自然に人間から作用を加えることによって、気の流れに乗ずるような生活空間を構築する」という、「天地人一気」の生活哲学である(同書)。

 とすれば、風水思想は「環境決定論」(照葉樹林論や和辻風土論)とは決定的に異なる、気を媒介とした地人相関論であって、これをテロワールと人間の相互関係説といいかえることができる。そういう観点からすれば、和辻の皮相的な観察を援用する麻井理論は、自然と人間の可塑的な相互関係である文化の深い理解に欠ける、といわざるをえない。が、そんなことはどうでもよくて、「自然と文化を対立関係とみなす二元論より、運動とエネルギー(気)の一元論」のほうが、世界を動態的に解釈し、可能性としてのテロワールに働きかけることが可能になるのではなかろうか。

 ロジェ・ディオンを引用するまでもなく、優れた自然条件を体現しているかのようなワイン産地が、多分に人為の賜であることもまた確かである。自然に潜むテロワールの可能性を発見することは容易ではなかろうが、人間が自然に働きかけてテロワールを造りだす可能性もまたあるのだ。

5)テロワールを実現するのは人間か、それとも?
 テロワールが可能性として有する風土の特徴を実現するのは、麻井さんによれば、つくり手ということになる。が、それは、あまりに生産者優位の思い上がった考え方というべきである。可能性としてのテロワールをワインに媒介するのは、まずもってブドウの木とその果実でなくてはならない。そしてブドウ果をワインに転換するのは、酵母であるはずだ。ブドウの木と酵母の働きを促進または阻害するのが人間の技あるいは知恵なのである。とすれば、人間の役割を主役として過大評価するのは、生産者あるいはワインライターの驕りであるといわざるをえない。ワインづくりのなかで、人はあくまでも脇役にすぎない。

 ここで、「ミニマム・インタヴェンション」(最小限の人間的な関与)という考え方に、あらためて注目したい。ワインを可塑的に作りうると考えるのではなく、ワインを生み出す産婆の役割をするのが、本来の優れたワイン生産者なのである。

 このほど、エトナの至宝ともいうべきワイン生産者にしてエノロゴである、サルヴォ・フォーティこと、サルヴァトーレ・フォーティとじっくり語り合う機会をえたことは、本号の合田レポートでお伝えするとおり。エトナのテロワールと文化を深く理解し、エトナをこよなく愛するサルヴォは、地元で優れたティームワークをおこない、ついにイル・カンタンテという感嘆すべき赤・白のワインを生み出した。が、そのワインの作者にいくらオマージュを捧げようとしても、サルヴォは受け付けようとしない。なぜならば、ワインは「エトナから生まれたのであって、私がつくったものではない」からだ。

 これは、単なる謙遜の言葉として受け止めるべきではない。真の天才こそ、己の限りある力量と役割を自覚しているのだ。ここで、浜辺で砂の粒を見つめながら、力足らずな人間のわざについて率直に認めた、アイザック・ニュートンの逸話を思い出してもよい。生産者は万能からほど遠い存在なのだ。それを悟らざる生産者の手になるワインはまた、完成ともテロワールとも、ほど遠くて無縁なこと、疑いない。

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